弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 北関東廻り(三)

渡良瀬川。美しい川の名だ。九州の田舎にいた高校生の頃から、この川の名はよく知っている。森高千里さんの「渡良瀬橋」を耳にしていたからだ。今でも冬の落日黄昏行きに、この曲を聴きながら私のあの頃を思い出すことがある。渡良瀬川皇海山を水源に、群馬県と栃木県を潤しながら、茨城県古河市にて利根川へと合流する。栃木県南西の中核都市足利は、小京都と呼ばれるに相応しい歴史と風情ある。この町が好きで、私は何度か訪ねている。私が北関東に住むならば、迷わずに足利を選ぶであろう。この町には歴史だけではなく、何故か不思議な魅力がある。そして来るたびに住みたいと思わせる風景や人に出逢う。森高千里の歌があるからだけではなく、「たそがれる」にはこれほど良い町はない。日光の峰々や赤城山から降りてくるからっ風に吹かれながら足利の町を歩くと、この町にしかない時の流れが、私の中にも徐々に流れ始め、やがて芯から満たされてゆく。都会の雑踏から離れると言っても、私などはあまりの辺境では暮らせるわけもない。都会過ぎず田舎過ぎず、ちょうど良い規模の足利の町には、どこか懐古的な情緒があって、郷里を思い出すところもある。それに相乗効果をもたらすのが、かの名曲「渡良瀬橋」。渡良瀬橋足利市の真ん中に架かる橋で、現在の橋は昭和九年(1934)架橋。鉄道橋のような見た目だが、こういう橋の構造をワーレントラス橋というらしい。橋は自動車専用だが、平行して西側に歩行者用も架けられている。二十年以上前、私は初めてこの橋を見た時、無機質な鉄骨に半ばがっかりしてしまった。渡良瀬橋の歌のイメージにそぐわぬ武骨さを感じたのだ。だが歳を重ねて、改めて渡良瀬橋を渡ってみると、なかなか格好良いトラス橋だと思い直した。夕陽の中で眺めると、あの竜の骨のような鉄骨が美しい影となって、それがかえって郷愁を誘うのである。渡良瀬川は足利のあたりでは天井川で、昔から治水には苦労したと思うが、この川がこの地を肥沃にして人々は集った。明治の足尾鉱毒事件の時は、有毒土砂が渡良瀬川を降り、折からの台風で天井川は氾濫、地域を汚染し土砂は堆積したという。鮎が大量に死に、稲は悉く立ち枯れた。日本最初の公害事件である足尾鉱毒事件の現場が、渡良瀬川流域であったことが、今は信じられないような気がする。が、東日本大震災では有毒土砂が堆積した源五郎沢が決壊し、渡良瀬川に流れ出てしまった。あの時下流からは基準値を超える鉛が検出されたのである。発覚から百年以上経過した今でも、この公害は影響しているのだ。これは完全なる人災であって、実に恐ろしいことである。人間が自滅するために、怒りし大自然が働きかけているような気がしてならない。

足利氏は、尊氏が室町幕府を開き、三代義満の時に日本史上、類を見ないほどの権勢を手中にした。義満は左馬頭、征夷大将軍、参議、左近衛中将権大納言、右近衛大将、右馬寮御監、内大臣左大臣、蔵人別当、後円融院別当、源氏長者、准三宮、淳和奨学両院別当と昇進し、太政大臣にまで昇りつめる。明王朝には日本国王であると宣言し、さらに死んだのち、鹿苑院太上天皇諡号まで贈られた。これだけの位人臣を極め尽くした日本人は後にも先にもいない。義満は花の御所と呼ばれた邸宅を禁裏の北に造営し、南面する天子をそれよりも北面から圧するかの如く支配した。足利氏の発祥の地とされるのが、ここ足利である。八幡太郎義家の四男源義国は、下野国足利荘を領した。その長男の義重は上野国新田荘を領し後に新田氏の祖となり、次男義康がここで足利を名乗り祖となった。足利氏は源頼朝の縁戚として鎌倉幕府創設に尽力し、北条執権時代も有力御家人として手堅くつきあい、この足利の地を治めた。足利氏は名門中の名門なのである。ゆえに鎌倉幕府が滅んで後、南北朝時代に改めて台頭した。栄枯盛衰の室町幕府が滅んでも、古河公方として上野、下野を領し、その後もしぶとく生き延びて、分家、支流に血をつなぎ、徳川時代にもそれなりに遇されている。ただし足利氏が徳川時代に領したのは、足利市からすこし離れた喜連川藩(現在の栃木県さくら市)であった。喜連川藩の石高はわずか五千石で、万石以上が大名とされた江戸幕藩体制下で、大名ではないがしかし旗本でもない、だが外様大名の格は与えらていると云う、江戸三百諸侯でもまことに特殊な家柄であった。天正十八年(1590)に秀吉の命により、足利国朝が古河公方を継ぎ、喜連川を領したのが、喜連川家のはじまりで、江戸幕府もそのまま幕末までその領地を保証した。石高は少なくとも、古河公方の名跡と足利氏の由緒を慮り、破格の待遇が与えられていたのである。一方で足利も足利藩となり、本庄氏や戸田氏の譜代が治めているから、江戸幕府も枢要な地とみなしていたのだろう。

その足利氏の館跡が今では寺となっている。金剛山鑁阿寺である。鑁阿寺は、元々は足利氏の館であり、現在も堀を廻らし、石垣や土塁があったりして中世の武家の館を彷彿とさせる。建久七年(1196年)に足利義兼が真言密教の僧理真を招き、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂を建立したのがこの寺のはじまりとされる。義兼の戒名から鑁阿の字をもらい鑁阿寺となった。戦前までは真言宗豊山派に属していたが、昭和二十六年(1951)に独立し、真言宗大日派の本山となった。境内は落ち着いた堂々たる古寺であるが、外見はやはり寺という感じがしない。今では足利氏の居館として日本の名城百選にも選ばれているそうだ。鑁阿寺がことに大きくなったのは、やはり足利家が武家の棟梁となってからであろう。将軍家、鎌倉公方家から、足利家の氏寺として手厚く庇護された。正安元年(1299)に建立されて、室町期に大規模な改修が施された本堂は今や国宝である。鑁阿寺密教寺院であるが、本堂はまことに質朴で、禅宗様式が多分に垣間見られる。どこかの禅寺の仏殿のような造りであり、どこまでも坂東らしく、西国にはない唯一無二の趣きが、足利の原点となっている。西国にはないと書いたが、たしかに京都の等持院相国寺も、足利氏縁の寺は質実剛健である。鹿苑寺だって舎利殿以外は質素な佇まいであって、それが金閣を際立たせている。そして足利の無限の極致は必然的に、慈照寺銀閣を生み出したのだと思う。鑁阿寺は本堂以外にも、鐘楼や一切経堂、多宝塔もすばらしいが、何といっても私の目を惹いたのは、正面の楼門と太鼓橋である。威風堂々たる楼門と、屋根のついた優美な太鼓橋は十三代将軍義輝が再建したものらしい。私の想像では、かつて日本の市中の寺というのは、こうした佇まいをみせていたのではないかと思わせるところがある。足利が面白いのは、京都と鎌倉が絶妙のバランスで混在しているという点であろう。それは他の名だたる城下町や門前町とも違う。そして京都や奈良=天皇の御座所のある都ともまた違う。京都と似ているのはあくまでも室町幕府の周囲であろう。鎌倉は城下町にはならず、寺社は多いが門前町というわけでもない。つまりは武家地なのである。その中心が花の御所であり、大倉御所であった。足利もそれに習い踏襲されて、町が造られていったのではないかと思う。或いは鎌倉や京都がそれに倣ったのかもしれない。いずれにしろ昔も今も足利の核は、この鑁阿寺なのである。

鑁阿寺にほとんど隣接して足利学校が在る。ついでに寄ってみた。足利学校は日本最古の学校として有名だが、私は何度か足利に来ているのに、これまで機会がなく入ったことがなかった。鑁阿寺と並ぶ足利観光のハイライトで観光客が多い。足利学校は、奈良朝末か平安初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられるが、明らかでないらしい。確実なのはやはり室町時代になってからで、永享四年(1432年)、関東管領上杉憲実が足利を治めるようになり、衰退していた学校再興し、鎌倉円覚寺から僧快元を招いたり、蔵書を寄贈した。その結果、北は奥羽、南はなんと琉球まで、学徒が集まり、足利学校は東国最高学府としてその名を馳せた。上杉憲実は実に熱意溢れる儒学教育者であった。特筆すべきは、文安四年(1447年)に足利学校で教えるべき学問は、三註、四書、六経、列子荘子史記、文選とし、仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであるとしたことだ。教員は禅僧などの僧侶であったものの、教育内容から仏教色を排したところに特徴がある。足利学校の教育の中心は儒学であって、それを象徴する孔子廟が中央に在る。快元が易学にも精通していたことから、易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、また兵学、医学なども教えた。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。校内には菜園や薬草園もあり、学校と、近隣の民は互恵関係で結ばれていたのだろう。足利の民はこぞって学生を支え、学校が在ることを何よりの誇りとしたに違いない。一時は三千人もの学生がいて、足利は足利学校によって盛況した。この頃の足利学校の様子を、フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして、最も有名な坂東のアカデミー」と記している。ザビエルが足利学校を訪れたのかは知らないが、日本人の気質を気に入り、褒め称えているザビエルは、日本人の教育にも関心があったに違いなく、足利学校の噂を聴いていろいろと調べていたのだろう。ザビエルによって南蛮にまで足利学校の名が伝えられたのは確かだと思う。天正十八年(1590)の秀吉による小田原征伐で、後北条氏と繋がる足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。衰退極まれりというところで、家康の保護を得て息を吹き返した。江戸期には足利学校へ百石の所領が寄進され、代わりに毎年正月にはその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出した。足利藩になってからも足利近郊の人々が学ぶ郷学として親しまれ、足利は名だたる文教の町になる。だが、朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また天下泰平となって易学、兵学などは学問として衰微していった。しかし江戸期の学者たちが、足利学校は貴重な古典籍を所蔵する図書館として注視しており、それを受けて幕府も足利藩に学校を存続させたのである。明治維新後、廃藩置県を経て廃校。足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により蔵書と孔子廟を含む旧足利学校の西半分が、県から地元に返還され、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立した。大正十年(1921)年にようやく足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は、国の史跡に指定され、保存がはかられることになった。そしてついに平成二年(1990)に建物と庭園の復元が完了し、往時の美しくも偉大なる足利学校が現出したのである。入徳門という正門を入ると、美々しい石畳の道がまっすぐと孔子廟まで続いており、ちょうど真ん中に有名な「校學」の扁額を掲げた学校門がある。かつて日本の雄藩の城下町にあった藩校は、規模は様々であるが、もしかすると足利学校を手本としたのではあるまいか。方丈などはまったく禅寺のようだが、これが日本の学府のもっとも古典的な佇まいではないかと思う。広々とした庭園からは足利の周囲の山々を遠望できて、実に懐古的な気分に浸ることができる。足利学校は、成立の時期が曖昧で、かねがね論争になってきたが、いずれ上杉憲実が整備した学校であろうと私は思う。が、そんなことは歴史家の考証に任せればよくて、個人的には文教の町として、何とも清浄な空気というものが、この足利学校から足利の町へ、沁み渡っているように思った。足利市は学び舎の町である。

 足利市街を離れて、北の山中や山麓にも古寺が隠れている。有名なのは、関東の高野山とも云われる浄因寺だが、此度は時間がなくて断念。しかし、匹敵するほどの古刹鶏足寺へ行ってみた。鶏足寺は大同四年(809)、東大寺の僧定恵によって創建されたと云う。実に千二百年以上もの歴史ある寺なのに、あまり知られていないところが、私には好ましかった。建立からしばらくは世尊寺と号し、天台と真言の兼学道場であったと云う。天慶二年(939)、将門の乱が起こり、藤原秀郷が鎮圧に赴く。世尊寺の住持は秀郷の勝利を祈願し、密教の法力で将門を調伏するため、土でつくった将門の首を供えて七日七晩祈祷した。が、八日目に住持はとうとう眠ってしまう。すると夢の中で、三本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけている。住持が鶏の笑い声で目を覚ますと、土像の首には鶏の足跡が三つ付いていたという。その後も祈祷を続けること十七日。ついに将門の乱は鎮圧された。この少々薄気味悪い寺伝が鶏足寺の名の由来であるとされる。文永六年(1269)下野薬師寺の慈猛(じみょう)を迎え、真言宗慈猛流総本寺となり、往時は末寺三千もあったと云う。密教の道場として栄えていたのだが、先に挙げた浄因寺にしろ、ここ鶏足寺にしろ、下野は紀州高野山とは何か対角的な真言密教の聖地とされたのであろうか。思えば、下野には天下の三戒壇のひとつ下野薬師寺があり国分寺もあった。中世以前、東国坂東においては下野こそが、政治も、宗教も、文化も中心地であったことを示している。真言密教もこの地に根差す下地のようなものはあったに違いない。鬱蒼たる森に囲まれてひっそりとある鶏足寺は、竹林があり、池があり、桜や楓もさりげなく植わっていて実に雰囲気のある寺である。山門を潜ると長い杉木立の参道で緩やかな登りになっている。石段や敷石もなく、舗装もされていない道は、古来の参道そのものであって、歩いた人々の足跡が残っていた。寺の正面は石垣に囲われていて、出城か砦の様にも見える。勅使門を入っても境内には誰一人いなかった。時々何処からともなく百舌の声がする。その声は静寂を切り裂くように、秋の山寺の境内に響き渡る。現在の伽藍は、釈迦如来を本尊とする本堂と庫裏、奥に不動堂と閻魔堂があるきりだが、殊に閻魔堂のあたりは雰囲気が良い。まことに閑寂な今の鶏足寺に、私は魅せられてしまった。さらに奥は森がのしかかるように迫り、森と寺はまったくの地続きである。日も傾きかけたこの時、森の中はもう闇が支配していた。逢う魔が時の杣道は、ぽっかりと黒い口を開けて引き摺り込もうとするようであった。そういうこの世ならぬ、ただならぬ雰囲気に充ちた境域は、いかにも真言密教の寺らしいと思ったりした。

知人のKさんに足利に行くならついでに、隣の群馬県太田市にある「どんりゅうさま」にも行ってみたらと言われた。「どんりゅうさま」。恥ずかしながら私は此度初めてその名を知ったのだが、「どんりゅうさま」とは戦国時代から江戸初期の僧呑龍上人のことで、この地域の人々には今も厚く信仰されていることがわかった。慶長十八年(1613)、家康が自らのルーツとし、徳川の祖の一人として中世に上州を領した新田義重を祀る寺として、呑龍を招いて開山した寺が浄土宗義重山大光院新田寺である。この寺が呑龍さまと呼ばれて親しまれているのだ。果たして呑龍さまは、徳川の威光を見せつける大寺であった。だが、至る所に呑龍上人の名を刻んだ碑や板が掲げられていて、東京の増上寺や、京都の知恩院に比べたら徳川色は薄く、むしろ呑龍上人一色の寺であった。境内の一番奥には、新田義重と呑龍の墓がある。呑龍は、弘治二年(1556)武蔵国埼玉郡一ノ割村(今の春日部市)に生まれ、幼くして地元の林西寺という寺に入り、その後、増上寺に入って修学した。やがて増上寺を筆頭とした浄土宗関東十八檀林のひとつ八王子大善寺の三世住持となり、浄土宗壇林の確立と、僧侶の育成に勤めた。その名は浄土宗に深く帰依していた家康にも聞こえたのだろう。呑龍はこの地で、浄土宗の布教に勤め、彼の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、寺は栄えていった。一方、戦乱で人心は乱れ、天災も相次いだこの頃、巷では捨て子や、間引きなどの非道が横行する。呑龍はこのような世憂い、捨て子や貧しい子供を寺で引き取り、弟子として養育した。このため人々からは「子育て呑龍」と呼ばれるようになる。その信仰は呑龍が亡くなってからも、庶民の間で続いてゆき、今も子供の無事の成長や安産祈願の寺として地元民に愛されている。この日も幼子の手を引いて訪れている母、赤ちゃんを抱っこして熱心にお参りする若いお父さんの姿が見られ、とても印象的であった。元和九年、病床にあった呑龍は、八月になるといよいよ明日をも知れぬ状態となる。呑龍は弟子たちにこう言った、「九日の正午は往生の時であろう。雷鳴がとどろくが、それは往生のしらせである」と。そして本当に八月九日の正午、雷鳴がとどろく中、息を引きとったと云う。まさに雷鳴とともに昇龍したかのようである。戦前、太田市には戦闘機を作っていた中島飛行機があった。一○○式重爆撃機の愛称が「呑龍」であったと云う。この地に大光院があることから呑龍上人にあやかって名づけられたのだろう。戦闘機「呑龍」は、太平洋戦争時には中国戦線や南方の激戦地への輸送機としても使われたらしい。自分の名を冠された戦闘機にて多くの尊い命が祖国から遠くの戦地へ運ばれてゆく、そしてその命は再び還ってくることはなかったかもしれない。それを呑龍その人はどう思っていたであろうか。或いは、当時、戦闘機製作に携わった人々が、呑龍の加護を祈念し、せめてもの慰めとしたのであろうか。今となっては知る由もない。