弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 金勝山の残照

私の旅の最強のナビゲーター白洲正子。白洲さんが此の世を去って二十年が経ち、彼女が見た日本の風景はほとんど消え失せ、一部では悍ましき有り様となってしまった。私は二十数年前、初めて白洲正子の代表作「かくれ里」に出逢い、彼女が日本のかくれ里に取り憑かれたように、私は彼女に取り憑かれた。そして少しずつではあるが、白洲正子の旅の足跡を辿っている。白洲正子の道行きに、私も乗っかってみればハズレはない。好きな事、モノ、そして場所の琴線というものは、まったく人それぞれであるが、時に誰かと一致することもある。白洲さんには迷惑かもしれないが、今のところ白洲正子の旅した場所は、私の好みと完全に一致している。そこへ行けば、かろうじてまだ少し、昔の日本があったりする。気持ちが晴れ、心身明瞭となり、その道中から心踊る風景に出逢える。私が死ぬまでこの追体験は続くであろう。白洲正子の紀行文の中で私がもっとも心惹かれているのが近江のことである。愛読する「かくれ里」や「近江山河抄」で、近江に対する不思議な魅力、或いは魔力と言ってよいかもしれないが、とにかく白洲正子が云う、得体の知れない力と白洲正子に導かれて私も近江を歩き始めた。此度は、予てより願っていた栗東市の金勝山(コンショウともコンゼとも呼ぶ)を訪ねる機会を得た。金勝山は湖南アルプスにある連山の総称で、主峰は竜王山である。その金勝山中に或る金勝寺に参詣し、さらに山へ深く分け入って狛坂磨崖仏を拝しにゆく。ここを訪ねることは長年の夢であった。

先月、友人F君と宇治の丸久小山園の茶工場に見学に行った帰り、車で国道24号を南下して、山城大橋の東詰を左に折れ、国道307号を宇治田原を経て信楽へと入った。途中の宇治田原も、「かくれ里」に登場する。この辺りもじっくり見て回りたいのだが、今日は時間がない。ただ、一帯の眺めは車窓からでも充分に堪能できた。宇治田原は集落が谷あいにあって、その両側の山の斜面に茶畑が高く低く広がっている。こうした谷あいゆえ、霧が発生しやすく茶の栽培にはまことに適しているのだろう。さすが名高き茶所らしい景色は、普段から茶の湯に親しみ、さらにはさっき宇治茶の茶工場を見学したせいか、とてもありがたいものに思われた。宇治田原は奈良、近江、京都の古都トライアングルのまさに中心にあって、上古より政治的、軍事的にも重要な通過点であった。同時にトライアングルの中心はいかにも真空地帯であって、隠者のかくれ里に相応しい場所であり、都からも実に程良い距離が、彼らに安寧と、事を冷静に見定める落着を与えたに違いない。信楽焼の狸がそこら中に顔を現し始めた。車は信楽に入ったのだ。狸はあまりに大きすぎて気味が悪いものさえあるが、ユーモラスな姿はご愛嬌。実は狸の置き物は明治時代に初めて登場し、有名になるのは戦後だと云う。それまでは古窯として信楽の焼きものは、明るい渋さで健康的な美を湛えていた。同時にまことに実用的であり、近隣の茶所では茶壷に重宝されたのである。宇治田原から信楽に入るとぱぁっと視界が開け急に明るくなる。明るくなるというのは気のせいかもしれない。信楽も宇治田原と同様、確かに山あいの村に違いないのだが、陰から陽になった心地がするのは、地形的なことよりも、信楽の陶土がそう見せるのかもしれない。実際、削られて露わになった山肌に陽光が射している所が見られるが、日本六古窯の一つたる信楽の陶工たちにも、辺境の山奥にいてこの明るさは救いであったと思う。だからこそ信楽の焼きものが湛える静謐な明るさが生まれたのだ。

信楽から金勝山を目指すわけだが、ついでに紫香楽宮跡へ立ち寄る。立ち寄るというよりも、金勝山に登る前に、どうしてもここへ来なくてはいけなかった。ゆえに廻り道をしてもらったのだ。天平十五年(743)、聖武天皇は大仏建立の詔を紫香楽宮にて発せられた。その前十年ほどの間、聖武天皇平城京から恭仁京恭仁京から難波宮難波宮から紫香楽宮へと遷都され、そして再び平城京へ還都された。紫香楽宮に行在されたのは天平十四年(742)からわずか二、三年のことだと云う。奈良の既成勢力や南都仏教から逃れるように遷都を繰り返されたが、やはりここは山奥過ぎたのだろうか。天皇は大仏建立を発願し、良弁僧正に命じて、紫香楽宮にて大仏鋳造と大仏殿の建立を試みたがあえなく断念された。内裏野と呼ばれるここには、今や礎石を残すばかりだが、地形的に見てもどん詰まりで、これ以上広げようもない場所である。一説によれば、ここは内裏ではなく寺のみを建立するつもりではなかったかとも云われる。いずれにしろ都還りしたのは、紫香楽宮が、内裏や大仏殿建立には物理的にも困難であったための止む無い選択であろう。ここは王都を築く地ではなく、隠居して俗世を離れて隠れ棲む場所にはいかにも相応しい。が、聖武天皇は隠棲したい心とは裏腹に、どうしても王権を手放すことが出来なかった。紫香楽宮に残る礎石たちは黙して語らないが、聖武天皇の忸怩たる想いを宿している。それは紫香楽宮全体に漂っている。

紫香楽宮をあとにして車は北東へ。新名神高速を潜り、いよいよ金勝山を登る。ヘアピンカーブを幾度も曲がり登ってゆくと、やがて金勝寺の石碑が現れた。寺は金勝山の中腹にある。拝観料を納めて、参道に立った。苔むした低い石垣が両側にあって、その真ん中を、柔らかくゆったりとした絶妙の傾斜の石段が、まっすぐ本堂まで続いている。あたりには杉の大木が亭々と聳え、風の音と鳥の囀りが時々聴こえる他は、静寂である。想像どおりのいかにも古寺と云った寂びた佇まいにすっかり魅了された私は、しばし足を止めて、ついにこの寺へ来られたとの感慨に浸った。金勝寺は私を心中より充たしてくれた。金勝寺の歴史は古く、天平五年(733)聖武天皇の勅願により、東大寺初代別当の良弁僧正が開基した。金勝山は平城京紫香楽宮の東北鬼門にあたり、その鎮護の寺とされたのである。良弁は伝説的な人で実在を怪しむ声もあると云うが、近江や東大寺にあれだけ足跡が残っているのをみれば、実在であると考えるのが自然ではないか。一説によれば、良弁は百済帰化人の子孫とも云われ、帰化人を統率し、建築や石工など、その技術力を存分に活かして、東大寺と大仏鋳造を請け負ったと云う。良弁はまず土木事務所として石山寺を建立し、そこから程近い、金勝山一帯に目をつけた。良質な材木、石材、土、銅や錫にも恵まれた場所として、金にも勝る山と思ったのは、或いは良弁であったかもしれない。その後金勝寺は、興福寺の傘下になり法相宗近江二十五別院を統括し、一時は大菩薩寺と呼ばれた。平安時代になって天台宗に改宗したが、依然として朝廷から崇敬され、国家鎮護の加持祈祷や、勅願寺として重きをなした。金勝寺は往時は大伽藍であったのだろうが、今は慎ましい本堂、二月堂、仁王門、虚空蔵菩薩堂が点々と建っているだけだ。しかしそれらの堂宇はいずれもこの山寺に相応しく思えた。この感じだからゆえに、人麻呂の近江望郷の歌の「いにしえ思ほゆ」という想念に駆られるのである。金勝寺は本尊の釈迦如来虚空蔵菩薩毘沙門天と古い仏像群も素晴らしい。なかで二月堂に安置される軍荼利明王は圧巻である。四メートル近くもある檜の一木造りで、一面八臂で怒髪天を突いている。白洲さんの文章のとおり、物凄い形相で見下ろしていた。さしもの大寺も今は閑散としているが、深山の気、風の音、春を先取りする鳥の声が充満し、寧ろそれが清々しくて、すべてにおいて、忘れがたき寺となった。

金勝寺からさらに登ってゆくと、馬頭観音堂があって、どうやらこの先、車は行き止まりで狭い駐車場になっている。この駐車場から北側が開けており、蒲生野が一望できるが、後にもっと眺めの良い場所があるので、眺望は後ほど述べよう。駐車場の裏手の傍道から尾根伝いに上下しながら狛坂廃寺を目指す。先に述べたとおり、竜王山を主峰としたこの辺りの峰々を総称して金勝山と呼ぶ。渡辺守順氏の「近江の伝説」によれば、竜王の名は、良弁が金勝寺を建立前に七日七晩読経し、祈祷が終わろうとした時、横に一人の女が首を垂れて座っていた。女は良弁に天に住んでいたが、鵬の迫害にあって地上に降りたが、安住の地が欲しいと悩みを打ち明ける。とその時、ザーッと云う轟音ともに紅蓮の火の玉が二つ輝いたかと思うと、大蛇がとぐろを巻いて現れた。良弁は竜王だと直感し、念珠を握って打ちかかった。すると大蛇は再び女の姿になり、自らは八大竜王である。この山に住まわせて欲しいと良弁に願う。良弁は願いを聞き入れて、金勝山西の山頂に祠を建て、竜王を祀った。以来、金勝山の鎮守たる主峰として辺りを睥睨している。今も竜王山の頂にはささやかな祠がある。

金勝山一帯は石の山で、狛坂廃寺への道のりは至る所に巨巌巨石が溢れている。白洲さんがこの巨巌群を見て「素晴らしいというより凄まじい。日本に石が少ないと言われるのは、こういう景色を見たことがない人だろう。」と表現されたことがよくわかる。近江は石の都なのである。金勝山は金勝寺を中心とした山で、往時を偲ぶ仏教遺跡もまた多い。狛坂廃寺も、今は石仏が散在する遺跡であるが、かつては金勝寺の別院であったらしい。かつて金勝山は女人禁制であったが、女人は狛坂寺までは登ることを許されていた。昔はこうした場所があちこちにあり、室生寺高野山の女人堂とも通ずる。また、金とか狛という名があるのも、大陸からの渡来人、帰化人の文化が浸透していたことを語っている。 途中、茶沸かし観音と云う小さな石仏があった。鎌倉頃の作と云うが定かではない。が、茶沸かしと云う名はとても親近感が湧いてくる。昔はここらで一服したのであろうか。金勝寺とは反対側の桐生から登ってくると有名な逆さ観音がある。土砂崩れか廃仏棄釈の嵐に巻き込まれたのか知らないが、金勝山にはこうした石仏が無数にあると云う。今回は時間がなくて桐生の方へは廻れなかったが、いつかまた反対側からも登ってみたい。

茶沸かし観音に手を合わせ、さらに奥へ進もうとした矢先、F君が窪みに躓いた。足を捻った様で苦悶する。断念するか、彼にはここで休んでいてもらい、私一人で先へ行くか迷ったが、彼は立ち上がり同行すると言った。無理はしないでほしかったが、ここまで来たからには私も彼もどうしても、磨崖仏を拝みたい。あの時私たちは、どうも無心になっていた気がする。

私たちは金勝山を彷徨った。入口から一時間歩を進めるが、行けども行けども狛坂廃寺には辿りつかない。山を登って、降って、また登る。巨巌群の中をすり抜け、潜り抜け、沢を越えてゆく。よもや道を誤ったかと心細くなって、引き返そうかと思った時、藪の向こうにとうとう狛坂磨崖仏を見つけた。私は思わず「嗚呼!」と叫び、足を引きずりながら付いてきてくれたF君と握手した。この道程ゆえ、感涙しそうになるほど嬉しかったのだ。磨崖仏はとてつもなく大きいもので、ただただありがたく圧倒される。

白洲正子は狛坂磨崖仏をこう評する。私の稚拙な表現よりもはるかに崇高で的確な文章なので引用する。

「磨崖仏は聴きしに優る傑作であった。見あげるほど大きく美しい味の花崗岩に、三尊仏が彫ってあり、小さな仏像の群れがそれをとりまいている。奈良時代か、平安初期か知らないが、こんなに迫力のある石仏は見たことがない。それに環境がいい。人里離れたしじまの中に、山全体を台座とし、その上にどっしり居座った感じである。」

この文章を読んでから、ずっとお逢いしたかった。お逢いしてみて、ただ言葉を継げぬとはこうした経験をした時であると改めて知った。狛坂磨崖仏はまことに気品に満ちた姿で、千年以上もあの場所に坐している。女人禁制の金勝山で、ここまで来れた昔の女性たちは、私の様に感涙し、伏し拝んだであろう。その心まで宿って、あれほどに洗練された姿に、ごく自然になったのではあるまいか。方々で石仏を拝んできたが、狛坂磨崖仏は、私にとっては石仏の王に見えた。ついに私も、石仏の王に謁見を果たしたのだった。

磨崖仏を拝して、再び元来た道を一時間かけて戻る。行きはよいよい、帰りは怖い。息を切らせながら、また昇り降りをする。幸いF君の足取りはしっかりとしている。途中の国見岩からの眺めは格別であった。北には蒲生野の彼方に三上山、南には信楽鈴鹿の重畳とした山々がどこまでも続き、西には春霞に沈む琵琶湖、その向こうには比叡山が朧気に見えている。国見の名に違わぬ雄大な眺めである。おかげで疲れは吹き飛んだ。春の夕陽が少しずつ西へと落ちてゆく中、後ろ髪を引かれながら、金勝山を降りた。F君はケガをおして私に付き合ってくれたが、夜には腫れてしまい、今もまだ完治せずとか。無理を強いて申し訳ないことをしたと、この場にても謝りたい。が、あの日我々が眺めた金勝山からの景色と残照は生涯忘れまい。それはきっとF君も同意であろうと信じている。私の平成古寺巡礼もここ金勝山に極まれり。