弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 山寺

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

松尾芭蕉五指絶唱の一句だと思う。元禄二年(1689)、おくのほそ道をゆく芭蕉は、出羽国に入り、尾花沢にて立石寺名刹であることを聴いた。寄り道で山寺へやってきて、この名句が生まれたのは、いかにも良き筋立てだが、実は芭蕉は初めから山寺のことは知っていて、巨巌の群れに響き渡る蝉の声を、旅の途中から浮かべていたのかもしれない。当代一流の数寄者たる芭蕉ほどの人物ならば、そこまで思考し、計算していたのではとも思ってしまう。あくまで私の想像にすぎないが。私は芭蕉の足跡を順不同で少しずつ辿っている。今回は出羽国へやってきた。この句が生まれた山寺と、芭蕉が舟を駆った最上川へ。いざ追体験の旅へ。

晩夏、朝一番の新幹線で山形へ向かう。今年の夏も暑かったが、この日は次々と襲来する台風の影響で雨であった。山形はこれが初めてである。これまで失礼ながら、山形は東北六県で一番地味な印象であった。が、それは大きな間違いであった。最上川が豊穣の地を創造し、山海の地味に溢れ、出羽三山鳥海山蔵王など神山に囲まれた山形は、羽州ならではの純朴さで振舞う人と、その人々ゆえの優しい信仰が息づいている。あの広大な山形盆地の風景が、保守的でありながら、柔和で大らかな山形人を育むに違いない。

 立石寺を訪ねることが最大の目的であるが、少し時間があったので、山形城の周りから城下を散歩した。山形城には霞ヶ城の異名がある。山形盆地では春は霞がたなびき、秋は朝霧に包まれることもあろう。濠端を奥羽本線が南北に走っている。濠は深く、石垣は高いが、最上義光が造った城は、今はずいぶんと小さくなって霞城公園として整備されている。追手門外には最上義光記念館があった。徳川初期に最上氏がいなくなってから、山形藩は徳川の御家門や譜代大名が治めた。鳥居氏、保科氏、松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏らが、何代かで交代で入っている。これほど藩主が代わったところも珍しい。徳川時代を通じて十三度も藩主が代わったらしいが、殿様は老中や若年寄など幕閣の要職にあり、ほとんどお国入りはしなかった。幕府はここを準天領のような扱いでいたのだろう。山形は羽州の真ん中にあって、米沢や仙台の監視ができる。さらには北前船の西廻り航路の拠点酒田にも、遠からず近からず目を光らせるには絶好の場所であった。奥州が政治、軍事、経済、流通で結託しないためにも、頻繁に藩主交代がされたのではないかと思う。

最上氏の菩提寺へも行ってみた。霞城公園から東南に二キロほど、城下の外れに寺はあった。光禅寺と云う。寺は住宅地と高校の間に在るが、長い参道や境内地の広さからして、さすがに大大名最上氏の菩提寺であると感心した。最上義光の墓は本堂裏手の墓地にあった。墓は白く太い石の五輪塔で、堂々と静かにたっている。いかにも雪深い地を必死で治めた、しかしながらどこまでも清廉潔白に経世済民に心を砕いた最上義光を彷彿とさせる。最上義光は、戦国末期出羽を統一し、信長や秀吉政権下では表向き軍門に下るも、虎視眈々と自身の足場を固め、家康の頃には一目置かれる存在となっていた。奥州の関ヶ原ともいえる慶長出羽合戦で、上杉氏を撃退した最上氏は、羽州五十七万石を統治することになった。義光は、山形城の建設に着手し、城下を商人の町として整備する。年貢や地子銭などの税を免除し、その後もずっと繁栄する市を開かせ、領内を復興していった。領民にも寛大慈悲で人気を集めたと云う。最上川を治水し、酒田港の再開発、庄内平野の開墾、羽州街道も整備した。最上義光の時代に、江戸期の山形と羽州の基盤はほとんど出来上がっていたといってよいだろう。が、最上氏は義光一代限りの威光であった。最上騒動により義光の死後わずか九年で改易となる。つまらぬ家督争いが発端であったが、或いは幕府の策謀であったかもしれない。

山形駅から仙山線に乗り換えて、十数分で山寺駅に到着。駅のホームから立石寺の全景が見渡された。遥か上空に五大堂が見える。これから彼処まで登るのかという期待と不安が過る。仙山線と寺の間には立谷川が巨岩の隙間を急流しているが、おかげで山形市内よりだいぶ涼しい。 晩夏ゆえ、山形市内ではまったくなかった蟬の声も、この山麓からは煩いほどに聴こえてくる。これならばと胸が高鳴る。山形は蕎麦処である。この旅行中三度も蕎麦を食べた。門前にも蕎麦屋が軒を連ねている。その一軒に入り登山前に腹ごしらえ。東京の蕎麦と違い、野趣溢れる太麺で、蕎麦の味がしっかりしている。美味かった。

 立谷川の橋のたもとに対面石と云う巨巌があって、寺伝では円仁がここへやってきて、山人の頭である磐司磐三郎と対面した場所であると云う。山人は先住民であり、このあたりを狩場とした連中だろう。円仁は磐司磐三郎と交渉して、此処に立石寺を建立する許しを得た。空海高野山を開くときも、似たような説話がある。おそらくは、磐司磐三郎のずっと先祖の代から、ここは聖地であっに違いない。山の神を祀り、死人はここへ埋葬された。山内の到るところに侵食によってぽっかりあいた穴は、古代からの墓であると云う。山人の村は川の反対側にあって、川向こうは葬送の地であり、神の住む境域で、川が結界であったはずだ。聖地と俗地が地形的にこれほどはっきりとわかる場所もない。こうして貞観二年(860)、立石寺は開山された。実は円仁はこの地までは来ておらず、弟子の安慧に天台宗道場の建立を託したとも云われる。事実当寺は開山は円仁で、開祖は安慧である。が、これも真偽は構わない。

 蕎麦屋を出て、根本中堂へ参拝する。延暦寺寛永寺と同じく、立石寺も総本堂は根本中堂と云う。そういえば今の寛永寺の本尊薬師如来の脇侍日光月光両菩薩は、元禄時代に幕命によりこの寺から移された。内陣の本尊は秘仏厨子を護る仏像群も素晴らしいが、根本中堂で見逃したくないのは、灯籠の一筋の明かりである。延暦寺根本中堂に灯る、最澄が灯した「不滅の法灯」を分灯したものとかで、その灯は千年以上も一隅を照らしているとか。信長が比叡山を焼き討ちした際、延暦寺の法灯は消滅したが、再興の折に、ここの法灯を分灯したため、結果不滅の法灯は絶えていないらしい。私はこういう話を聴くたびに、日本仏教ならではの浪漫を抱く。真偽などはどうでも良いのである。

 寺は日本各地に大小七万以上あるらしいが、山国日本は山寺が多い。日本仏教は伝来してから、土着の神々とあまり争うことなく、共存してゆくことを選んだ。これは、日本古来の神々の側も同じであったし、寧ろ此方側から彼方側へと積極的に近づくこともあった。ことに山岳信仰とは深く強く結び付き、本地垂迹はここから派生した。山は神々のおわす聖地であり、先祖の霊魂の行くところとされたから、寺社が建立されるのは必然である。人々は神や霊魂を崇め奉ると同時に畏怖した。祟りを恐れ、供養と魔封のために鎮魂(たましずめ)を儀式し、そうした場所に寺が建立された。時代が降るにつれて、寺社は山麓から里へと下りてくるが、寺に山号があるのは、山にあった頃の名残であり踏襲であろう。 私もずいぶん山にある寺を訪ねてきたが、山形の立石寺はついぞ機会がなかった。立石寺は通称「山寺」と呼ばれる。五木寛之さんは百寺巡礼で山寺中の山寺であると書いておられるが、私も同感である。実際日本には、立石寺よりも遥かに高地にある山寺や、もっと峻険な場所にある山寺もある。しかし立石寺の長い歴史と、あまりに有名な芭蕉の足跡、そして津々浦々にまで知られた通称を考えれば、私も立石寺こそ第一番の山寺としたい。

 山寺は東北随一の古刹であり、陸奥比叡山とも呼ばれる。由縁は天台宗第三代座主の慈覚大師円仁を開山とし、一説で円仁はここへ葬るよう遺言した。山上には円仁の入定窟があるとされる。慈覚大師円仁と云う人は、東北の各地に足跡と影響があった。中尊寺毛越寺瑞巌寺など東北の名だたる寺の開山はほとんどが慈覚大師となっている。一般に大師と云えば弘法大師が第一に思い浮かぶが、東北では大師と云えば慈覚大師と云われるそうだ。円仁は、延暦十三年(794)、下野国都賀に生まれた。円仁がこの地の生まれだったことが、のちに都から隔絶した東国や陸奥においての布教活動に力を入れた理由が知れよう。九歳で岩舟の大慈寺に入り、十五歳で叡山に登って最澄の門下となった。最澄は円仁の才覚をすぐに見抜き、期待して側に置いた。円仁は最澄の東国行脚に付き従い、下野では懐かしの大慈寺に師と共に入ったであろう。そして東国や陸奥の窮状を最澄にも訴えたに違いない。最澄は諭すようにゆっくりと優しく、しかし目を逸らさずに円仁に説いたであろう。最澄の信ずる仏法が、僻地にまであまねく届くように、円仁をその伝道師とするべく育てた。比叡入山から十四年、敬愛した最澄は遷化した。

しかし円仁は悲しみに暮れる暇などなかった。師の精神の核心たる「一隅を照らす人」をつくることに深く感銘を受けた円仁は、自らその一人となり、中でもっとも明るい人になろうとした。そしてその教えの継承に尽力した。およそ十年間入唐し、天台教学と天台密教を学び、帰国するや天台座主となる。入唐中に著した日記「入唐求法巡礼行記」は、天台教学の伝書としても、紀行文としても名著であるが、「求法」という言葉に、最澄が果たせなんだ天台密教の法の伝授を切に求めた円仁の心境が表れている。各地に天台の学問所兼、天台僧の養成道場とする寺を建立した。立石寺比叡山の別院として建立し、陸奥における中心としたのである。東北の比叡山はここに誕生した。円仁は比叡山で没したらしいが、遺言で遺骸は山寺へ葬るように言ったとされる。弟子たちは、遺骨を首から上と胴体に分骨し、胴体を山寺に運んだ。はるか上空の納経堂の間下の巌窟に埋葬されたと云う。この話は伝承であったが、昭和になって、入定窟が調査された際、何体かの遺骨が見つかった。そのうち一体は、首のない遺骨で、首は木像であった。伝承は本当であったと騒がれたが、専門家の意見は分かれている。遺骨の真偽はともかく、円仁が遺言したのは本当だろうと私は思う。比叡山最澄の寺ならば、山寺は円仁の寺である。円仁は徳川家康よりはるか昔から、日光よりはるか北の山から、この国を見守ってきたのだ。

寺は山全体を境内とする。この山を宝珠山と云い、立石寺山号にもなっている。宝珠山は、高さ四百メートルほどの巨大な凝灰岩の岩山である。長い年月をかけて侵食が進み、あちこちに巨巌、奇岩、洞穴が露わになっていて、山としても存分に魅力がある。立石寺はその名のとおり、石の上に立っている。今はりっしゃくじと云うが、昔はりゅうしゃくじと云った。根本中堂を出て右手に寺を鎮守する日吉神社があり、宝物館や常行堂がある。その先に「關北霊窟」と掲げた山門があった。ここからが真の山寺である。威儀を正してその門を潜る。あたりはすぐに鬱蒼たる森で、すぐに石段が始まる。一段一段登る度に、煩悩が一つ一つ消え去ると云う。岩肌剥き出しの宝珠山は、高山ではないが、五大堂や奥之院に到達するまでおよそ千の石段を登る。千段はキツイだろうと覚悟していたが、途中、姥塚、円仁の御手掛石、蝉塚、弥陀洞など、見所毎に休める場所もあって、一気に登るわけではなく、思いの外楽であった。弥陀洞は巨大な一枚岩で、見る人の心が清ければ阿弥陀如来に見えると云う。じっと目を凝らして見た。見える。私にも阿弥陀様がはっきり見える。これは嘘でも冗談でもない。あの日のあの時の私には確かにその姿が見えたのである。私はこういうことはあまり信じないし、実際似たような場所でも一度も見えた試しはない。その私が言うのである。確かにあの時、阿弥陀如来を見たと信じている。もっとも次に訪れた時は、もう見えないのかもしれない。

私はゆっくりゆっくり登ってゆくが、何人かの大学生が、汗だくになりながら上半身は裸で、走り去っていった。巨巌巨石が累々と折り重なり、圧倒的景観。途中、道幅がわずか四寸(十二センチ)という場所があり、こうしたところを見ても古くから修験道が盛んであったに違いない。いずれここも世界遺産になるかもしれない。大自然の威厳とそれを畏怖し信仰した人々の面影が、岩壁に映し出されているような錯覚がした。仁王門を過ぎると視界が開けた。冷風が次から次に吹いてくる。辺りは圧するように鋭い岩が聳り立つ。立石寺という名に背かぬ、偉大なる眺めである。

山寺でもっとも心動かされた風景は、開山堂から納経堂へのアプローチである。目も眩む断崖絶壁で、片側は手すりもない崖である。その先に大きな皹の入った岩山が屹立しており、平な場所に円仁を祀る開山堂、岩山の先端に赤い色をした端正で小さな納経堂が、まるで山寺を照らす灯台のように建っている。積年の憧憬が今目の前にあった。見晴らしはどこまでも高く、広く、重畳とした山並みを、鳥になって俯瞰できる。この上にある五大堂からも、その眺めを存分に味わった。嗚呼ついにここまで来れたか。感慨無量であった。このままここから大空へ羽ばたきたい気分である。 そして奥之院まで到達して、大仏様を拝んだ時、ようやく少し興奮が鎮まったのである。余談だが、かつて山寺には滑り台があったらしい。私も詳しくは知らないが、聞くところによれば、五大堂付近から三百メートルあまりを一気に滑降したとか。しかし、あまりに急峻で、怪我人が後をたたなかったらしく、昭和四十年代前半には廃止されたそうだ。寺に滑り台とは前代未聞でまことに面白い発想である。廃止されて当然といえばそうだが、あまり型や枠に囚われないのは、羽州人の気質なのではないか。

話はおくのほそ道に戻る。芭蕉もここまで辿り着いた。その時の印象と、この句を詠じた気分をかく記している。

山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、其の間七、八里ばかり也。日いまだ暮れず、麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

おくのほそ道前半のハイライトである平泉を過ぎ、尿前の関、尾花沢で一息ついた芭蕉曾良。このあと最上川を下り、出羽三山を経由して酒田から日本海側の越路を南下してゆく長丁場を前に、立石寺へ立ち寄ることで、旅の覚悟ができた。同時に陸奥随一の古刹にて薬師如来へ道中の無事を祈ったであろう。盛夏の蝉しぐれは、煩いほどであったかもしれないが、それが芭蕉にとっては身を清める滝飛沫のように降り注いできた。或いは岩は芭蕉自身であって、彼の心身に沁み入ってきたのであろう。それは蝉の声だけではなかったかもしれない。私はこの一句から、様々なことを想像する。芭蕉がおくのほそ道で立石寺を訪ねたことが、この旅の止め石になっているように思う。止め石とは、自らの逸る心、焦り、暴走をとどめる重石である。稀代の数寄者のみが到達できる境地がある。だが、自由に流れ、流されて生きてゆくには、時に止め石や重石が必要だ。西行もそうであった。西行を思慕する芭蕉もまたそうであったと思う。

私はなるべく人気の少ないところを探して、傍の石に腰を下ろした。東京や山形市内ではすでに蝉の声は聴こえない八月の終わり、山寺は全山でまだ元気に蝉が鳴いてくれていた。蝉しぐれは、巨岩や岩窟に油滴のように染み込んでゆく。私は芭蕉曾良と同じ旅の空の下にいた。