弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 赤山禅院

京都が好きで年に数度は訪れる。寺社へ参詣し、興味の尽きぬ千年の都の風雅を存分に楽しんでいる。帰りはいつも去りがたく、寂しい気持ちになる。いつかあの街に暮らせる日を、夢見つつ過ごす日々だ。好みの寺社は数多あるが、ここ数年は比叡山直下の修学院近辺を歩いている。このあたりも名だたる名刹があるのだが、観光客は少なく、静かなものである。

三年前の秋、彦根を旅したついでに、井伊直弼の愛妾村山たか女の縁の寺を廻った。 叡山電鉄一乗寺駅から歩いて十分ほど東へ歩くと、住宅地の奥に金福寺がある。村山たか女は、直弼が部屋住みの頃からの愛妾で、大老就任後は隠密となって攘夷論者の動向を探り、長野主膳を介して大老に密告、安政の大獄に加担した。直弼が桜田事変で討たれると、たか女は勤王志士に捕らえられ、三条河原で生晒しにされた。三日間耐え抜いて解き放たれたが、文久二年(1862)に尼となって妙寿と名を改めた。この寺はたか女が、余生を過ごした寺で、ささやかな佇まいは、いかにも栄枯盛衰を見尽くした女が、浮世から逃れるようにして隠れ住んだ寺といった風である。芭蕉もここを訪れている。

憂き我をさびしがらせよ閑古鳥

と詠み、当時の鉄舟和尚と親交を深めた。和尚は後に草庵を芭蕉庵と名づける。芭蕉を崇拝する与謝蕪村は長く金福寺に逗留して多くの句を残し、荒廃した芭蕉庵を再興しこう詠んだ。

耳目肺腸ここに玉巻く芭蕉

蕪村の墓も芭蕉庵のそばにある。私が行った時は、ちょうど紅葉が盛りで白砂の美しい枯山水に、深紅の紅葉がはらはらと舞い散る様は、村山たかの憐れな余生を彷彿とするには、出来過ぎであった。

村山たか女の墓は、金福寺の少し北へ行った圓光寺にある。この寺も巨刹ではないが、石庭と紅葉の美しい寺である。開基は徳川家康で、下野足利学校から学頭の三要閑室禅師を伏見へ招き、学校として関ヶ原の合戦の翌年に創建。後にここへ移転した。臨済宗南禅寺派の寺である。寺の裏手は山だが、なだらかに整備されて墓地になっている。目印があるので、その墓はすぐにわかった。直弼への愛を貫いた村山たか女の末路は、悲惨なものであったが、あの激動の時代をいっときの間、燦々と生きた情愛は、生涯失わずにいたであろう。あはれな怨嗟よりも、恍惚のうちに死んでいったのではなかろうか。墓の少し上に登ると、ささやかな東照宮があって、そこからの眺めは格別であった。夕霞の彼方には愛宕山から西山が遥かに見渡され、こんな気分の良い場所に眠る村山たか女が羨ましくさえ思った。

 昨年、花背の奥の広河原に松上げを見に行ったが、その前に修学院のあたりを歩いてみた。曼殊院修学院離宮赤山禅院と廻る。比叡山は黒々と光り、夏の顔で見下ろしている。残暑厳しい日で、暑さを誤魔化しながら散策したが、寺の境内に入ると急に涼しくなるのは、気のせいではないだろう。曼殊院道比叡山の方へ緩やかに登っていて、住宅地を抜けると、麦畑やとうきび畑が広がり、京都市街からすぐなのに、長閑な場所である。鷺森神社を通って、山の麓まで来ると、やがて曼殊院の慎ましやかな山門が見えてきた。京都には仁和寺三千院、青蓮院など門跡寺院が多い。いずれもその名にそぐわぬ雅やかな佇まいをみせるが、この曼殊院は場所柄か、さらに奥ゆかしき閑雅な趣である。庫裏、大書院、小書院など連なる堂宇は江戸初期の建築というが、桃山時代の色が濃く反映されている。紅葉の名所として名高いが、今の時期は静かなものであった。曼殊院門跡は、元は比叡山西塔北谷にあって伝教大師が草創した東尾坊が始まりだとされる。のちに曼殊院と称するようになるが、今の地に移ったのは明暦二年(1656)のことで、後水尾天皇の猶子で、桂宮智仁親王の次男良尚法親王が門跡の時である。比叡山を降りた曼殊院は、一時御所の近くに移転したが、良尚法親王がこの地へ移したのは、修学院離宮の造営に心血を注いだ後水尾天皇のために、助力なされようとされたのではないか。曼殊院は、あたかも修学院離宮造営の前線基地の様である。

 曼殊院で涼しくなったが、外はやっぱり暑い。修学院離宮は、宮内庁のホームページから観覧予約を受付ている。私は十一時から予約。他の参観者はほとんど外国人。桂離宮に比べたら修学院離宮は、そんなに知られてはいないが、スケールは桂離宮をはるかに凌ぐ。比叡山を借景にして、上、中、下の三つの離宮は、通称御茶屋と呼ばれる。それぞれに淑やかで、侘びた佇まいの御殿、客殿、茶室、御休所が、絶妙の配置で点在する。上、中、下の御茶屋を結ぶ松並木や、上の御茶屋の大刈込みは、一帯の自然と見事に調和している。驚いたのは松並木の両側は、田畑になっていて、稲や野菜が育てられていたことだ。修学院離宮のハイライトは、何といっても上の御茶屋である。下からの高低差は四十メートルもあり、最高所にある隣雲亭からの眺めは、天に昇りつめた心地であった。眼下には浴龍池が満々と水を湛え、碧空を写している。上も下も紺碧で、周囲の深緑と渾然一体となっている。奥には右手に洛北の山々、左手には洛中、ずっと向こうには西山が霞んでいる。灼熱の中を、熱中症になりかけながら上がってきたが、暑さも忘れて天下一の眺めを独占し、まことに爽快な気分であった。

藤原時代、ここに修学院という寺が建てられた。南北朝時代に廃寺となるが、地名として修学院の名は残った。ずっと下って徳川時代、幕府は法に拠って武家、寺院、禁中公家を支配し、徳川三代はこれを盤石のものとして、泰平の世が成った。その時、この国でもっとも権威の高みにおわした後水尾天皇は、禁中並公家諸法度に拠って両翼をもがれた気分であった。専横の限りを尽くす江戸幕府と再三対峙するも、虚しい抵抗に終わる。唯一の慰めとされたのは、秀忠の五女和姫が入内し和子と称され、後に中宮とされて、相思相愛となられたことであろう。紫衣事件などで、天子の位に愛想が尽きた天皇は、幕府の反対を押し切って中宮との間に生まれた明正天皇へ譲位され、上皇となられた。明正天皇は、称徳天皇以来の八百五十九年ぶりの女帝であり、この譲位こそが、幕府に対する後水尾天皇の最大の意趣返しであった。上皇は院と呼ばれ、和子中宮東福門院となられる。後水尾院は明暦元年(1659)から修学院離宮の造営を始められる。およつ御寮人に生ませた文智女王が尼となられ、この地に円照寺を創建していたが、造営時に大和へ移転した。後水尾院は、修学院離宮造営に並々ならぬ情熱を注がれた。それは幕府に対しての無抵抗な憂さ晴らしであった。足繁く通い、御自ら普請を差配された。完成後、仲の良かった東福門院を伴い気兼ねなくここへやってきては、俗世の喧騒から離れて、自由を謳歌されたであろう。だが、今、改めて修学院離宮を俯瞰してみると、ここには後水尾院の静謐な執念が、そこはかとなく宿っているような気がした。

 さて、今日は夏越の大祓。上半期の邪気を祓い、下半期を無事に過ごすために、各地で形代を流したり、茅の輪くぐりなどの夏越の神事がおこなわれる。私も近所で茅の輪くぐりをやるが、夏越の祓については、昨年書いたので詳しくは省きたい。それにしても日本人は清めが好きだ。貴賎の別なく邪気、穢れを忌み嫌い、徹底的にお清めをする。茶道でも露地、茶室、道具を徹底して清める。王城の地平安京では、殊の外盛んに邪気祓いが行われた。鎮護国家、疫病退散、天変地異、怨霊調伏、庶民のささやかな願いまで祈祷された。京都は風水を基に町づくりが成され、四神相応は世界的にも類をみない鉄壁の守護である。陰陽道が発展し、陰陽師は平安貴族のみならず、幕末まで暗躍したのである。陰陽師の代名詞は安倍晴明であろう。今年の冬季五輪は、羽生結弦君がフリースケーティングで晴明をテーマに演技した。まさに平成の陰陽師降臨といった感じであった。安倍晴明を我々はアベノセイメイと呼ぶが、当時は訓読みでアベノハルアキといったらしい。藤原道長の日記「御堂関白記」にも陰陽師晴明と記述があり、時の最高権力者からも重宝されていたことは明白である。晴明の邸跡には晴明神社が鎮座し、今でも京都市中で最強のパワースポットとして人気がある。すぐそばには、堀川に架かる一条戻橋があるが、晴明はこの橋の下に自らが呪術で使う式神を置き、好きな時に召喚したと云う。 実のところ陰陽師とは、どんな存在であったのか。私も以前から関心があったので、いろいろ調べてはいたが、事実は小説より奇なりで、調べれば調べるほど不可思議で、謎めいている。陰陽師は幕末まで当たり前にいたし、今でも末裔がいて陰陽師を名乗る人がいるが、やはり平安時代がもっとも活躍した時期であることは間違いない。それは日本の陰陽道が確立して、発展した時期と重なるからである。ゆえにここでも平安時代陰陽道陰陽師に焦点を絞ることにする。

陰陽師は朝廷に仕える貴族であり、陰陽寮という役所で日夜働く役人であった。陰陽寮の仕事は、陰陽道に基づいた国家鎮護の加持祈祷、卜占、さらには天体観測を行い、都と貴人の有為転変を予測し、さらには気象予報、暦の作成、病気平癒まで行った。これを官人陰陽師と云う。ちなみに、官人陰陽師の他に、法師陰陽師なるもいたらしい。法師陰陽師は僧形の陰陽師で、巷ではむしろほとんどが法師陰陽師であったとか。官人陰陽師は役人で、朝廷や貴人のために働き、法師陰陽師は庶民が頼りにした。が、中には法師陰陽師も公家や武家に頼まれて、卜占や祈祷を行なった者もいたと云う。想像するに、密教護摩法要の様なことをやったのであろう。安倍晴明はれっきとした官人陰陽師。彼らはほとんどが朝廷や貴族たちのために仕え働いていた。大晦日には宮中で、国内の鬼を全方位の境界へ追放する追儺の儀式が行われた。追儺陰陽師最大の年行事であり、彼らの腕の見せ所である。長保三年(1001)、一条天皇の母藤原詮子が亡くなったため、宮中は追儺を中止したが、晴明は自邸にて私的に平安京の人々のために追難を行った。この出来事は陰陽師安倍晴明の名を大いに高め、貴賎を問わずに崇める様になる。安倍晴明は、陰陽師としての自分に絶対的な自信を持っていた。そしてまた、自らの背負う役割が何なのかと追求し、試行錯誤し続けた結果、伝説となったのではないか。

平安京は鉄壁の四神相応が縄張りされていることは述べた。北(玄武)に船岡山、東(青龍)に鴨川、南(朱雀)に小椋池、西(白虎)に山陰道がある。千年間も都であり続けたのも、宜なるかなである。風水で鬼門に当たるのが北東で、方角的に忌み嫌われている。平安遷都の詔を発した桓武天皇は、平安京の鬼門に当たる比叡山を拠点にしていた伝教大師最澄延暦寺建立を許し、天台宗最澄を庇護した。これはひとえに平安京の鬼門封じのためであり、邪気を調伏する狙いがあったに相違ない。余談だが、江戸の町も京都を手本に町づくりがされたが、江戸城の鬼門には神田明神寛永寺、日光山があり、裏鬼門には山王権現、増上寺、久能山がある。比叡山の麓に、平安京の鬼門封じの赤山禅院がある。冥府の王泰山府君を赤山明神とも称するが、その泰山府君を祀る寺である。寺であるが、入り口には鳥居が建っていて、神仏混淆が色濃い。長い石畳の参道は趣深く、暑さを忘れる涼やかな風が吹いている。観光客もここまでやってくることは稀の様で、私のように陰陽道や風水に関心のある人以外には、あまり知られていないのかも知れない。

寺の中心には泰山府君を祀る御堂がある。御堂の入り口の門は、巨大な数珠になっていて、赤山禅院にやってきたという感慨が湧いてくる。泰山府君は中国の東岳泰山の神であり、人々の生死を司り、冥府の王とされる。閻魔大王と双璧を成すと云うが、陰陽道では主祭神閻魔大王よりも力が上とされ、崇拝されている。泰山府君祭という呪術は、小説や映画では蘇りの儀式とされていたが、文献にはそうした記述はない。京都市上京区清浄華院に蔵されている「泣不動縁起絵巻」には、安倍晴明泰山府君祭を行う様子が描かれている。悪霊邪神の面を並べ、護摩を焚きながら、なにやら呪文をよみあげる晴明の背後には、式神が二神いて、一心に祈っている。とても印象に残る絵だ。実際、陰陽師による泰山府君祭は行われていたが、専門家によれば、おそらくは病気平癒、治療、予防、さらには健康長寿を祈念したのではないかと云われる。赤山禅院は冥府の王のおわす場所であり、泰山府君が君臨するところなのである。私の推測にすぎないが、比叡山塔頭であり、回峰行のルートの一つにもなっている赤山禅院は、比叡山を天上の極楽に準えて、山麓のここが冥府の入り口という意味もあるのかもしれない。赤山禅院は王城の鬼門封じであり、実は此処からが冥府の始まりであるならば、平安京は冥府の真っ只中となる。魑魅魍魎の跋扈する怖るべきところだ。ゆえに人々は、鬼門封じを怠らなかった。

境内は静寂そのものであったが、時折、何処からともなく子供の笑い声が聞こえてくる。しかし、境内には私しかいない。ほかには寺の人がいるだけで、家族連れの参詣者はいないのである。笑い声のする方へ行っても、また別の場所から同じく笑い声がする。ひょっとして、泰山府君なのか。式神の悪戯か。或いは冥府の人々の嘲笑なのか。私はだんだん薄気味悪くなってきた。いや、ホトトギスとか、ひぐらしだったのかもしれないが、何度耳をすましても、子供の笑い声にしか聴こえない。境内は思った以上に広いが、背後は山のきわで、点々と御堂が建っている。薄気味悪くとも、小一時間ばかり赤山禅院を独占できたことは、何とも良い気分であった。自宅の鬼門封じのために、清めの砂を買った。普段の寺参りでは、あまりやらないが、護摩供養をお願いしてきた。私のささやかな願いを木札に書いて納める。極上の神仏混淆赤山禅院ならば、効果覿面に違いないと思った。帰りがけ、もう一度、耳をすましてみたが、あの笑い声はもう聴こえなかった。