弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一壬申の乱一

白村江の戦いで惨敗した後も中大兄皇子は即位せずに実権を握っていた。このような状況を称制と云う。称制とは、君主が亡き後に、即位せずに政務を摂る人物のこと。中国王朝の例を参考に、皇太子や皇后が一時的に称制となることがあったが、日本では中大兄と持統天皇が即位前に称制となり、他にも数度あるがあまり多くはない。称制は摂政と似ているが大きな違いがある。摂政は天皇が在位されているが、称制は在位中の天皇はいない。皇太子中大兄が斉明天皇崩御されてすぐに即位されなかったのは、敗戦後の混乱もあったと思うが、この頃の皇位継承は命懸けであり、それを誰よりも解っていたのが、中大兄本人であったから、石橋を叩きながら世情の機微を見極めたかったに違いない。

 中大兄は都を難波宮から飛鳥、さらに近江の大津京に遷都された。無論のこと唐の侵攻に備えるためで、太宰府の水城や、瀬戸内沿岸に出城を築いたのも同時期である。そして大津京にてようやく正式に即位された。同時に大海人皇子立太子する。この年天皇は近江の蒲生野にて薬猟された。

あかねさす紫野行き標野行き野守や見ずや君が袖振る

この歌は薬猟に供奉した額田王が、皇太弟大海人皇子に奉歌したもので、あまりに有名な万葉の秀歌であるが、大海人の返歌がまた秀逸である。

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに恋ひめやも

額田王は大海人の寵妃と云われるが、実に謎に包まれた人物である。おそらく朝廷に使えた女官や巫女の類で歌も抜群に巧かったゆえ、才女として大海人の秘書のような存在ではなかったかと思う。額田王は才色兼備の元祖とも云える女性であり、その美貌は廷臣の間でも評判であった。天智天皇が欲されたことも想像にかたくはない。確証はないが、天智天皇にも寵愛され、最後の妃であったともされる。実に奇妙な三角関係だが、当時のことを思えば不思議でもない。もっともこの歌が詠まれた頃には、三人ともすでに熟年の域に達しており、ずっと昔の若い頃のことを思って詠んだとも云われる。額田王は大海人との間に、後に大友皇子の妃となる十市皇女を産んだが、無論のこと大海人の正妃は、後の持統女帝鸕野讃良であり、身分からして叶う相手でもなかった。しかしこうして堂々と二人の天皇を向こうに回して歌を振舞う額田王には、この時代の日本人の大胆な雅やかさが感じられる。御両人の歌からは、悲喜交々あることは察するが、白村江の戦いから少し落ち着き、この先の動乱を控えた束の間の安らぎも伝わってくる。近江朝時代は、嵐の前の静けさでもあった。

その翌年、天智天皇にとってもっとも信頼する臣下にして、盟友の藤原鎌足が亡くなった。天皇の喪失感は察するに余りあるが、鎌足大化改新以来の律令制や官僚機構を整えていたため、一応は天智天皇在位中に国内の憂いはほとんどなく、もっぱら外患にのみ気を配ったとみえる。唯一の気がかりは皇位継承問題で、晩年はそのことだけに苦心されたように思う。天智天皇は、新たに官位を十九から二十六にされ、太政大臣の位を設けて愛息大友皇子に与えた。そして自らの血筋が世襲皇位継承をすることを世に示したのである。

 天智天皇九年(671)、天皇は容態芳しからず、死の床に弟大海人皇子を呼び、くれぐれも我が子大友皇子を頼みおくと申された。太閤秀吉がいまわの際に内府家康を枕元に呼んで、愛息秀頼の後見と豊臣家への忠誠を懇願したのとそっくりな場面がそれより九百年の昔にもあったのである。大海人は兄帝の手を握りしめて、無論であると言い、自らは出家して朝廷を去ると告げ、吉野へ籠られた。 大友皇子の臣下の某は「虎に翼を付けて放ちたり」と憂いたが、天皇は安堵され、翌天智天皇十年(672)四十六歳で崩御された。正式に天皇として即位された期間はわずか四年であった。

それから時勢は風雲急を告げ、大友は叔父大海人の挙兵を怖れ、軍勢を差し向ける。事前に察知した大海人は密かに吉野を脱出し、伊賀国名張を経て、加太越で伊勢国へ逃れた。従者はわずかに二十人ばかりであったと云う。加太越は伊賀国伊勢国境にある鈴鹿山脈の峠である。ここは本能寺の変の直後、家康が辿った伊賀越えのルートでもある。家康が領国三河に逃れることができたのは、このルートに在した伊賀者甲賀者が助力したことが大きいらしいが、大海人もまた各地で豪族を服従させながら、不破関へと向かっている。逃避行には誠に適した道であり、伊賀も隠国の一つであったことが、古代と戦国の覇王の動向から知れる。大海人はその後の日本史に登場する様々な人物と重なる。源頼朝足利尊氏織田信長、そして徳川家康。皆、若い頃や天下を握るまでは不遇な時代を過ごしていて、命からがらと云う経験を何度もしている。早熟ではなく、歳を重ねてから天下を狙い始めた。或いは、それぞれが大海人を意識したこともあったかも知れない。 日本書紀によれば大海人皇子は卜占や陰陽道に長け、神秘的な力を備えていたと云う。吉野から不破関に向かう道々、卜占をし、天候から人々の吉凶をピタリと言い当てた。吉野の浄御原神社の伝承では、大海人皇子は献上された川魚を半身のみ食し、この後我が天下を治めるならば、この魚は生き返るであろうと言い放ち、川に流すと、魚は泳いで行ったと云う。シャーマンの様な大海人に、人々は畏怖し、惹きつけられて従ったのだろう。大海人は、伊勢国に無事に入ると、朝明郡の迹太川(とほかわ)の畔で伊勢神宮を遥拝し戦勝祈願をされた。このことは日本書記にも「於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」と記されており、その跡地は四日市大矢知町に史跡として遺されている。大海人は、ここでの遥拝によって、伊賀、鈴鹿、桑名、尾張、美濃など神宮を信奉する伊勢湾近くの豪族を味方につけることに成功する。これが一大勢力となり、不破関に着陣する頃には大友皇子の軍勢に匹敵するまでになった。吉野を脱出する時に、わずかの手勢しかなかったことを思えば、さすがに神がかっていると言わざるを得ない。 一方、大友皇子も軍勢を引き連れて、西から進軍してきた。こうして不破関今の関ヶ原のあたりで両軍が対峙し、古代史上最大かつ日本史上有数の合戦が繰り広げられた。両軍総勢六万前後の戦いは、東国の有力豪族を味方につけていた大海人軍が勝利した。その後も大海人軍は、時を空けずに近江朝軍を攻め立て、ついに瀬田川の決戦で大友皇子を追い詰めた。大友皇子は逃亡しようと試みるも失敗し、あえない最期を遂げられた。二十五歳の若さであった。以来、大友の即位は不詳とされたが、明治天皇により弘文天皇と追諡されている。大友皇子十市皇女の間には葛野王という親王がおられたが、無論皇位継承はできず、ついに大海人皇子天武天皇として即位したのである。余談であるが、葛野王天武天皇の孫でもあり、命は助けられて、後に皇族として遇されて、三十七年という短い生涯ではあったが、天武朝と持統朝の廷臣として、なかなかの働きを見せている。

天武天皇は史上最強の天皇と云って良いだろう。天武天皇は飛鳥浄御原へ都を戻された。史上初めて天皇の称号を用いたのも天武天皇であった。 さらに文書で公式に日本という国名が使われたのも天武天皇の時からである。天皇は祭主として五穀豊穣を神々に感謝する新嘗祭を行うが、天皇が代替わりして最初に行う新嘗祭大嘗祭と云う。一世一代の大祭祀たる大嘗祭を始めたのも天武天皇であった。先にも述べたように、 天武天皇は神懸かる力を秘めていた。そのカリスマ性は、歴代天皇の誰よりも大きなもので、当時の人々は天皇の強い磁力引き寄せられていったに違いない。その力により、様々な改革を成し遂げて、政治基盤を整えてゆく。年功や身分の序列にとらわれず、才ある者を官職につけ、勤務態度や仕事ぶりを査定し、官位を昇進させた。天武天皇の伊勢崇敬は殊の外厚く、自ら祭主となって伊勢神宮の祭祀を執り行い、娘大来皇女を史上初めて伊勢に仕える斎宮としている。今に連なる宮中祭祀を始められたのである。一方で仏教も疎かにはせず、鎮護国家のために巧みに政治に取り込んでゆく。対外政策についても、白村江の戦いで手痛い目に遭ったことを教訓にし、唐と争うことなく、寧ろ見習うべきとしぬ、朝廷では唐の礼法、衣服、結髪を採用した。が、有事に備えて軍備の拡充や練兵を怠ることもなかった。

十三年の治世で鉄壁の大和朝廷を作り上げた天武天皇崩御され、朝廷は皇位継承を廻ってまたしても不安定な情勢となる。天武天皇には高市皇子草壁皇子、舎人皇子、大津皇子、穂積皇子、忍壁皇子弓削皇子磯城皇子、新田部皇子と多くの皇子がいた。このうち皇后鸕野讃良を母に持つ草壁皇子が、もっとも有力な後継者と目されていたし、天武天皇もそのつもりであった。「吉野の盟約」には、そうした思いが表れている。天武天皇は皇后や皇子や皇族たちを連れて、壬申の乱以来、七年ぶりに吉野へ行幸された。その時に六人の皇子を前にして、皇位継承について自らの意思を語り、約束をさせる。以下、日本書紀にある吉野の盟約の一部分を抜粋する。

天皇、皇后及び草壁皇子尊、大津皇子高市皇子河嶋皇子忍壁皇子芝基皇子に詔して曰ふ、

朕、今日、汝らとともに庭にて盟ひて、千歳(千年)の後に事無きことを欲す いかに

皇子ら、共にこたえて曰ふ、

理実、いやちこなり

則ち草壁皇子尊、先づ進みて盟ひて曰ふ、

天神地祇及び天皇、証らめたまへ 吾、兄弟長幼併せて十余り王、各おの異腹より出でたり。然れども、同じきと異れると別かれず、倶に天皇の勅に随ひ、相扶け忤ふること無し 若し今より以後、この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ 忘れじ、失せじ

五皇子、次以って相盟ふこと、先の如し

然して後、天皇曰ふ、

朕が男等、各異腹にして生れたり 然れども今一母同産の如く慈まむ

則ち、襟を披き其の六皇子を抱く 因りて以って盟ひて曰ふ、

若し茲の盟ひに違はば、忽ち朕が身を亡さむ。

皇后の盟ひ、且天皇の如し

天武天皇と皇后鸕野讃良は、六人の皇子たちに向かって、皇位を巡って争ってはならぬと釘を刺し、皇太子には皇后の子には草壁皇子を指名した。六人の皇子とは、天武天皇を父にもつ高市皇子草壁皇子大津皇子忍壁皇子天智天皇を父にもつ川島皇子志貴皇子である。この時は、偉大なる天武天皇に抗う者はなかったが、皮肉なことに最強の夫妻が築きあげし、天武系はそう長くは続かず、今に続く皇統は天智系に戻るのである。そのあたりはまた次回語りたいと思う。

天武天皇亡き後、早くも暗雲が漂い始めた。大津皇子草壁皇子への謀反を図っているとの噂も流れた。危機感を抱いた草壁の母鸕野讃良は、刺客を放ち大津皇子を暗殺された。そして、大津皇子派に配慮して、草壁皇子をすぐに皇位にはつけず、自らが称制となられ様子をみることにした。が、草壁皇子はあえなく薨去され、途方にくれた皇后は草壁皇子の息子軽皇子を後継者に据えようとするが、この時軽皇子は未だ幼年、やむなく自ら皇位継承し、持統天皇となられたのである。持統天皇の父は天智天皇であり、夫天武天皇とは叔父と姪の結婚であった。数ある皇子の誰よりも血脈的には皇位継承者に相応しい存在であり、天武天皇も草壁に事あれば、軽皇子の成長するまでは、皇后に代替わりを望まれていたと思う。夫帝の成されたことを側近くにてつぶさにみてこられ、文字通り二人三脚で歩んでこられた持統女帝は、天武天皇の意思を継ぎ、安定的な政権基盤と皇位継承を切に望まれた。天武天皇を歴代最強の天皇と申し述べたが、持統女帝もまた歴代最強の女帝である。安定的な皇位継承とはすなわち兄弟で骨肉の争いを避けることである。ここまでだらだらと書いてきたが、飛鳥時代から奈良時代にかけては天皇親政がもっとも実現できた時代であり、ゆえにその権威権力を欲して皇族間で火種が尽きることがなかった。皇位を継がれて天皇になることが、これほどまでに命懸けであった時代はない。確かに後の平安時代南北朝時代にも無くはないが、血なまぐさと言ったら飛鳥時代から奈良時代の比ではない。天武天皇持統天皇夫妻は皇位継承を巡る争いを我が子らにさせたくないと思われていたに違いない。ゆえに、皇后の皇子である草壁皇子を正式に天武天皇の後継に据えた。が、早世した草壁に代わり、孫の軽皇子を次代と定めたのも、皇位世襲によって継がれてゆくことを示し、兄弟はあくまで臣下とした。余計な争いを避けるために。このことを持統天皇は自分の目の黒いうちにやり遂げねばならぬと云う強き使命感を持って女帝となられた。そして軽皇子十四歳の時、譲位されて自らは史上初めて太上天皇すなわち上皇となられた。軽皇子文武天皇となられたが、まだ若年ゆえに持統上皇は後見された。この時の持統上皇は、権威も権力も軍事力も全て手中にされ、まるで中国清朝末期の西太后を彷彿とさせる。これは私の想像にすぎないが、西太后のように、若き帝の背後に座して、垂簾聴政の様なことが行われていたかも知れない。平安後期の院政の原型がこの時にできたのである。

百人一首には、持統天皇のあまりにも有名な歌がある。

春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふあまのかぐ山

この歌は新古今和歌集にも収めらている。一方万葉集では、以下の如くある。

春すぎて夏來たるらし白栲の衣乾したり天の香具山

この歌からは、細やかで大らかな、いかにも女性らしい面影しか思い浮かばない。歌の魔力と云うものだろうか。或いはこの歌を詠まれた彼女が本当の彼女であり鸕野讃良であって、持統女帝として君臨した姿こそは、虚勢を張った偶像であったのかも知れない。天武天皇と持統女帝、いずれにしても天皇家歴代最強の夫妻であったことは間違いないと思う。