弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 桜川にて

 改元されたので、このシリーズのタイトルも考慮するところだが、平成のうちに訪ねた寺で、あといくつか書いてみたい所があるので今しばし平成古寺巡礼としたい。

平成最後の花見は茨城県桜川市へ出かけた。桜川市はその名のとおり桜の名所で、四周を山や丘陵で囲まれてい、花の頃にはその丘陵に山桜が咲き誇ると云う。その歴史は平安時代にまで遡り、西の吉野、東の桜川と並び称された。紀貫之は桜川の噂を聴いて、憧憬の想いを込めてこう讃歌する。

常よりも春辺になれば桜川波の花こそ間なく寄すらめ(後撰和歌集

詞書に「桜河といふところありと聴きて」とあるから、余程想いを馳せたのであろう。花筏が絶え間なく水面を流れてゆく様は、春を謳歌する喜びに満ち溢れている。桜川といえば、世阿弥謡曲「桜川」の舞台であるが、古典やお能が好きな人以外にはあまり知られてはいず、静かな花見を期待して出かけた。私は東京から宇都宮線で小山まで行き、水戸線に乗り換えた。桜川市に近づくに連れて、水戸線からも南に筑波山が見えてきた。標高八百メートルほどの山だが、坂東平野の只中にある独立の連山はどこからでも眺められ、名山たるに相応しい崇高さを湛えている。それは北側から見ても変わらない。桜川市に入ると、大和駅岩瀬駅と過ぎ、謡曲の舞台である磯部稲村神社の最寄駅の羽黒駅で下車する。桜川市は平成十七年(2005)に、西茨城郡の岩瀬町、真壁町、大和村が合併して誕生した新しい街だが、歴史の積み重ねられたところというのは、大和とか羽黒という名前からも想像できる。桜川は筑波山を北側から眺め、筑波連山の北に聳える加波山や雨引山の麓にある。言うまでもなく筑波山は、上古より神山と仰がれ、万葉人にも愛された。都より文化果つるところと云われた東国の僻地へ来た防人たちは、崇高なる筑波山を仰ぎ、大和三山二上山、葛城の峰々を望郷したのかもしれない。ゆえに大和という地名も生まれたのではないか。万葉集の東歌は、都人のそれより決してうまいとはいえなくも、素朴な悲哀に溢れ、筑波山を遥拝することが唯一の慰みであったことがひしひしと伝わってくる。

筑波嶺に雪かも降らる否をかも愛しき児ろが布乾さるかも (万葉集巻十四・三三五一)

筑波嶺にかが鳴く鷲の音のみをか鳴き渡りなむ逢ふとは無しに (同・三三九〇)

小筑波の嶺ろに月立し逢ひだ夜は多なりぬをまた寝てむかも (同・三三九五)

筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼もかなしけ (同巻二十・四三六九)

やがて筑波山は歌枕の地となって、都におわす天皇にもその名を知られるようになる。百人一首にも選ばれた。

つくばねの峯より落るみなの川こひぞつもりて淵となりぬる (陽成院

陽成天皇は父が清和天皇、母は藤原高子である。わずか九歳で皇位を継がれたが、母の兄藤原基経が摂政となった。天皇は心穏やかなところなく乱行の数々をされたため、在位八年で基経により半ば強引に退位させられた。折りしも藤原北家による摂関政治が強く働き始めた頃で、天皇が乱行されたのも少年ながらに鬱憤が溜まっていたからに違いない。退位後六十五年も長生きされ、大人になるにつれて落ち着きを取り戻されて詩歌を携えて、八十一歳で崩御されたが、亡くなるまで少年期の鬱勃とした気分を拭うことはできずにいたであろ。八十一年の御生涯はあまりに長く、そう思うとこちらの気が遠くなる。天皇は果てしなく遠い、見たこともない筑波嶺に憧憬され、叶うことならば、自由の身となって、自由の大地と想像された坂東へ下りたいと願われたのであろうか。私にはそう思われてならない。

もう二十年以上も前のことだが、筑波山頂から初日の出を拝んだことがある。若かったゆえ寒かったことばかりが思い出されるが、太平洋から霞ヶ浦へ真っ直ぐに尾を引いて昇る旭日に感動した。桜川の有史がだいたい平安頃からと書いたが、実はもっと古く、人々は朝な夕なに筑波嶺や加波山を拝み暮らしたであろう。そもそも筑波連山全体が神域であり、筑波山神社加波山神社をはじめ、連山には古社寺が点在している。一説によれば加波山にも七百以上もの社や祠があり、筑波の修験道筑波山加波山が対であったことを示している。高さは筑波山に僅かに劣るが、秀麗な山容の筑波山よりも、加波山には荒々しいモノが見ゆる。筑波山とて、北側からの眺めは南側から眺めるよりずっと武骨に見える。さらに筑波連山には、坂東三十三観音の札所である雨引観音筑波山大御堂がある。近くに観音巡礼の札所が二つもあるのは、神仏混淆を象徴する霊山であることを示している。先年、坂東三十三観音巡礼でこの地を訪れて、高所にある雨引観音筑波山の大御堂から眼下を眺めた。すぐ近くに茫漠たる霞ヶ浦が湖水を輝かせ、その周りはどこまでも青田が広がっている。広大無辺にも見える坂東平野は、そのまま観音浄土を彷彿とさせた。その時少なからず筑波山周辺が歴史ある場所であることはわかったが、巡礼途上はすべてを廻ること出来なかったので、その後何度かこの辺りを訪ねている。桜川から北東に行くと笠間稲荷があり、親鸞の東国布教の要地であった稲田御坊や北西の栃木県の真岡には専修寺がある。そのあたりのことは前に書いたので省きたい。(2018/3/21の記事参照)

 謡曲「桜川」はいわゆる狂女ものであるが、ハッピーエンドで終わるのは、世阿弥自身が咲く花に淡い望みを見出していたのであろうか。物語をかいつまんで述べる。

日向国の桜の馬場に、母ひとり子ひとりの貧しい家があった。子どもは、桜子(さくらご)という名の少年で、母の労苦に心を痛め、みずから人商人に身を売って母の前から姿を消した。人商人が届けた手紙から桜子の身売りを知った母は、悲しみに心を乱し、泣きながら家を飛び出して、桜子を尋ねる旅に出る。それから三年。桜子は、遠く常陸国の磯辺寺に弟子入りし、美しい稚児として評判となった。春の花盛り、住職は桜子を伴い花見に出かける。折しも桜川のほとりには、長い旅を経た桜子の母がたどり着き、里人の噂となっていた。狂女となった母は、桜川の川面に散る桜の花びらを網で掬うと云い、その姿がたとえようもなく面白いという。里人は住職と桜子にぜひにもその珍しい狂女を見せたいと勧めるので、住職一行は女を花見の席へと招いた。果たして女は、

年を経て花の鏡となる水は 散りかかるをや曇るといふらん 散りぬれば後は芥となる花を 思ひ知らずもまどふ蝶かな

と、古歌を口ずさみながら桜川に流れくる落花を網で掬いあげ、わが子を慕うのであった。住職がわけを聞くと、母は別れた子、桜子に縁のある花を粗末に出来ないと語る。それを聞かされた住職は女と桜子が親子であるとわかるや、哀れに思い、ついに桜子と対面させる。母は正気に戻って嬉し涙を流し、親子は連れ立って日向国へと帰ってゆく。

この物語の舞台が桜川であり、桜子を稚児として迎えた寺は、今の磯部稲村神社の神宮寺とされる。前から気になっていたが、どうせなら花の頃に訪ねたいと思っているうちに数年が経過した。今春、花がほころび始めた頃に「桜川」を観る機会があった。今が好機と翌週出かけたのである。

神社への道すがら、ついでに近くの月山寺という寺に寄る。月山寺は延暦十五年(796)、徳一上人が開いた古刹で、当初は法相宗の道場であった。元は今より少し西へ行った橋本山の麓にあり、中世にはこの地の豪族であった橋本城主谷中氏の菩提寺であった。徳一といえば、最澄と仏法論争を戦わせ、空海にも密教について疑義を示したと云われるが、徳一の生涯は不明の部分も多く、謎に満ちている。しかし平安仏教の双頭にひけをとらない、第三者として私は興味がある。徳一は都から東国へ移り、磐梯山の麓の恵日寺を拠点に会津から東北に布教した。それより前に、まずは坂東に腰を据え北上したのであろう。筑波山麓には徳一開基とされる寺が他にもいくつかあると云う。徳一にとって月山寺は、いわば東国布教の前線基地のような場所ではなかったか。月山寺は室町時代天台宗に改宗したが、修験道が盛んであったこの地では、山伏の崇敬も集めたのであろうし、徳一自身が山岳信仰を厚くしたとも思われる。月山寺はかつては修験者の宿坊であったのかもしれない。徳川時代には朱印六十石を与えられこの地に移転し、天台宗関東八檀林となって隆盛した。思えば、最澄と激論した徳一が開いた寺が、今や天台宗になっているのも不思議だが、日本の寺では、為政者や別の大勢力の介入で改宗することは珍しいことでもない。羽黒駅から北へ歩いて十分少々の月山寺は四季折々の花の寺で、ことに錦秋の紅葉はすばらしいと云う。羽黒に月山、やっぱり出羽三山に肖ったのだ。湯殿の名もないかと探してみたが、見つけることはできなかった。私に見つけられなかっただけで、実は何処かに隠れているのかも知れない。羽黒駅から月山寺へ五分ほど歩くと、俄かに黒雲の塊が現れ、突然冷たい突風が吹いた。瞬くうちに春雷がやってきて、豪雨に見舞われる。傘を持っていたが、何の役にもたたない。真後ろの加波山からも次々に大風が吹いてくる。これが天狗風なのかと思った。ここへ来たことを歓迎しているのか、拒まれているのか。ずぶ濡れになって月山寺の門前に辿り着くと同時に小雨になった。

山門を入りいっぺんでこの寺の虜に。それにしても美しい花の寺。花見客などおらず、鶯や雲雀の囀りが響く境内は静謐さが際立つ。寺の正面には加波山が厳しいながらも秀麗な姿でこちらを睥睨しており、筑波山は南側が正面だろうが、加波山は北側であるこちら側が正面であることがよくわかる。境内は枯山水あり、苔むした庭があり、この時期は青もみじが曇天にも眩い。このあたりには珍しく雅やかな寺である。本堂も実に堂々たる佇まいで、本尊薬師如来をはじめ仏さまも坂東らしくない端正なお姿をしている。本尊は薬師だが、本堂内は三間に区切られていて、過去、現在、未来に別れ、過去に阿弥陀如来、現在に薬師如来、未来には元三大師を祀ってある。境内には常陸七福神の一つ布袋を祀る布袋堂、そこから少し登ると、境内全体を見渡せる高台には観音堂、境内の奥には最澄の巨像と寺宝を蔵する美術館がある。ひときわ目立つのが観音堂で、朱塗りの壁に笠のような大屋根を載せているが、坂東の観音堂に多いスタイルで、似たようなお堂を私は坂東巡礼中に度々目にした。この観音堂は近くの栃木県二宮町にあった長栄寺という寺が廃寺となって、平成十年(1998)にここに移築されたとか。どっしりと立派な観音堂の周りには、これまた立派な枝垂桜があり、ちょうどこの日が盛りであった。北関東にはこんな寺がまだまだ隠れている。

‪月山寺を出ると、嘘の様に空は澄み渡る。桜川の舞台の磯部稲村神社までは歩いて十五分くらいである。長い参道には気持ちの良い桜の公園が広がる。周囲は山桜が自生する丘陵がこの里を包むように連なり、ぽつぽつとぼんぼりの様に咲き始めているのが見える。桜川市が掲げる桜源郷の名に背かない。ここからも加波山雄大な姿が拝めた。神社は参道の奥にしっとりと鎮まっていた。創建は景行天皇四十年(111)とも云われるが、天照大神をはじめ、木花咲耶姫日本武尊など多くの神が合祀されている。神宮寺があったことからみても、古くからこの里の鎮守として崇敬されてきたことは間違いない。そして筑波連峰の北の守護ともされたのであるまいか。筑波山には筑波山神社の摂社で天照大神を祀る稲村神社があり、ここはその里宮の一つとも云える。世阿弥がここを舞台に創作したのは、いうまでもなく桜川という美しい名と、事実この地が桜の名所であったからであろうが、世情に高いアンテナを張り巡らしていた世阿弥は、桜川が信仰厚き神域であることも知っていたのかもしれない。境内には点々と桜があり、ことに本殿前の木はほぼ満開で、本殿の軒端にかかるほど枝を伸ばしている姿が美しい。社を少し降ったところが開けていて、どうもここが神宮寺の跡らしい。ここにも桜の巨木が行列しており、かの桜川匂の古木にも逢えた。桜川匂はこの日はまだ蕾であったが、純白色の花が開くと桜には珍しく強い芳香があると云う。聴けば、この地の里桜や、周囲の高峯や富谷山などの山桜は、地元の人々が皆で桜守になっているそうで私は感動した。北関東は東京よりも花の盛りは遅く、人は疎らで最高のお花見であった。万葉時代から人を惹きつける筑波嶺の麓には、坂東らしからぬ閑雅さと、底知れない歴史の気が漂っている。