弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 天空の枯山水

東京は23区と多摩では人口だけではなく、街の様子もずいぶんと違う。丹沢、高尾、秩父の峰々がグッと迫り、そのキワから、街はゆるやかに江戸へと下る。真冬の快晴の日には、富士山が目と鼻の先に大きく現れる。昔は、江戸の町の至る所から、富士を眺められたものだが、今は高層ビルに昇らないとなかなか拝めない。でも多摩ならば、今でも武蔵野から望む富士がある。富士見町、富士見ケ丘、ふじみ野、富士見台など、取って付けたように富士を冠する地名が出てくる。かつて三多摩と云われた地域は、いわゆるニュータウンという印象があるかもしれない。しかしそのニュータウンのすくそばには、神社仏閣が点在し、古墳もあったりして、古くからの人の営みも随所に見られる。都心から電車で小一時間の場所に、そういう寺社を見つけた時、私の胸は踊る。近畿地方には然るべき場所に、神社仏閣が在って、関東は到底敵わぬ歴史がある。が、東京の多摩において、神さびた社や、風情漂う寺と出逢った時、その意外性?から、私の感動や喜びは関西で見つけた時よりも大きなものがある。そしてそれらの寺社について調べてみると、意外でも何でもなく、多摩には万葉時代の面影もあれば、古代人の営みまで垣間見られる場所が点在しているのであった。ついつい畿内や江戸にばかり関心が向くが、多摩には裏街道の歴史がつまっている。

江戸が本当に発展したのは、言わずもがな徳川時代になってから。古代から中世までの武蔵国の歴史は、多摩地区にこそ見つかる。武蔵国国府が置かれた府中市国分寺市がその中心で、律令時代、東山道や武蔵路が発展したのも、国分寺を目指していたからだ。畿内とはこの道で結ばれていた。多摩市、町田市、稲城市川崎市麻生区多摩区横浜市青葉区の一部を、かつては南多摩郡と云ったが、奈良とか三輪とか、大和を彷彿とする地名が見られるのが興味深い。いずれ大和から下った人々が、望郷の念から、大和に似た景色を見つけては、そのように呼び習わしたのだろうか。中世、分倍河原では、二度も大合戦が繰り広げられた。このあたりが鎌倉街道東山道など複数の街道の交わる要衝であったからゆえであろう。八王子には小田原北条氏の大きな支城があったのも、小田原を甲州武州、信州などから守るためであった。多摩市の聖蹟桜ヶ丘には、さいたまの大宮にある氷川神社と並び武蔵一宮だとされる小野神社もある。聖蹟桜ヶ丘と云えば、明治天皇の狩場であったところで、天皇はいたくこの地を気に入り、春に鶯の啼くのを聞かれて、皇后とともに歌を詠まれた。

春深き山の林にきこゆなり今日を待ちけむ鶯の声(明治天皇

春もまだ寒きみやまの鶯はみゆきまちてや鳴きはじめけむ(昭憲皇太后

今では「耳をすませば」の舞台で有名になった聖蹟桜ヶ丘も、明治の頃までは風光明媚な丘陵であった。

他にも、調布の深大寺、府中の大国魂神社、日野の高幡不動高尾山薬王院など本当に見所が多い。これら有名どころ以外にも、風情ある佇まいを魅せる寺社が探せばいくらでもある。京都や奈良の立派な寺社も大変けっこうであるが、負け惜しみでなくとも、多摩地区にはそれに劣らぬ魅力を感じている。私は多摩が大好きである。時間があると、ちょっと散歩がてらに出かけてみる。十年以上ずいぶん方々を歩いてみたが、奥は深く、まだ見ぬ寺社は数多ある。お江戸とも畿内とも違う、素朴で独特な色を持っている多摩を散歩するのは楽しい。何よりもうれしいのは、いつ行っても静かであることだ。これに尽きる。

その多摩の総奥の院ともいえる場所が、西多摩郡檜原村だ。先年師走の半ば、私は初めて檜原村へ足を運んだ。檜原村は奥地である。鉄道は奥多摩町には走ったが、檜原村にはやって来なかった。東京なのになかなか行けない。東京の秘境とも呼ばれる所以である。檜原村には前から気になっている寺があった。玉傳寺と云う禅寺で、本堂から眺める枯山水が見事であると云う。友人T君に同行してもらい、早朝から青梅街道を西へ向かう。途中、五日市界隈の寺社に、ちょっと寄り道する。この界隈、私は度々歩いてきたので、初めてのT君を案内した。横田基地を通り過ぎて、多摩川にかかる多摩橋を渡った瞬間、周囲の丘陵の圧巻に私たちは息を呑んだ。丘陵全体が、この年の終わりの紅葉で明け染まり、まさに今が最後とばかりに眩しかったのである。京都では近年、松喰い虫にやられて、周囲の山の紅葉の色が薄れて、冬枯れも目立つが、五日市周辺の山はまだまだ元気である。今はあきる野市となってずいぶん大きな街になったが、街のすぐそばに野山があり、田畑がある。東京とは思えぬ長閑な風景が広がっている。街を東西に流れる秋川は、古代からこの地を潤してきた。

東京サマーランド近くの秋川を見下ろす小高い丘を明神山と云う。この山に鎮座する雨武主神社の社殿には、見事な彫刻が施されている。このあたりを雨間と云い、雨武主神社は古くから、雨乞いの神様として崇拝されてきた。祭神は天之御中主(アメノミナカヌシ)で、土地では「あまむし大明神」と呼ぶ。天之御中主は、古事記では最初に登場する神で、次に登場する高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)と、その次に登場する神産巣日神(カミムスヒノカミ)と共に「造化の三神」と云うが、天之御中主は天の真ん中を領する神とされる。中心の神と云うことで、後には北極星の化身とされる妙見菩薩や、伊勢の豊受大神を同一のものとする考えが生まれ、妙見信仰や伊勢信仰とつながり、同じ天を司る神として祀られた。ゆえにここでも日照り続きの飢饉では、雨乞いの神として縋ったのだろう。同一視というところを切り取れば、或いは神仏混淆ということにもつながってくる。秋川の対岸には鳥居場と呼ばれる遥拝所があり、川向こうの人々は、わざわざここまで来なくても済んだのである。江戸の頃までは、川の中州にも鳥居場があったとか。ずっと前に対岸の鳥居場にも行ってみたことがあるが、今は住宅地の只中にあって、ささやかな社が建ってい、社の先には、明神山がいかにも神山を思わせる崇高な山容で見えた。明神山の麓からは百九十六段の急な石段が、天に向かって真っ直ぐに伸びている。石段を昇ると、木立の中に社が建っていた。本殿は風雪避けに覆われているのだが、それは本殿に施された彫刻を守るためで、社殿奥の壁面と裏面にその彫刻がある。中国の故事を描いたものらしく、見たところ柴又帝釈天の彫刻に類似している。どこにでもある左甚五郎とか、飛騨の匠説もあるが、江戸の頃の作ならば、帝釈天の彫刻を施した、江戸や安房の彫師集団の誰かの作と思われる。人里離れた神社に、こんな見事な彫刻があることに驚くが、地元の人にだけ親しまれて、大切にされてきたのである。ここにある彫刻からは、権力とは無縁のうぶな光芒を感じる。

秋川の清らかな流れは、古代から人々の営みを支えていた。ゆえに五日市には古社寺がたくさんある。五日市町秋川市が合併し、あきる野と云う地名になったのは近年のことだが、五日ごとに市が立ったことに由来する五日市と云う古い名は、街道や駅に残り、旧家や古い家並は五日市駅周辺に遺されている。西南戦争が終わり、ようやく時勢落ち着き始めた明治十四年(1881)、自由民権運動の高まりを受けて、国会開設と憲法の必要が唱えられ、運動は全国津々浦々まで広がった。この山里でも有志が集まり独自の憲法草案をまとめた。いわゆる五日市憲法と呼ばれる私擬憲法である。私擬憲法は、大日本帝国憲法発布以前に、日本中で議論された民間の憲法私案である。個人では、元田永孚山田顕義、福地源一郎、井上毅、小野梓、西周錚々たる啓蒙思想家が私案を発表している。彼らに共通するのはほとんどが旧士族であり、西南戦争を忸怩たる想いで見つめていた者もいたかもしれない。が、西南戦争の結果が、彼らを余計に奮い立たせ、新たな道を拓いてゆく原動力となったとも言える。五日市憲法は、正確には「日本帝国憲法」と云うタイトル。起草したのが千葉卓三郎で、支援したのがこの地深沢の名主で深沢権八であった。千葉は仙台藩士の子として生まれ、戊辰の役では白河口の戦いにも参戦した。維新後、ロシア正教会の洗礼を受け、各地を転々としながらキリスト教のみならず仏教、儒学国学等をおさめ教師となり、やがて五日市の小学校に派遣されて校長になった。これが縁で名主の深沢権八とも知り合い、これからの日本の行く末を語り、意気投合したのである。五日市憲法は、現日本国憲法に近いとも云われるが、実際は似て非なるモノ。全二百四条のうち百五十条を基本的人権や民権を主張すると云う画期的な部分はあっても、統帥権を含めた天皇大権は絶対であるとしており、国民の権利や保障との間に矛盾をきたしている。結局、五日市憲法は私案のまま眠ってしまったが、昭和四十三年(1968)、多摩の自由民権運動を発掘し研究した色川大吉によって、深沢家の土蔵から発見され、五日市憲法と呼ばれるようになる。明治期、多摩は自由民権運動の盛んなところであった。多摩からは幕末来、新撰組をはじめとした志士勇士が出て、存在感を発揮する。江戸東京の食糧供給源である多摩の庄屋や豪農は、絶大な力を有していた。江戸を支えていた自負心が代々継承されていったのも当然であろう。その気になれば、村人を動かし一揆を煽動もできたし、周辺の名主と結託し、連を造り得た。一方、権力側とも癒着し、たとえば代官とも一蓮托生で治めている場合もある。こうした農村では豪農たる庄屋や名主が、ほぼ全面的に権力側と市民側とのパイプ役であり、庄屋や名主抜きでは何にも決まらず、解決しなかった。江戸期から明治初期まで日本の農村はいずれも似たような形であったと思う。江戸幕府が瓦解し、封建社会は崩壊するも、豪農は四民平等を謳う新政府と庶民をつなぐパイプ役としての力を失わず、むしろ積極的に農村からも自由民権運動を煽動した。東京の庭先である多摩が、その中心地となるのは当然で、人々の意識の高さが窺える。

五日市周辺の寺のいくつかを訪ねてきたが、中で私を強く惹きつけたのが、大悲願寺と広徳寺であった。 武蔵増戸駅から十分ほど歩くと、何処からともなく沢の瀬音が聴こえてくる。やがて武家屋敷を思わせる漆喰の壁と、その先に重厚な大悲願寺の山門が現れた。山内は樹齢五百年もの杉木立が亭々と聳えている。大悲願寺は真言宗豊山派の寺で、かつては三十二の末寺を擁したが、今は花の寺として有名である。梅、牡丹、桜、躑躅、藤、花菖蒲、百日紅、白萩、紅葉とまさしく百花繚乱。伽藍は本堂にあたる講堂、阿弥陀堂観音堂があるだけだが、いずれも落ち着いた佇まいを見せている。無畏閣と呼ばれ重文の阿弥陀三尊を祀る阿弥陀堂には、雨武主神社のように精緻な彫刻が施され、こちらは色彩も鮮やかに蘇っている。私の目をことに惹いた観音堂は、華奢ではあるが気品があり関東でも指折りの優美さである。寺伝では聖徳太子一宇の草堂を建てたことが起こりとされるが、寺の背後の山にその伝説があるとか。土地の人々の聖地には様々な伝承があるもので、太子信仰は西国ばかりではないことを示している。日本の寺院にはだいたい似たような寺伝があって、聖徳太子役行者行基菩薩、弘法大師、慈覚大師が代表される存在だ。伝承は様々だが、正式に記録が残るのは、建久二年(1191)源頼朝の家人で、日野の平山城主平山季重が開基であると云う。平山季重は源平合戦の勇士として活躍し、頼朝の覚えが目出度く武蔵開拓を託されて、この地に縁を得た。開山には京都醍醐寺三宝院の澄秀を迎えている。徳川時代には幕府から朱印状を与えられ、伊達政宗も時の住持と親交があった。ある秋の日、この寺を訪れた政宗は、境内いちめんに咲く白萩に心奪われて、後日一株所望したと云う書簡が残っている。その白萩は現在も九月になると講堂のまわりに花の海を現出させる。

大悲願寺から広徳寺までは歩いて一時間少々。ちょうど良い散歩コースだ。私はこのあたりを何度も歩いた。雲雀囀る麗らかな春、清冽な川飛沫が涼やかな夏、街を包む丘陵が全山燃ゆる秋、張り詰めた山気が里全体を支配する静謐な冬。ここは東京でもっとも四季を堪能できる場所かもしれない。途中、阿岐留神社にも寄る。その名のとおり、あきる野と云う名の由緒とされる。さすがにこのあたりの総鎮守らしい堂々たる社である。阿岐留神社のすぐ真下を秋川が流れてい、川沿いを西へゆくと小和田橋に達する。橋を渡ると左手に秋川丘陵が横たわり、広徳寺は丘陵の入り口を少し登ったところにある。急坂の参道には石仏が並び、両側には石垣が積まれていて、確かに名刹へのアプローチらしい。寺好きはきっと胸が騒ぐであろう。坂を登りきるとそこが広徳寺の総門で、奥には情趣溢れる茅葺の山門と、その先の本堂まで、一直線に配された伽藍は美しい。広徳寺は応安六年(1373)創建の臨済宗建長寺派の寺である。なるほど、それでこの伽藍配置か。茅葺の本堂は質朴でどっしりとした感じが、いかにも鄙びていて私には好ましい。本堂裏手には小さな池があって、唐紅に染まる楓が水面に映えて揺れていた。巨大な多羅葉や栢が本堂を背後から守るようにして立っている。広徳寺は境内全体が禅寺らしい簡素で侘びた佇まいであるが、何と言っても山門内に聳える二本のイチョウは、見る者を圧倒するだろう。推定樹齢三百年とも四百年とも云われる二本の巨木は、山門を潜った先、本堂との間に、あたかももう一つ門が立っている様に見える。このイチョウ高さも二十メートル以上あるが、太い枝が下に向かって垂乳根のようにぶら下がっている姿は、少々薄気味悪い。逆に言えば神々しくて、枝に触れたら吸い込まれそうである。山門や本堂は江戸期の再建と云うから、おそらくはこの二本のイチョウを中心にして、この寺は整備されたに違いない。それほどこの禅寺の一直線の伽藍配置にしっくり収まっている。イチョウを山門に見立て他の堂宇が建立されていったとすれば、自然と一体となされた寺であることがわかる。広徳寺の風景に私は深い感銘を受けた。

 車はあきる野からさらに奥へ。五日市街道は戸倉集落のあたりから檜原街道と名を変える。ここからは私も未開の地。道は山登りである。昼頃、檜原村へ入った。すぐに中山の滝がある。檜原村には多くの滝があって、十三瀑布が名所となっている。中で落差最高六十メートルの払沢(ほっさわ)の滝は「日本の滝百選」にも選ばれている。本宿というところに檜原村役場があり、このあたりが昔から村の中心地らしく、近くの山上には檜原城址や吉祥寺という古刹がある。役場でガイドマップを貰った。役場の人はとても親切に檜原村のことを教えてくれた。都庁や23区の偉そうな小役人とは雲泥の差の優しい応対に、私は檜原村の風景にも人にも惹き込まれた。役場の前や街道筋には茅葺の古民家が点在している。こんな景色は東京はおろか、今の日本ではなかなかお目にかかれない。

檜原街道は役場の先で二手に分かれる。右に折れたら北秋川渓谷で、ずっと先に神戸岩(かのといわ)と呼ばれる高さ百メートルもの巨岩がある。神戸岩は太古から神の磐座と信じられてきた。檜原村は神々の住まう国への入り口。山や巨巌を、樹木や滝を、人々は崇めて御神体とした。この時は時間が足らずに断念したが、神戸岩と払沢の滝は次の楽しみとしたい。役場前の檜原街道を左に折れれば南秋川渓谷で、目指す玉傳寺はこちらである。あきる野も蕎麦が美味いが、檜原村もまた蕎麦所らしい。途中、山の中腹にある一軒に入った。太い十割蕎麦で、コシが強く歯応えがある。蕎麦好きの私は洗練された都会の蕎麦も好きだが、蕎麦の香を堪能するにはこうした蕎麦もまた良い。

 車は山中を西へ、秋川沿いを上流へと遡る。時折視界が開けてもそこは滝や川であったり、ささやかな畑であったりするが人家はない。だいぶ行ったところにようやく集落が現れた。人里と書いてへんぼりと云う集落で、本当の意味でこのあたり唯一の里である。玉傳寺はこの人里の小高い丘の上に在った。が、いったん玉傳寺を通り越して、秋川をさらに遡上し、九頭龍神社へ向かう。人里から三、四キロ行ったところに龍神の滝があった。秋川渓谷に下りて、朽ちかけた木橋を渡った先に白糸のような滝が落ちている。落差はない滝だが、滝口から木漏れ日が射し、水が七色に輝いて見える姿は何とも神秘的で、確かに龍神が現れそうな雰囲気がある。滝壺は浅くて、滝行にも利用されているのではないか。さらに一キロほど遡上すると九頭龍の滝だ。滝はこのあたりの水を集めて秋川へ流れてゆき、やがて多摩川に注いでゆく。九頭龍の滝は二段構えの勇壮な滝で、龍神の滝よりも水量も多い。注連縄が張られており、一帯は神域となっている。龍神の滝がしなやかで女性的な滝ならば、九頭龍の滝は荒々しい男性的な滝である。九頭龍神社は滝から歩いて五分ほど、街道沿いの杉木立の中にひっそりと建っていた。鳥居前の二本の杉の巨木はあたかも昇竜の如く見えて、まことに清浄な空気が境内を支配している。九頭龍神社の正確な創建年は不明と云うが、神社の由緒には、南北朝時代建武三年(1336)に、現宮司の祖である中村数馬守小野氏経が、南朝方に従軍し、南朝の守護神とされた九頭龍をここへ祀ったことが始まりであるとされる。信州戸隠神社から九頭龍社を勧請し、祭神は九頭龍大神手力雄命とされるが、九頭龍の滝が真の御神体なのであろう。滝の多い檜原村には、水を司る龍神信仰は上古からあったはずで、ここも聖地であったに違いない。そこへ九頭龍神社が建立されたのも、偶然ではなく必然であった。

九頭龍神社をあとにして、ようやく玉傳寺へ向かう。人里の集落に戻ってきた頃には、日はだいぶ傾いていた。玉傳寺の石段を登ると鐘楼があり、すぐに石庭が現れた。そこに本堂があって、庫裏も棟続きになっている。堂宇はそれきりのまことにささやかな寺だが、なんといっても景色がすばらしい。これが噂に聴いた絶景の枯山水か。龍安寺の半分もあるかないかの小さな石庭で、禅寺でよく見かける枯山水であるが、玉傳寺の枯山水は見ればみるほどに大きく見える。それは枯山水の背後に重畳と連なる山々を大借景にしているからである。参詣した日は快晴で、青空の下、折り重なる山は彼方まで見渡せ、後方の山は天との間に地平線を作っている。これほど雄大な借景を持った枯山水は他にあるまい。私たちは一頻り歓声をあげると、深呼吸をして、じっくりとその景色を堪能した。この寺は永正元年(1504)の創建で、臨済宗建長寺派であることまではわかったが、開基や由緒についてはよくわからない。そんなことはどうでも良い。住職や奥さんとも顔を合わせたが、寺のことを詳しく伺う事もなく、今はただ、この眺めを飽くまで見ていたいと思った。玉傳寺は、寺カフェ「岫雲」を営んでおり、私たちも薄茶をいただいた。冬の陽だまりが暖かく包む本堂の縁側に座して、美しい静寂の石庭を眺めながらいただいたお茶は格別であった。この石庭は京都の大学で枯山水を研究する方々からアドバイスを得て作庭されたらしい。右手の山にはちょうどこの庭からも眺められる位置に一本の枝垂桜がある。いつか花の頃、月夜の晩にでもそれを観てみたい。玉傳寺は東京で一番の枯山水であり、私には日本でも五指に入る名庭である。玉傳寺には枯山水の庭の他、何にもない。それがいっそ心地よく、真の禅寺であると感心した。

 車は檜原街道から再び五日市街道へ戻ってきた。五日市駅近くに美味い洋食屋があり、そこで少し早い晩御飯。食後、ふと急に夜の広徳寺が見たくなり、T君にお願いした。ここからは車で5分少々。私たちは夜の広徳寺山門を潜った。同じ日に二度も広徳寺に来れるなんて幸せなことだ。しかも夜は初めて。一度夜ここへ来て見たかった。その願いが叶ったのである。夜の広徳寺は、昼にも増して森閑としている。無論、境内にいるのは私たちのみ。時折、森の方からホウホウと聴こえてくるが、梟なのか、みみずくなのか。山門も、本堂も、巨大なイチョウも静かに眠りにつこうとしている。いやイチョウ垂乳根だけは、相変わらず不気味に手招きして見える。まるで触手のように伸ばして、掴まれそうである。しかしそんな気味の悪さも、上を見上げたら吹き飛んだ。空には満天の冬の星座。 本当にここは東京なのか。いや東京とは23区であって、多摩は多摩、別世界なのである。多摩にはまだまだ未開の地がある。私は多摩の魅力の完全なる虜である。その不思議な魅力に誘われて、私はまた多摩へと向かう。