弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

通りゃんせ

通りゃんせは、江戸時代から伝承のわらべ唄である。幼い頃はこの歌が嫌いであった。その頃テレビで、「この子の七つのお祝いに」という映画をみた。当時はよくわからない内容だったが、とても暗くて重苦しい映画であった。その映画で、通りゃんせの歌が流れ、子守唄として唄われるのだ。そのイメージがあまりに強く、通りゃんせは、かごめかごめと並ぶ、薄気味悪いわらべ唄として私の中に残った。そういえば、最近あまり聞かないが、横断歩道の音響信号でも通りゃんせがよく流れていたが、あれもメロディを聴くだけで怖かったものだ。

通りゃんせの発祥の地は全国にあるが、埼玉県川越市にある三芳野神社もそう云われている。川越には何度か行ったが、その時に三芳野神社も歩いてみた。美々しい参道の奥に朱塗の社が建っている。確かに天神社に違いないが、祭神は菅公の他にも、素戔嗚尊奇稲田姫八幡神が合祀されている。江戸時代このあたりは川越藩の藩主の住む川越城内で、三芳野神社は城の守神として手厚く庇護されたが、城が建つ以前から地域の民に崇敬されていたことから、城内にあっても日中は民にも参詣が許されていたらしい。このあたりには古墳があったりして、太古から聖地であったことが伺えた。

通りゃんせの歌詞をあらためて読んでみた。

通りゃんせ  通りゃんせ

ここはどこの細道じゃ  天神さまの細道じゃ

ちっと通してくだしゃんせ  御用のない者通しゃせぬ

この子の七つのお祝いに  お札を納めに参ります

行きはよいよい 帰りはこわい  こわいながらも

通りゃんせ  通りゃんせ

気がかりなのは、「行きはよいよい 帰りはこわい」という部分。昔から様々な憶測を呼んできた。歌詞にある天神さまが、三芳野神社であるとすれば、川越城内にあって、参拝する者を、警備の兵がしつこく警戒したから「こわい」という説がある。また、 「この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります」という部分を考えると、江戸時代まで、子どもは神さまからの預かり物、いわば子どもはみんな神の子であると、この国の人々は信じていたのである。今の七五三詣にも通ずることだが、昔から子どもは七つになってようやく、人間の子になると云われてきた。七つになって初めて氏神の氏子に加えられたという。通りゃんせの歌は、行きは神の子ゆえに神さまに守護されているが、帰りには人間の子となっているのだから、浮き世の荒波を鑑みて怖いといったのではあるまいか。さればこそ、昔の人々は子どもはみんなで大切に育てた。公家や武家は言うに及ばず、町の長屋で暮らす人々は、子どもがいることを誇りとし、長屋の住人みんなで子守をしたり、相互に助け合って生きていた。地方では、食扶持に困って、時に間引きという恐ろしい行為も行われたが、そうした親は生涯その枷から逃れずに生きねばならなかったし、地獄へ堕ちることは覚悟したであろう。 が、今はどうか。

先日、またしても痛ましい事件が起きた。わずか五歳の女の子が、両親にとんでもない虐待を受けて亡くなった。親が決めたくだらぬルールで、早朝から勉強、風呂掃除などを強制し、うまく出来ないと虐待した。真冬に戸外に放置され、一昨年、昨年と二度保護されたが、香川から東京へ引越ししたこと、さらにはこの国の親権者に対する非常に緩い現行法律上、親元に帰された結果、この顛末である。天魔の所業である。奴らは親ではない。鬼畜である。鬼畜のところへ帰してはいけなかった。鬼畜は断罪に処すべきだが、こうした事件はかなり前から起きているのに、手を打ってこなかった国の責任は極めて重い。自治体も含め、この国の制度を至急根本から見直す必要がある。つまりは、此度の事件は、我々すべての大人にも共有の責任がある。我々はそれを肝に命じて懺悔し、再びこうした悲しい事件が起きぬよう贖罪し、行動せねばならない。子どもは国の宝である。現代日本人も、昔の人々に倣い、皆で子どもを守らねばならない。

子どもは七つまで神さまからの預かり物。子どもはみんな神の子なのだ。あの子はきっと天使になった。我々にお怒りの神さまは、あの子を手元から離すまい。二度と悍ましき此の世へ、遣わされることはないだろう。あの子は此の世の記憶はすべて消されて、永久に安穏の日々を過ごすであろう。そう願っている。通りゃんせは、我々への子どもに対する戒めであり、神からの暗示であると私は思っている。