弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 洛東散策(一)

祇園祭が始まったばかりの京都へ。西日本豪雨のさ中で、京都も相当な被害があったが、夜は茶道の同志との約束もあり上洛する。大変な嵐のあとで、遠出は難しい。昼間どこを彷徨くか考えていたが、夕方には並河靖之記念館に行きたいと思っていたので、久しぶりに東山界隈を歩くことにした。新幹線からJR奈良線に乗り換えて、東福寺駅で下車。東福寺とは反対の北へ向かう。泉涌寺道を通り過ぎて、目指すは九年ぶりの三十三間堂。実は前日に某番組で、三十三間堂をやっていて触発された次第。三十三間堂は朝八時から開門しているらしい。京都の名だたる寺の拝観は、ほとんどが九時からだ。中には東西本願寺や、清水寺のように早朝からお詣りできる寺もあるが、三十三間堂が八時から拝めるのは、時間を有効に使いきりたい旅人にとってはありがたい。
京都も五山の送り火を過ぎれば、秋近しと思いたいが、そうはいかない。だが、京都の寺廻りには、この暑い時期はうってつけかもしれない。暑さと寒さの厳しい京都は、真夏と真冬は意外と空いている。外国人は多いが、春秋に比べたら随分静かなものだ。祇園祭宵山や、送り火当日を除けば、ゆっくりと寺社詣できる。無論例外もあって、東山では清水寺高台寺はいつも混んでいる。知恩院南禅寺もそうだ。私も好きな寺で、何度でも訪ねたいのだが、暑い中、さらに人混みは真っ平御免である。今回は人気の巨刹は避けて歩いてみよう。

途中、新熊野神社へ寄る。ここは後白河院の発願で、平清盛が金を出して建立された。三十三間堂と同じである。後白河院の熊野信仰は崇敬高きもので、生涯に三十四度も熊野詣をされた。ここまで熊野に執着されたことには、別の理由もあったに違いない。源平を巧みに利用した後白河院は、一筋縄ではいかぬ。熊野を信仰をする山伏、木樵などの山人、那智を信仰する海賊や、漁師を味方にするためのご機嫌とりであったかもしれない。そして、京へも熊野を勧請されたのが、新熊野神社である。「新熊野」と書いて「いまくまの」と呼ぶ。さらには、ほど近い泉涌寺には今熊野観音があって、西国十五番の札所になっているが、ここは弘法大師が開いた寺で、京の熊野と呼ばれ信仰を集めていた。後白河院は、この地に新熊野神社を建て、新熊野神社別当寺として、蓮華王院すなわち三十三間堂の建立を発願され、為政者として持ちつ持たれつの平清盛に命じたのである。ゆえにこの社こそが、蓮華王院の縁起そのものと云える。またずっと降って、足利義満世阿弥の舞を始めて観た社とも云われる。こうした観光客のほとんど来ない町中の社にも、幾重にも歴史が伝わっているところが京都である。

開門直後の三十三間堂は静かであった。この日は日曜日であったが、空模様も影響してか、外国人や修学旅行の中学生がちらほらといるばかり。あの目も眩む千手観音の群像と、じっくりと対坐した。これほどの数の仏像を一箇所で拝めるところは他にない。博物館でも無理である。圧倒されるという言葉は、この場所のためにあると言っても過言でないだろう。仏に圧倒される。圧倒という表現が果たして適当かとも思うが、圧倒されても偉大なる包容力が優るのが、三十三間堂である。中尊は殊の外威光を放っていて、燦々と何かを浴びる様に惚けて見ていると、無重力で浮遊する錯覚に陥る。すべての観音様と心身一体になってゆく気分だ。これを観音イオンとでも言ったら良いか。下から一番高い所の観音様の姿を拝むことは難しいが、私には一体一体の尊顔がくっきりと見えた気がした。一見すると同じに見えるが、よく見ると表情、姿に微妙な違いがあって千体千様である。中尊、風神雷神二十八部衆はすでに国宝だが、今年は千体の観音様すべてが国宝になる。

鳥羽院の時、院庁のあった白河の地に得長寿院という寺が建てられ、その本堂が三十三間堂であった。中尊を含めた千一体は聖観音であったと云う。後白河院は、六波羅の南の法住寺に入り、ここが院庁となって法住寺殿と呼ばれるようになる。長寛二年(1164)、法住寺殿の一角に蓮華王院を建立し、鳥羽院に倣い三十三間堂を本堂とした。今、三十三間堂妙法院塔頭になっているが、妙法院はもとは比叡山中にあり、後白河院がこのあたりに比叡山王社を勧請して、新日吉神社とした際、妙法院は山上から法住寺殿へ移った。新日吉神社は今も妙法院の裏手を登ってゆくとあるが、法住寺殿全体の鎮守とされたのである。後白河院と清盛の絶頂期の絆であった三十三間堂は、建長元年(1249)に焼け落ちたが、後深草天皇の勅願により文永三年(1266)に再建された。今、我々が目にするのが七百五十年を経た蓮華王院である。豊臣秀吉は、方広寺大仏殿を造営した際に、三十三間堂方広寺に吸収し、寺域として土塀を築いた。それが今も残る南大門と太閤塀である。思えばこの寺は、いかにも平安京の寺という感じがする。この日本一、いや寺院聖堂としては世界一の長さを誇る三十三間堂の細身で、嫋やかな佇まいは、極めて京都らしい。

三十三間堂と云えば、通し矢が有名だ。通し矢は三十三間堂の南から北へ、百二十一メートルを弓矢を射抜く競技である。様々な種目があったが、的を射通した数を競う「大矢数」という種目がもっとも盛んで人気もあった。通し矢の歴史は保元の頃からというが、はっきりはしない。桃山くらいから正式な記録が残っていて、江戸前期には最盛し、明治後期までは記録が残っている。天下一の記録は、紀州藩士で弓術家の和佐範遠が、貞享三年(1686)四月二十七日に達成した矢数一万三千五十三本、通し矢八千百三十三本である。昔の人はとてつもない。今では通し矢は行われていないが、毎年一月に半分の距離で弓道の全国大会が行われている。三十三間堂は江戸にもあった。徳川家光は江戸に三十三間堂建立を発願、はじめ浅草にあったが火事で焼失。元禄期に深川へ移転した。深川の江戸三十三間堂は広重の名所江戸百景にも描かれており、木場のすぐ隣にあったことがわかる。細長い御堂は画面全部に描き切っていない広重お得意の手法だが、おかげでその規模が察する。千手観音を本尊としたらしいが、おそらく中尊と諸仏が安置されていて、京都のように千体仏が安置されていたわけではないだろう。江戸三十三間堂はあくまで、通し矢をはじめとした武芸奨励を目的として建立されたと思われる。実際、最盛期の五割強が武士であった総城下町たる江戸は、通し矢が京都以上に盛んに行われたと云う。江戸三十三間堂は廃仏棄釈により、残念ながら明治五年(1872)に取り壊された。今も浅草には三十三間堂守護のために建てられた矢崎稲荷神社があり、深川には八幡社の近くにその跡を示す碑と、数矢小学校の校名に残影をとどめている。

後白河院の陵墓は、三十三間堂の目の前にひっそりとある。法住寺と養源院の間に細長い入口があって、頼朝に大天狗とまで揶揄された稀代の専制君主の墓にしては慎ましい。法住寺は今、実に簡素な町中の寺だが、かつて威容栄華を誇った法住寺殿の名前を引き継ぎ、幕末までずっと後白河院陵を護ってきた。明治以降、寺と陵墓は分離されたが、法住寺殿は後白河院が亡くなって、鎌倉以降も時の権力者の関心を集め様々な変遷を辿ってきたことは、考えてみればこの寺が如何に重要な位置を占めたかが知れる。

そのまま養源院に入った。ここは血天井俵屋宗達の絵で有名な寺だが、周囲は三十三間堂、法住寺、智積院、ホテルに囲まれていて、正門の前まで廻らないとわからない。が、門を潜ってから本堂へ続く緩やかな坂道は、蒼葉の桜並木が美しく、さすがに由緒ある寺だと思った。

慶長五年(1600)、徳川家康は再三の召喚に応じない上杉景勝を討征すべく、大軍を率いて奥州へ下向した。大坂城西の丸に陣取っていた家康が動いたことで、家康成敗を目論む石田三成ら西軍首脳は、毛利輝元を総大将として、西の丸を占拠した。当時、石高、軍事力、財力で諸大名を圧倒し、豊臣家を除いて並ぶ者ない家康は、秀吉亡き後の国政の一切を取り仕切り、大坂城西の丸と伏見城にて政務を行なっていた。この時点で太閤秀吉の建てた伏見城は、ほとんど徳川の居城となっていた。大坂城を発した家康は、まず伏見城に立ち寄る。この後三成が挙兵することを先読みして、伏見城をいかにするか懸念していた。徳川の本隊は、ほとんどが江戸より北へ向かうことになり、伏見城を護る手勢はわずか二千三百ほどであった。留守居役の鳥居元忠は、何としても伏見城を死守せんと家康に誓う。伏見城宇喜多秀家小早川秀秋大谷吉継長宗我部盛親島津義弘ら四万の大軍に包囲されるも、城方は籠城奮戦。七月十九日に開戦し、八月一日の落城まで、十日以上持ち堪えたのである。関ヶ原の前哨戦ともいえる伏見城の戦いは、結果的には東軍の結束を強め、西軍は四万の大軍でも攻めあぐねたことから、烏合の衆であることを露呈した。落城の砌、名将鳥居元忠以下は、城内で自刃、多くの男たちの血が伏見城には漂った。この時の伏見城の血染めの床が、養源院の天井の一部に使われている。養源院は、戦国の花と云われた浅井三姉妹の父浅井長政法名である。三姉妹の長女淀殿が、父長政、祖父久政の菩提を弔うため、秀吉に頼んで文禄三年(1594)に建立した。豊臣家滅亡後、淀殿の意思を引き継いだ三女お江は、夫秀忠に頼み養源院を再興、その時に伏見城の戦いで散った者の弔いも兼ねて、養源院に血天井が使われたと云う。やはり昔の人は凄いことをする。いくら供養とはいえ、血天井など現代人には考えもつかない。戦の果ては敵も味方もなく弔い、慰霊をした。今の我々は、戦国時代にある種の浪漫を抱くが、当時を生きた人々には、戦地は血腥くて、遺族には辛苦以外の何でもなかった。小谷城と北ノ庄城で、二度の落城を経験し、父、母、叔父、姉、甥を戦乱で失ったお江にとって、徳川には何としても泰平の世を築いて欲しいと願ったに違いない。夫秀忠もそれを、よく受け止めて、養源院を血天井にした。私も初めて養源院の血天井を見せていただいたが、寺の人の話ではおそらくらしいがと示されたところに、鳥居元忠その人が自刃し倒れたその姿がはっきりと残っていて驚いた。真っ黒に残る血痕は、不思議と気味の悪さはなくて、何か神聖な感じさえ受けた。

血天井の下には俵屋宗達の杉戸絵があった。有名な白象、麒麟、唐獅子である。いずれも宗達若き日の傑作で、これほど躍動感溢れる杉戸絵は他にあるまい。特に白象は圧巻である。宗達の想像で究極にデフォルメされた姿だが、睥睨する眼は、見る者を捉えて離さぬであろう。私もこの二頭の白象に逢いたくてたまらなかった。念願の対面を果たして感無量である。この寺でもっとも格式高い部屋が、浅井家と徳川歴代将軍の位牌所で、両側の襖絵も宗達の筆になる「金地着色松図」である。宗達らしい大胆と微細が混在し、あくまで位牌所の襖絵の域を超えない配慮を感じる。当時はまだ無名の扇絵職人であった宗達を、引き抜いたのは本阿弥光悦とも云われる。宗達はこの養源院の杉戸絵と襖絵によって、一流絵師として羽搏いていった。風神雷神図や、源氏絵、西行法師絵詞など、近世日本画壇で宗達は私も敬愛する絵師の一人である。大胆な構図を繊細な筆致で描いた宗達は、彼以降の画壇に影響を与えたのは間違いないが、宗達自身はあまりそう云うことに拘る性格ではなく、自由に好きな絵を描いていたかったと私は思う。翌日、建仁寺で改めて「風神雷神図屏風」の複製をじっくりと観せていただいたが、宗達の描いた人物、動物、花、樹木、風景、どれを見ても闊達で、何物にも縛られたくないという気持が現れている。才能と自由が絶妙のバランスで迸る俵屋宗達の絵は、見る者を元気にさせる。