弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜応援合戦〜

今年、第百回という記念大会となった夏の甲子園。何度も繰り返し書いてきたが、私は甲子園の大ファンである。大会中、休みの日はほとんど一日中テレビの前を動かないし、仕事の日は休憩毎に試合経過を見て、帰宅すれば録画した全試合を観る。これほど入れ込むようになったのは、甲子園には日常我々が掴み得ない夢があり、呪文のように空疎な言葉となった真の絆があり、何よりも枯渇し切った私の涙腺を弛緩してくれるからだ。スポーツ全般に同じだが、夏は甲子園、冬は箱根駅伝。この二つだけは格別の思い入れでいる。生涯変わることはないだろう。

夏の甲子園百回の歴史は爽快に燦々と輝いている。それぞれが忘れない試合、名勝負がある。その偉大なる歴史には空白の年がある。百三年前に第一回大会が開催されたが、今年百回なのは太平洋戦争のせいである。昭和十六年(1941)の途中で中止となり、昭和二十年(1945)まで、戦争は球児たちの青春を奪い、夢を砕き、希望を絶望にした。球児たちは皆、涙を流して悔しがった。野球ができぬまま、戦地へと駆り出されて、散らす必要のない命を散らした方もいた。ある者は南方の島に、ある者は海に、ある者は特攻へ。今、溌剌とプレーする高校球児たちを観ていると、当時の事はあまりにも酷い仕打ちであると、狂った時代であったと思う。それでも文句ひとつ言わずに召集に応じた。知覧から飛び立ったある人は、甲子園出場は叶わずも、プロ入り。しかし、たった二試合にのみ出場しただけで、特攻に召集されて散った。彼の遺書にはこう記されている。

「野球人生八年間  我が心 鍛えてくれし 野球かな 」

あまつさえ、戦意昂揚と称した大会や試合が開かれ、記録には残らないという残酷な仕打ちをした。記録に残さぬ試合などしないほうがマシだと思うが、それでも野球を愛した球児たちや関係者には、野球ができるだけでも幸せなことであったならば、或いはせめてもの慰めであったか。夏の甲子園百回までには、語り尽くせぬドラマ、エピソードが溢れている。

甲子園で忘れてはならぬのが応援である。一塁側、三塁側のアルプススタンドに陣取る大応援団を抜きに甲子園は語れない。大応援団は甲子園球児たちを鼓舞し、時にその熱意が勇気を与え、ピンチを救い、思わぬ大逆転劇につながることがある。大応援団にとっても野球部に甲子園に連れてきてもらい、一致団結することは、人生においてこれほど熱く、濃密なひとときはあるまい。名勝負とはベンチが作り、ナインが生み、応援が育てるのである。最近は応援合戦も注目されるようになった。レギュラーを勝ち取れなかった野球部員、応援団、チアリーダー、生徒諸君、保護者、職員、地域の勝手連的応援団が声を枯らし、汗だくで熱戦を盛り上げる。甲子園のアルプススタンドは思いの詰まった場所である。

その応援団に彩りと個性を与え、まさに応援の華ともいえるのが、ブラスバンドである。野球部員同様に各校の吹奏楽部員もまた、甲子園で演奏し、アルプスを盛り上げることを誇りとす。ゆえに演奏にも力が入る。選手とアルプスを結びつけるのが、ブラスバンドの演奏であると私は思う。中には吹奏楽部員が数人しかいない学校もあり、そうした場合は、OBや近隣の吹奏楽部や、地域の楽団が総出で応援に来ることもしばしばある。吹奏楽部員も嬉しいだろうし、大編成で大音量を奏でて、最高の気分だろう。 甲子園での吹奏楽の歴史は戦後のことで、昭和三十年代後半から、だんだん華やかになっていった。戦前は応援も自重気味であったのだ。今は、各校が競うように演奏する。守備の回は相手の応援、演奏に敬意を表して聴きながらも、攻撃の回では応酬する。外野から観ていて、試合と併せてこの応援合戦もまことに見応えがあり、一見の価値がある。

応援で使用される曲は昔からなじみの曲から、最近は各校オリジナルの曲もあり、地域の民謡や音頭、ご当地ソングまで多様化していて楽しい。オリジナル曲がいつかメジャーになり、他校でも演奏するようになっていくこともある。もはや甲子園クラシックといえるのが、コンバットマーチ、アフリカンシンフォニー、歌謡曲やアニメソングからアレンジされた、狙いうち、サウスポー、タッチ、ルパン三世のテーマ、鉄腕アトム、紅、学園天国、ポパイ、必殺仕事人、ドラゴンクエストⅢの戦闘のテーマなどが定番となっていて、ほとんどの学校で演奏される。最近私はダイナミック琉球が好きだ。何とも言えない現代的な神秘を感じる。時には吹奏楽コンクールの成績上位校が、オーケストラのように物凄い演奏を魅せる楽団もあり、聴いていると鳥肌がたつこともある。単に応援を盛り上げるのみならず、年々技術、表現、ハーモニーが競うように向上している。

だが、大きな問題もある。夏の甲子園は、吹奏楽の甲子園と同時期に行われることだ。吹奏楽コンクールや、マーチングコンテストも予選はこの時期なのである。コンクールに出場しない学校ならば、思う存分甲子園に集中できるが、コンクールに出場し十月の全国大会を目指す学校は、今がもっとも重要な時なのである。一分一秒でもコンクールの練習がしたい。中には、コンクールの練習をしながら、試合日には甲子園へ駆けつけるという有名校もある。数年前、某校の吹奏楽部が、自分たちの甲子園たる吹奏楽コンクールを辞退して、野球部の応援に馳せ参じたことがあり、世論は賛否二分となった。吹奏楽部内でも、コンクール出場を望む生徒と、甲子園行きを出張する生徒で意見が分かれたが、結局、甲子園へやってきた。どうやって決めたのか私は知らないが、全員が断腸の思いであったに違いない。が、最終的に吹奏楽部員が決めたことならば、外野がとやかく言うことはない。コンクール出場が吹奏楽のすべてではないからだ。これもまた青春であり、野球部員にとっては大きな励みとなったであろう。

甲子園での演奏では、熱中症に気をつけなければならない。楽器を演奏することは、パワーが要る。つい夢中で演奏してしまうこともあるから注意が必要だ。さらには楽器の保護がとても大切である。どんな楽器もデリケートなもので、殊に木管楽器は直射日光や熱射により変形して、最悪は壊れてしまう。中でも、私の吹いていたクラリネットはほぼ全体が木製や樹脂製であるため、慎重に扱わねばならない。演奏者は皆、タオルで覆いながら吹いている。それでもなお、甲子園で演奏することは喜びなのである。試合日以外の練習、場所の確保、宿泊や食事の手配など、学校や保護者まで多くの協力のもとに甲子園は成り立っている。甲子園は、選手のプレーも、アルプススタンドの応援も、最高のBGMを奏でるブラスバンドも欠かすことのできない日本の夏の風景である。

私は高校時代、甲子園に応援団として参陣は叶わなかったが、野球部の定期戦やインターハイで応援演奏した。高校二年の時はインターハイがちょうど地元で開催された。秋篠宮御夫妻御臨席の開会式で、地域の高校の吹奏楽部で三百人以上の大楽団を結成して、式典の前奏曲としてワーグナータンホイザー序曲を演奏し、入場行進等のセレモニーの音楽を合奏したことは、今でも誇りである。選手へは闘志を呼び起こす激励を、応援には豊かな色彩を与え、一致団結の要と為す。

百回目の甲子園の開会式、近江高校中尾雄斗主将の選手宣誓は、まさに甲子園を象徴する言葉で心に残った。

「甲子園は勇気、希望を与え、日本を平和にしてきた証です。多くの人々に、笑顔と感動を与えられる本気の夏にすることを誓います。」