弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 白水阿弥陀堂

今年は春があっという間に過ぎ去り、はや初夏の陽気。桜花の余韻に浸ることなく、若葉も青葉へと変わった。梅雨明けも早いと予想されており、関東は昨年冷夏であったが、どうやらこの夏は長くなりそうだ。 四月半ば、私はかねてから気になっていた福島県いわき市の古寺を訪ねた。そこは満々と水を湛えた蓮池があって、藤原時代の端正な御堂が絵の様に美しいところだと聴いていた。福島県で唯一の国宝建造物という白水阿弥陀堂である。友人のI子さんを誘って、東京駅から早朝の高速バスでいわきへ向かう。東北も桜前線の到達は早かった。たださえ温暖ないわき市ゆえ、花は期待していなかったが、駅を降りると、やはり東京よりも冷んやりとしている。ジャケットとベストを着ていても肌寒いくらいであったが、菜の花は今が盛りと咲き乱れ、山桜や八重桜は残んの花で迎えてくれた。躑躅は咲き始めといったところで、古寺へ向かう川筋は、花の色香に咽せる様であった。何処からともなく、雲雀や鶯が競うように鳴いている。図らずも今年の春爛漫は、このいわきの地で堪能することになった。

白水阿弥陀堂を知ったのは、五木寛之さんの「百寺巡礼」だ。私は五木寛之さんを愛読している。五木さんの人生観、歴史観、世界観、宗教観、語り口、そして何よりもその文章には強く惹かれるところがある。五木さんは終戦平壌で迎えて、幼い弟の手を引いて三十八度線を命懸けで越えた。それは筆舌に尽くせぬ、封印したい苛酷な戦争体験だ。五木さんはあの経験を生涯背負って生きている。五木さんの文章、語り口には、あの時止むを得ず現地に置き去りになった人々への贖罪と、自分を残して先に旅立った家族や友人への鎮魂の気持ちが溢れている。数々の五木作品は、自らの哀しい記憶を止めるためであり、同時に今を憂いつつ、私たちが過去を顧みて現代社会を生き抜いてゆくための道標のように私は思う。それは紀行文にも垣間見られる。五木寛之さんは偉大なる旅人だ。私は尊敬してやまない。五木さんの歩いた旅先には外れがない。その足跡を訪ねることも、私の旅になっている。数々の紀行文の集大成と言えるのが、「百寺巡礼」であろう。今から十五年ほど前、二年間で五木さんの選んだ百の古寺を訪ねる旅で、紀行番組としてテレビ放送もされた。魅力ある百の寺のいくつかを私も訪ねているが、そのひとつが今回訪ねた白水阿弥陀堂である。

 いわき駅から常磐線で一駅、内郷駅で降りる。駅から寺までは、のんびり歩いて三十分ほど。ちょうど良い散歩道だ。現在いわき市は、平成の大合併福島県最大の広い町になった。いわき市といえば、かつては常磐炭鉱で栄えた町である。その痕跡は町のあちこちに見られる。白水阿弥陀堂のすぐ近くにも、弥勒沢炭坑の跡があって、日本を高みへと押し上げてくれた常磐炭鉱の残照を見る様である。新川という小川に沿って住宅地を抜けると、低い山に囲まれた白水町広畑という集落に入ってゆく。周りは山というよりも、なだらかで少し高い丘陵といった感じだ。私が驚いたのは、この山の一座一座が、蓮の花弁に見立てられて、その中に寺が建立されているということだった。中に入ってあたりを見渡すと、成る程と実感する。昔の人は何という稀有な浪漫に溢れていたか。そして、それを本当に実行したのだから、凄いとしか言いようがない。やがて朱塗りの橋が見えてきた。これが新川に架かる阿弥陀橋で、橋の正面に経塚山という山があって、その麓にこじんまりとした美しい御堂が現れた。私たちは、この山里に静謐に浮かぶ御堂に感動して、溜息を漏らした。

広い池に囲まれた境内には、朱塗りの二本の橋が架かっていて、真ん中に小島を挟み、一番奥に阿弥陀堂が厳かに佇んでいる。この日は土曜日であったが、人は疎らで静かであった。時々、池の水面をそよ風がすうっと吹き抜ける。実に心地良いところだ。 藤原時代の浄土庭園は、宇治の平等院や、平泉の毛越寺などが有名だが、ここも地形を活かして巧みにつくられている。浄土庭園は、池を配して手前が此岸、奥が彼岸とされる。彼岸には阿弥陀如来を祀る御堂がある。私はこうした浄土庭園が好きで、方々訪ねている。殊に当尾の浄瑠璃寺や、金沢文庫称名寺は周囲の風景からして往時の面影を多分に残していて、昔の人の壮大な思想と宇宙観に触れる想いがした。白水阿弥陀堂もまた、新たに出会えた本当の浄土であった。 現在、白水阿弥陀堂は、真言宗智山派の願成寺という寺の塔頭で、寺の本坊は阿弥陀堂から西へ少し入った小高い丘の上にある。さらに南の山上に不動堂など山の坊があるが、やはりこの寺は阿弥陀堂と浄土庭園が中心だ。

平安末期にこの地を領した岩城則道という豪族に、奥州藤原氏から徳姫が嫁いだ。徳姫は藤原清衡の娘とも、秀衡の妹とも云われるが、確かなことはわからない。だが、奥州藤原氏の一族であることは、彼女が開基となったこの寺がよく示している。寺名はもとは白水寺と称した。白水は平泉の泉の文字を、二つに分けて名づけたという説がある。永暦元年(1160)、徳姫は急逝した夫の菩提を弔うため、阿弥陀堂を建立。堂宇は中尊寺金色堂、庭園は毛越寺の様式を踏襲した。本尊の阿弥陀如来像も中尊寺金色堂阿弥陀如来像とよく似ている。徳姫の夫の菩提を弔うのみならず、平泉への望郷の念が、阿弥陀堂とこの境内に揺曳しているような気配が漂う。寺の脇に常磐神社というささやかな社があり、徳姫が祀ってあるが、夫の菩提と平泉への望郷の他にも、徳姫には想うところがあった様な気がする。もしも源平合戦から奥州藤原氏の栄枯盛衰までをつぶさに見たとすれば、諸行無常を嘆き、奥州藤原氏滅亡の無念と、すべての死者への供養を阿弥陀如来に祈ったであろう。

阿弥陀堂は今は前面と両側面が池だが、かつては四周蓮池であった。あたかも蓮の中に浮かぶようで、蓮池の御堂とも呼ばれたという。夏の盛りにはたくさんの蓮が花開くというが、この日はまだ泥中で、枯れた蓮の葉の下からは、目覚めた蛙の大合唱が響き渡る。蓮はまことに仏教と関わり深い花だ。五木さんの本で知ったことだが、現在の白水阿弥陀堂の蓮は、彼岸側ではなく、此岸側に咲くということだ。五木さんは、今、私たちのいる此岸にこそ、泥中より咲く蓮華があるのではないかと言われるが、まったくその通りではないかと思う。阿弥陀如来は彼岸から慈悲深く見守ってくださっている。いつか「南無阿弥陀仏」と旅立つその時に、来迎くださる阿弥陀如来。しかし実は、現世を生き抜く私たちのすぐそばに、阿弥陀如来は蓮華とともにいつでもおわすのである。ここへ来てそれを実感することができた。中尊寺金色堂の発掘時に、八百年前の古代蓮の種が見つかり、見事に発芽し華開いたことは有名だが、その時の古代蓮が白水にも根分けされて、今、阿弥陀堂のすぐ傍で、盛りの頃に咲くのだという。この蓮だけが彼岸側にあるのも興味深い。

阿弥陀堂内部に入る。透かし彫りの飛天光背、九重の蓮華に座す阿弥陀如来は、藤原時代を代表する定朝様式に違いないが、線は幾分細く、体躯もがっちりではなく撫で肩で、まことにたおやかな印象である。金箔は剥落して黒々とした艶がでているところが、中宮寺弥勒菩薩の様でもあり、私は日本一艶美阿弥陀如来だと思う。脇待の観音と勢至両菩薩、持国と多門両天にも凛とした気品を感じる。仏師はいったい誰なのだろうか。都や平泉から呼び寄せたか、或いはこの地にも畿内や平泉に負けない仏師がいたのかもしれない。いずれにしろ、この地にも仏教文化がしっかり根差していたのは間違いない。この阿弥陀堂と堂内の仏像こそが、その証拠である。日本の阿弥陀信仰の第一次ブームは藤原時代である。白水阿弥陀堂の本尊も、その時代の最高傑作のひとつだろう。寧ろ阿弥陀如来像は藤原時代がピークであって、その後はさほどのものは出ていないと思う。その貴重な遺産が、今では蓮の咲く頃や、紅葉の時期以外はさほど訪れる人も少ない山里の阿弥陀堂にひっそりと安置されている。阿弥陀堂の内部は常行堂になっていて、かつては極彩色で彩られていた。格天井は宝相華、柱には十二仏、壁には極楽浄土が描かれていた。その一部が目も眩むほど鮮やかな色彩で再現されているが、往時、この御堂に辿りついた人々は、真に極楽浄土を見たのである。

およそ八百六十年も此の地にある阿弥陀堂は、奥州藤原氏の滅亡、岩城氏の衰退で存亡の危機に陥っても、地域の人々に大切に守られてきた。さすがに明治の廃仏棄釈では危うい時期もあったに違いないが、それも乗り越えた。しかし、明治三十六年(1903)台風で倒壊してしまう。それを機に、愛された阿弥陀堂は解体修理が行われ、茅葺だった屋根は柿葺の一種の栩葺(とちぶき)に改修された。東日本大震災では、倒壊こそしなかったが、このあたりは相当な揺れが襲い、阿弥陀堂も修繕が必要となったが、不死鳥のように復興した。きっと、いわき市福島県の人々にとっても、白水阿弥陀堂の復興は励みになり、喜びであったに違いない。東日本大震災では、老若男女、動物も植物も、山も海も川も、とてもつもなく恐ろしい経験をした。そして、夥しい数の人、動植物が亡くなった。その慰霊を東北の寺は一身で背負っている。この白水阿弥陀堂もまた然り。

今、いわき市は実に見所が多い観光都市である。陸奥三古関のひとつ勿来関美空ひばりの名曲みだれ髪の舞台塩屋埼、福島のベイエリア小名浜港と、そこに建つ巨大な水族館アクアマリンふくしまいわき湯本温泉もある。余談だが、競馬ファンには馬の温泉として知られている、競走馬リハビリテーションセンターもいわき市にある。怪我をした競走馬が、心身を癒す温泉完備の施設だ。炭坑で大きくなった町は、炭坑閉山とともに寂れかけたが、いわきの人々は見事に県内随一の観光都市に生まれ変わらせてみせた。その最大の功績は、何と言ってもスパリゾートハワイアンズだろう。かつての常磐ハワイアンセンターで、このリゾート施設のおかげで、いわきは有名になった。さらに、そのハワイアンセンターと炭坑が舞台となった映画「フラガール」がヒットし、全国区に押し上げたのである。フラガールたちの活躍は、東日本大震災の復興にも一役も二役も買っている。 いわきも福島。辛抱強く、粘り強く、逞しき人々なのである。我々は見習わねばならない。

帰り道、阿弥陀堂のすぐ近くに震災の仮設住宅を見つけた。実に簡素に作られた住宅には、今は人の気配はしなかった。ここから北へ数十キロに、福島第一原発がある。震災から七年を経ても、あの出来事は生々しい記憶だ。この地の人々はそれを目の当たりに体験し、原発周囲の人々をもっとも多く受け入れてきた。ほんの少しずつではあるが、この町を離れて、元の家へ帰っていく人、福島を離れてまったく知らない土地へ移る人。今、動き出しているところもあると聴くが、あの日以来、すべてが止まってしまっている人もまだ大勢いるのだ。そして現場では終わりの見えない廃炉作業が続いている。私たちは、目の前の暮らしで精一杯の人がほとんどであることも事実だ。が、心の片隅にでも忘れてはいけないことがある。震災や戦災の記憶である。それを引き摺ったままの人や町があることを忘れてはならない。福島県いわき市白水阿弥陀堂を訪ねて、その思いを噛み締め、心新たにした次第である。次は、蓮の花が咲き誇っている頃に、ぜひとも訪れてみたいと思う。