弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一改元一

今上陛下は第百二十五代天皇である。現在の皇室典範には、天皇は男系男子が皇位を継承すると明記されているため、女性が皇位を継承することは出来ないが、秋篠宮悠仁親王様が御誕生になるまでは、天皇家に次の次の代に男子がおられないため、女性天皇即位に向けた議論が活発であった。議論は今や立ち消えとなったが、いずれこの問題は避けては通れまいと思う。確かに天皇家の歴史を重んずれば、男系を絶やすことは望ましくないが、今上陛下と皇族方が、現代の皇室像と云うものを丹念に築かれた上、此度の御退位という御聖断をされた以上、我々国民もその御意志を尊び、今に生きる我等の象徴としての天皇と皇室を支えなくてはならないと思う。

天皇百二十五代のうち十代八人が女性である。推古、皇極、斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳、明正、後桜町の十代だが、八人であるのは、皇極天皇孝謙天皇は一度退位し、再び斉明天皇称徳天皇として即位したからである。これを重祚と云う。女性天皇はヒメノミコトとかヒメノスメラミコトと称されたが、女帝と云う言葉が現代人には馴染んでいる。最初の女帝推古天皇は、欽明天皇の皇女で、母は蘇我稲目の娘堅塩姫(きたしひめ)。推古天皇は、用明天皇の同母妹であり、敏達天皇の異母妹であり、崇峻天皇の異母姉にあたる。敏達天皇が皇太子時代に妃となり、敏達天皇即位後に前皇后広姫の薨去に伴い、二十三歳で皇后に冊立された。三十二歳の時、敏達天皇崩御され皇太后となる。その後、兄の用明、弟の崇峻が皇位を継承したが、世情不安定で、いずれも短い間に不慮の死をとげられた。皇位を巡る争いはまさしく骨肉の争奪戦となり、まことに熾烈を極めた。この時すぐ様皇位を継承をできる男子がおらず、父が天皇である推古天皇が男系を継げる唯一の方であったため、三十九歳で日本史上初の女帝となられた。推古天皇は聡明で美しき女性であったと云う。無論のこと女帝擁立は急場しのぎの一時的な措置であったはずだが、ブレーンもしっかりしていたのか、推古天皇の御世は三十六年続く。推古天皇は即位すると、甥の厩戸皇子を皇太子にされ、太子は摂政となられ推古朝を支えた。聖徳太子は仏教を重んじ、「厚く三宝を敬え」と説き、十七条の憲法、冠位十二階を定め、遣隋使を派遣、律令国家の礎を築かれた。自らが皇位を継承されることはなかったが、その影響と足跡は推古天皇よりはるかに大きく、後に太子信仰も起きるほど、日本人には特別な偉人として祀り上げられている。聖徳太子が皇族ながらここまで日本人を惹きつけてしまうのは、仏教と深く結びついていたことと、太子がとても人間らしいからである。聖徳太子には数々の伝説があるが、後の日本仏教祖師たちに崇拝され、あたかも釈迦の生まれ変わりの如き存在となった。さらに太子は摂政として実際に政治を司り、具体的に政策を実現していった。律令国家とはすなわち日本と云う国家が形になった第一歩であるが、それを築かれたのは紛れもなく聖徳太子であった。初代摂政は神功皇后ともされるが、明確に文書に顕れるのは聖徳太子からである。推古朝は法隆寺に代表される飛鳥文化の最盛期であり、神代から古代へとバトンタッチされた瞬間であったといえよう。聖徳太子推古天皇より先に亡くなり、その後、崇仏派の蘇我氏が台頭するのも、太子の目指した仏国土が土台となったのである。

まもなく新しい元号が公表される。果たしてどんな元号になるのか。多くの国民の気になるところ。さすがに平成最後の云々にはいささか飽いてしまった。京の都で暮らす冷泉貴美子さんは、日本中が改元に沸き返っても静観しておられる。冷泉さんは「元号が変わるからといって、特別何にも変わりません。」と言う。これが千年培われてきた都人の言葉。泰然自若とした誇りと、何にでも一喜一憂する現代の日本人とは一線を画しますと云う京都人の冷めた見栄が感じられるが、それが私には好印象である。桓武天皇以来、幾たびも皇位継承を近くで見てきたのは京都人だ。ましてや近習廷臣の公家ともなれば宜なるかな冷泉家は俊成や定家に遡る歌人の家である。定家筆の古今和歌集後撰和歌集、明月記を受け継いできた。明治維新天皇が東京へ行幸され、禁裏を取り巻く公家衆もほとんどが付き従ったが、冷泉家は御文庫の保守のために京にとどまった。おかげで幕末に再建された冷泉家屋敷は残り、洛中に残る唯一の公家屋敷として貴重な遺構となっている。その屋敷に冷泉家は今も暮らしており、時雨亭文庫として王朝の歌の家、和歌守としての役割を果たしている。

冷泉さんの様な考え方をされている京都人は多い。洛中洛外の名刹禅刹の坊様方、茶の湯の家元、何百年も続く老舗の主人や職人など、名うての京都人には、もはや一度や二度の改元は、特別なものではないように映る。この一年、平成最後と云う言葉を頻りに聞いた。かく言う私も託けてよく使ったし、このブログでも平成古寺巡礼と題した寺参詣記を書いてきた。しかし、冷泉さんのように京都人にとっては改元も日常の通過点で、新天皇の即位はハレでも、改元はケなのである。

元号は年号とも云う。徳川時代までは年号と呼ばれる方が一般であった。元号の起源は、中国前漢時代、武帝が治めし建元元年(紀元前140)に遡る。隋時代に日本でも元号が知られるようになり、孝徳天皇の御世すなわち大化より元号を用いた。中大兄皇子中臣鎌足乙巳の変蘇我氏を倒し、変後、天皇中心の中央集権国家の樹立を目指した大化の改新が始まる。大化とはいかにも中国的な元号だが、元正倉院事務所長で、「歴代天皇年号事典」の著者米田雄介氏によれば、大化とは「天皇の大きな徳により人民を感化するの意味ではないかと思われる」と云う。大帝国隋の脅威に備えるには、一日も早い中央集権国家の完成を目指し、遣隋使と交流した隋人に、日本と云う国が高度な文明を育んでいることを示すことが必要であった。また、隋の見習うべきところは積極的に見習う姿勢は、恭順の意を示しながらも、まことにしたたかであったと思う。日本では公式な元号としては大化にはじまり、白雉や朱鳥を経てしばらくは途絶えたが、律令制が一応の完成をみる大宝より今日の平成に至るまで続いている。時には白鳳など公式ではない私年号が出てくる時代があるが、私年号は、時の反政府勢力などが、公式とは別に編み出した年号である。それでも白鳳文化と呼ばれるように、白雉や朱鳥よりも白鳳の方が今日広く浸透したのは、まさしく文化のなせる業で、日本人が美に覚醒した瞬間である白鳳時代が、日本文化のビッグバンであった所以であろう。結局、政治よりも文化が勝ったのである。

元号は二字が基本だが、定めはないらしい。これまで聖武孝謙淳仁、称徳時代に四字の元号が、天平感宝天平勝宝天平宝字天平神護神護景雲まで五度あったのみで、あとはすべて二字である。そもそも型や形式を重んずるわりに、一方で何でも略式を好む日本人は、あまり長い元号を用いるのは避けたはずだ。大化から数えれば平成まで二百三十一。これは明治天皇南朝が正統と定められたゆえの数で、北朝を加うれば、二百四十七である。元号は昭和が六十四年ともっとも長く、次いで四十五年の明治、三十五年の応永、三十一年の平成、二十五年の延暦の順。もっとも短いのは鎌倉中期の暦仁で僅か二ヶ月であった。明治に一世一元の詔が出され、天皇一代につき一元号と定められる。新天皇践祚に合わせて新しい元号となる即日改元とされたが、平成は翌日改元であった。昭和六十三年秋、天皇の御容態は芳しからざる状態となられ、政府は密かに有識者を交え、改元に向けた新元号の検討に入ったと云う。こうした動きはトップシークレットで、当時は一切漏洩することはなかった。明治以前は天皇が代替わりしても必ずしも改元しないこともあった。やはり政治情勢の動きがもっとも影響したと思われる。改元のきっかけとしては時代により異なるが、奈良時代頃までは、美しい雲や珍しい亀が現れるとめでたい事の前触れであるとされ、これがいわゆる瑞祥で、肖って霊亀神亀神護景雲改元した。白雉には白い雉が現れ、朱鳥には朱い鳥が現れたのであろうか。平安時代以降になると、天変地異が多発して、人々はそれを魑魅魍魎や怨霊の仕業であるとし、鎮護国家や怨霊調伏のために改元するようになる。また元寇や黒船来航など外圧に対しても改元している。わかりやすい例で言えば、後醍醐天皇の御世は元応、元亨、正中、嘉暦、元徳、元弘、建武、延元と八度改元され、孝明天皇の御世は嘉永安政、万延、文久、元治、慶応と六度改元している。ややこしいのは南北朝時代である。何せ六十年有余年の間、両統迭立であったこの時代、南朝北朝それぞれに元号があった。王朝が二分したことは、日本史上において極めて特異なことであり、皇位継承はそれこそ命がけであったのである。後醍醐天皇は各地に皇子を派遣したが、北陸では当地に派遣された皇太子恒良親王に譲位することで、北朝方との和睦を試みるのだが、この時北陸では恒良親王を新帝と奉じて白鹿(はくろく)と云う私年号が使われている。この時代の混沌とした様は、戦国時代以上であったかも知れない。南北朝時代についてはいずれまた後述したいと思う。

いずれにしろ明治以前、人には計り知れない出来事や、風雲急を告げる事が起こると度々改元したのである。朝廷や時の為政者にとっては改元がゲン担ぎでもあり、危難避けや気分一新の手段として、かなり重要とされたことは確かである。一方、明治より前の庶民にとっては、元号改元などほとんど知らぬことではなかったか。庶民が気にしたのは元号よりも暦であろう。無論旧暦であるが、生活に直接関わる暦は、徳川時代には広く深く庶民にも浸透していた。辛酉(かのととり)や甲子(きのえね)の年は、世に変革が起こると云う思想から、辛酉革命とか甲子革令といわれ平安時代以降は改元された。辛酉の年は昌泰から延喜に改元されて以来明治まで必ず改元している。甲子の年は応和から康保に改元して以来、永禄七年(1564)を除き、改元している。いかに辛酉と甲子の年が、昔の人々の気に病む年であったのかがよくわかるが、このことも庶民はあまり知らなかったのではないかと思う。

 私は昭和五十年の生まれ。改元は二度目であり、三代の天皇を仰ぐことになる。四代はあるであろうか。いずれにしろ時代の節目として、此度の践祚改元にあたり、やや緊張感を持って、しかし京都人のようにどっしりとその時を迎えるつもりである。ちなみに私の祖母は大正六年の生まれ。御年百一歳。大正、昭和、平成と生きて、此度四代の天皇を仰ぐ。