弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

熊谷守一はいずこ

公開中の映画「モリのいる場所」を観た。熊谷守一さんの晩年の一日を、のんびりと描いたフィクション。熊谷守一さんを山崎努さんが丹精込めて演じ、熊谷守一を愛し朗らかに支えた妻秀子さんを樹木希林さんが演じる。このお二人があのお二人を演ると聞いた時からワクワクして、ぜひ観たいと思った映画だった。何よりも兼ねてより気になっていた、熊谷守一という人がすぐ近くに現れた様で、私は終始釘付けとなった。この映画の賛否は大きいかもしれないが、あの空気が好きだ。さすがに山崎努さんは、熊谷守一が憑依したようにその人を体現されていた。熊谷守一の時、暮らし、思考、そして熊谷守一の生息する境界。フィクションだがほんの一瞬でもそこへ踏み込んで、同居できた思いであった。創作のシーンがなく、熊谷夫妻が「学校」と呼んだアトリエに一人で入ってゆくというところにも、山崎努さんはじめ、この映画の作り手の熊谷守一に対するリスペクトを感じた。アトリエとは画家の聖域である。余計な描写はいらぬ。鶴の恩返しで良いのだ。

熊谷守一さんは、明治十三年(1880)岐阜県恵那郡付知村で生まれた。亡くなられたのは、昭和五十二年(1977)。九十七歳で大往生を遂げたが、五十代で軽い脳梗塞を患ってからは、写生旅行など遠出をやめて、亡くなるまでの三十年ほどは、ほとんど自宅に引き篭もってしまわれた。日がな一日を、八十坪ほどの自宅の庭や縁側で過ごしたという。草木を愛で、庭を訪れる猫や野鳥を可愛がり、虫たちを飽くことなく観察した。彼らは熊谷守一の創作のモチーフであり、生きる意味を教えてくれる源泉であり、大切な友達であった。その中に埋もれるようにして暮らし、長い白鬚を蓄えた魁偉な風貌から、人は画壇の仙人と呼んだ。が、ご本人は仙人と呼ばれることを嫌ったらしい。映画では、熊谷邸の庭は広々と深い森のように描かれているが、次女で陶芸家の熊谷榧さんによれば、実際はあんなに広くはなかったとのこと。庭はあまり手を加えずに、好きなようにしていた。

豊島区千早にあった自宅跡には、今、熊谷守一美術館が建っている。映画を観て私はすぐに出かけた。美術館ではちょうど開館三十三年展をやっていて、同館所蔵の作品のほか、各地に散らばっている油絵、彫刻、書、墨絵、手作りのイーゼルに、弦の切れた愛用のチェロまで観ることができた。映画のおかげで混雑してるかと思いきや、観客は私一人だった。 熊谷守一には花はまん丸に見えた。風景はどこか物寂しい。虫や蛙は友達を描くように心を込めている。自画像やブロンズからは、直に熊谷守一さんと対峙しているようで、目を合わすと吸い込まれそうだ。若い頃は繊細な画風であったが、歳を経て、だんだんと柔らかく、温かみ溢れる抽象画風になってゆく。もっとも熊谷守一さんは、そうした画風にさえ、特別なこだわりはなくて、その時々、正直に描いたのではないかと私は思う。中で私が惹かれたのは、大正期に書かれた「風」という作品で、このあと吹き荒ぶ昭和の嵐を予感しているように見える。それから、ひとはけで表現された「夏」も良い。油彩では「白猫」。日光東照宮の眠り猫のような静かな存在感を放っている。油彩は木の風合いを好まれたのか、キャンバスを用いずに、ほとんどを板に直接描いているのも、熊谷守一さんらしい。

熊谷守一さんは書や墨絵も多く残した。書は自分の好きな言葉しか書かなかったそうで、「一行阿闍梨耶」、劇中でもあった「無一物」、白洲正子さんには「ほとけさま」と書いた。仏教には極めて関心を寄せていたようで、仏画も多く描いている。この展覧会でも幾つかあったが、私はクレパスでさっと描いた文殊菩薩観音菩薩地蔵菩薩に精緻な仏画以上の魅力を感じた。熊谷守一にとって仏画やほとけを書にすることは、鎮魂であったと思う。昭和三年(1928)に可愛がっていた次男陽さんが、わずか五歳で肺炎により夭折。この頃の熊谷さんはまったく絵がかけず、貧困に喘いでいた。日に日に衰弱する我が子を医者にみせる金もなく、陽さんを死なせてしまったのである。その哀しみは生涯癒えずにいた。陽さんが亡くなってすぐに、「陽の死んだ日」を描いた。この絵は亡くなった陽さんの遺体を描いたもので、実に生々しく、衝撃的な作品である。自身も描いたことを後悔したらしい。息を引き取った直後、まだ身体には温もりがあって、それが見る者にも直に伝わってくる。この絵は倉敷の大原美術館に蔵されていて、この日の展示にはなかった。私は写真でしか見たことがないが、陽さんの死を簡単には受け入れることができず、物言わぬ遺体を描くことで、愛息の死を直視し、認識しようとしたのではなかったか。陽さんの死は、その後の熊谷守一さんの創作活動に多大な影響を及ばした。熊谷守一さんの作品は、陽さんの死を境に少しずつ変化してゆく。優しく、温かく、時には幼子が見てもどこか惹かれる。そんな絵になった。熊谷守一さんの後半生は、陽さんの供養のために、描いたように私は感じた。きっと仏道に関心を示されたのも、南無阿弥陀仏の信仰心からであろう。もがきながら描き続けて、晩年に向かうに連れて、少しずつ少しずつ、穏やかで情感豊かな筆致になっていった。

館内の階段には、中年期に藤田嗣治ら仲間と撮った写真が架けてあった。昭和の戦争時代の撮影だが、笑顔の人もたくさんいて、皆まことに明るい表情であった。戦時中の写真は暗いイメージしかなかったが、この写真は違う。画家たちの誇りと、未来への希望に満ち溢れている。しかし、戦後になって高度経済成長期になると熊谷守一は、世間に背を向けて引き篭もってしまう。破壊淘汰されてゆく自然と、人の心の卑しさに途方に暮れたように。それはあの当時、必死になって戦後復興を成し遂げた人々へではなく、その上で胡座をかいて平和呆けする未来人、すなわち我々に対してなのかもしれない。熊谷守一の無言の抗議は、また、我々への激励でもあると私は信じたい。

熊谷守一が此の世から居なくなって四十年。本当は私のいる此の世が彼の世で、熊谷さんのいる彼の世が此の世なのではないか。親類、知人、祖先、歴史上の偉人、その道の先達、ひいては可愛がっていた犬たちに至るまで、彼の世にいる人々が羨ましいと年々思えてならない。