弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 甲州恵林寺

私は甲府盆地が好きである。あの雄大な景色は、何度見ても心躍るところがある。東京から中央道や甲州街道を使って、勝沼の葡萄畑が見え始めると、視界が開けて、甲府盆地を俯瞰できる。確かに四周山。まるで仏さまの掌に包まれている様だ。ひと際目を引くのが、西の南アルプスの大山塊で、巨大な屏風がどっしりと聳立する姿に、私は山の神を拝む思いをし、同時に甲斐の猛虎武田信玄を連想させる。甲州人にとって武田信玄は、永遠のヒーローである。信玄の銅像があちこちに建っているのも、いまだに信玄崇拝が根強い証拠であろう。信玄の銅像は、何と言っても甲府駅前の像を筆頭としたい。昭和四十四年に完成したもので、甲府を訪れる者を睥睨している。床几にどっしりと腰を下ろして、左手には数珠、右手には軍配を持っている。この勇姿は川中島合戦の陣中の姿をイメージしたものとかで、まさに戦国武将かの如くありなんと云うべき、堂々たる威容を魅せている。私はあの姿にそのまま、甲斐から見える山々を重ねて、甲府駅前に行くと飽くことなく敬愛する武田信玄像を眺めている。戦国大名も数多いて、さながら百花繚乱といった感じがする。今の人間よりはるかに面白く、魅力溢れる人々ばかりだ。好きな大名、武将を選べと言われたら困るし、私はどちらかと云えば、徳川家康の様な天下人に興味があって、孤軍奮闘の戦国大名にはあまり関心はないのだが、敢えて挙げるとすれば武田信玄である。それは武田信玄はもう少し命永らえていたら、上洛を果たして、天下人になったやも知れないと思わせるからである。

川中島の戦いは五度にわたった。実質的には永禄四年(1561)の四度目の戦いが、もっとも激戦であり、川中島の戦いとはこの第四次合戦を指してよい。その前の三度は前哨戦であり、川中島近辺での小競り合いや情報戦であった。最後の五度目は睨み合いのみである。しかし、十二年にもわたり繰り広げられた川中島の戦いは、天下取りではない、最も戦国時代らしい戦いであり、戦国史のみならず、日本史好きは食指を動かしたくなる。川中島は大軍対大軍が激突した最初の戦いであり、以降川中島がモデルケースとされて、関ヶ原の戦いまで続く天下取りへと突入する。信玄と謙信は互いを尊敬し、敵対し戦いながら戦国大名としての力をつけていった。両雄が切磋琢磨し比類なき双璧になった。此度は武田信玄のことである。信玄は智略に優れ、かつ大将としての勇猛果敢な大器量を備えていた。家臣団を統率し、また家臣団も信玄に忠義を誓い、鉄壁の武田軍を創り上げた。相手の上杉謙信と上杉家臣団もまた同様であった。ゆえに雌雄決すること成らずであった。

 信玄の生きた時代、甲斐の周囲は、駿河の今川氏、相模の北条氏、上野の上杉氏、越後の長尾氏など、何れ劣らぬ強者がひしめいていた。国守は今川義元北条氏康長尾景虎で、さらに後には三河徳川家康尾張織田信長がいた。応仁の乱が集結して後、室町幕府は殆ど瓦解しており、足利将軍家の権威も力も失墜著しく、それに伴い各地の守護大名の地位も低下した。京都に常住した守護大名に代わり領国の統治を代行した守護代や家臣団が力を蓄え、守護大名から独立したり、謀反を起こして一派一軍を成し、やがて戦国大名となっていった。群雄割拠の戦国の世が始まる。室町幕府の中枢を担っていた細川氏、畠山氏、斯波氏の三管領家をはじめ、京都に近い有力守護大名は為す術もなく、新興の大名や、東国、西国の大名達は各地で国取合戦を繰り広げたのである。そんな中、武田氏もまた荒海に乗り出さねばならなかった。

甲斐武田氏は、清和源氏の一流河内源氏の一門で、八幡太郎源義家の弟源義光が祖とされる。前九年の役後三年の役で源氏は東国に進出したが、そうした経緯から義光が甲斐守に任じられ土着したと云う説もあるが、真偽は疑わしいようだ。義光の息子源義清が、常陸国那珂郡武田郷を治め、武田の姓を名乗り始めたのが、武田氏の起こりである。その子源清光は荒くれ者で、周囲の豪族と揉めた。結果、甲斐に流されたと云うが、清光は自らの意思で甲斐に向かったと云う説もある。いずれしろこの清光が甲斐に土着して、ここに甲斐源氏が生まれ、甲斐武田氏が始まったのである。ゆえに武田家は戦国大名であるが、新興ではなく名門中の名門であった。

大永元年(1521)、戦国乱世の真っ只中に信玄は武田家嫡男として生まれた。幼名は太郎、名は晴信と云う。信玄となったのは、後に仏門に帰依してからである。父武田信虎は、甲斐武田氏始まって以来の専制的な国守であった。武田家の戦国の有力大名としての萌芽は信虎の頃に培われた。豪胆剛毅な信虎は強権的な独裁者であり家臣や領民からも恐れられた。その父の振る舞いを幼い頃から側で見てきた晴信は、父とは真逆の温厚な性格で和を重んじた。ゆえに晴信が成長するに連れ、信虎は晴信を頼りなく思い、疎んじはじめた。一時は本気で晴信を廃嫡し、次男信繁を後継にしようとしたほど、父子には軋轢が生じていた。晴信も自ら廃嫡を望もうとしたが、守役板垣信方や継室三条の方に諌められて思いとどまった。二十一歳になった晴信は、板垣ら家臣団と結託して、密かに駿河今川義元に頼み、ついに父信虎を駿河に追放した。いくら戦国乱世とはいえ、我が父を追放し、国守の座に就くなど、考えも及ばぬことであり、周囲の大名にしても京都の将軍家や諸大名にしても、この大クーデターはまことにセンセーショナルな出来事であったに違いない。子が父を追放する。これ以上の下剋上はあるまい。今まで小競り合いで燻っていた戦国の火は、この出来事によって火炎となって、瞬く間に日本各地へ燎原の火の如く広がっていった。

いわば戦国の火蓋を切ったのは、何おう武田信玄その人なのであると私は思っている。この時から信玄は本物の武人となって、後に戦国最強と呼ばれる武田軍を率いてゆく。一方で、政治家としては父とは異なり家臣領民を大切にし、円満な領国経営を試みた。勇猛かつ優しい甲斐国守を目指したのである。甲斐を豊かにするために、積年の課題であった治水事業を徹底的に行い、肥沃な大地を求めて、諏訪から北信濃に侵攻し次々に勝利して、ついには信濃を平定し領国を拡大した。信玄としてはここらで良いと思ったかも知れない。後は、甲斐信濃をいかに守り、繁栄させるかに心砕きたかったであろう。が、戦国の世はそれを許さなかった。甲斐を守り抜くためには、周囲と戦い、勢力を広げ、さらには京の都を目指さねばならなくなった。出なければやられるのが、戦国であった。その事では嫡子義信と揉め、まるで自分と父信虎のように反発し合う父子関係となり、ついには吉信が信玄に謀反を起こし廃嫡、失意の義信は自害した。次男信親は幼くして盲目となり出家、三男信之は早逝していたので、これにより信玄側室で諏訪姫の生んだ四男勝頼が嫡子とされた。諏訪姫は若き日信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘で、勝頼は諏訪四郎と呼ばれ長く諏訪にて養育された。義信亡き後、三条の方も相次いで亡くなり、これを機に勝頼は、諏訪高遠から甲府躑躅ヶ崎館に迎えられている。

元亀三年(1572)信玄五十二歳、労咳を患いながらも、およそ三万の武田軍と北条軍二千を率い、信玄は上洛するために西へ進軍を開始した。京都では織田信長が、足利義昭を十五代将軍に奉じたが、それは形ばかりで、実質信長政権が始まりつつあった。信長の軍門に下るわけにはいかない信玄と、信長の専横を苦々しく思っている足利義昭の利害は一致し、義昭は信玄に助けを求めて招聘したのである。信長と若き日の家康は同盟者であった。家康は西上してくる信玄を三河遠江にて迎え撃つも、味方の敗戦相次ぎ、浜松城に籠城したが、信玄はそれを無視して城攻めせずに、西へ軍を進めた。家康を子ども扱いして無視したと云うよりも、この先の三方ヶ原に誘い込めば、城攻めより遥かに楽に戦えることを知っていたからだ。同時に我が命尽きかけているこの時、避けるべき戦いは極力避けて、一刻も早く上洛を果たしたかった信玄の心が透けてみえる。家康が追って来なければ、信玄はそのまま西へ向かっていただろう。攻めて来ぬ武田軍に業を煮やした家康は、ならばと城を飛び出して信玄を追いかけた。そして三方ヶ原にて待ち受けていた信玄に返り討ちにされ、信長の援軍も僅かしか来ず、大敗北を喫した家康は、馬上で糞を漏らしながら、命辛々浜松城へ逃げ帰った。この時の家康はいかにも若かった。しかしこの経験が家康を大きくしてゆくきっかけとなり、家康は生涯武田信玄を尊敬したと云う。信玄の城攻めせずに誘き出す戦法は、関ヶ原の合戦で活かし、後に武田家臣団や武田軍の生き残りを召抱えて、井伊直政に与えたりした。武田の赤備えは井伊の赤備えに継承されたのである。信玄は労咳を押して出陣し、山の神が降臨した如き姿で、連戦連勝を重ねた。陣中では病など何処かへ消え失せ、家康を蹴散らし、いよいよ信長を窮地に追い込むところまで来た。入洛まであと一歩のところであった。が、信玄の命運もここまでであった。翌、天正一年(1573)武田信玄死す。総大将を失った武田軍の士気は下がり、もはや信長の敵ではなくなった。信玄亡き後、武田家は雪崩のようにあっという間に滅亡してゆく。

信玄の墓所は複数ある。おそらくは死を秘匿するべく、その墓もバラけた可能性が高い。信玄は往生際に自らの死を三年間伏せる様に勝頼に遺言している。さらには、遺骸を諏訪湖底に沈める様に伝えたとも云われる。真偽は謎らしいが、信玄ほどの人物ならばあり得ぬことではない。当時水葬は珍しいことではないし、諏訪湖に沈めて隠せば、敵を欺ける。そして諏訪湖は武田家と甲斐信濃にとって神の湖と崇めらている。諏訪大社は武田家の氏神であり、諏訪大明神は家臣から領民に至るまで崇敬厚く、冬に時々見られる湖面の氷の膨張と伸縮によって起こる「御神渡り」は、神の通った道と云われる。諏訪湖は甲斐や諏訪の人々にはまことに神秘の湖で、諏訪湖から飲み水も魚も、豊穣の水も分けてもらっていた。日々の暮らしの糧が諏訪湖なのだ。その神の湖に自らを埋葬すれば、信玄の威光は益々神威となり、武田家と甲斐を未来永劫守護すると遺言したかもしれぬ。信玄の墓は甲府市内にもあり、武田神社近くにある。武田神社躑躅ヶ崎館の跡地に建っており、今も社の周囲には濠が廻らされ、高い土塁が見られる。裏山には貯水池があって釣り堀になっているが、そのあたりに登ると、甲府城下を俯瞰することができる。最初に述べた甲府盆地雄大な眺めである。ここからの景色を信玄も眺めたとすれば、実に感慨深い。

信玄の墓は甲州市にある恵林寺にもあるが、ここがおそらくは正式な墓であろう。信玄の葬儀は勝頼によって恵林寺にて営まれた。恵林寺は中央線の遠山から車で十分少々だが、私はぶらぶらと一時間ほどかけて歩いて行った。途中にある向嶽寺に立ち寄る。向嶽寺は永和四年(1378)、富士を崇拝していた武蔵国の抜隊得勝禅師が八王子からこの辺りに入り、庵居を構え向嶽庵と称した。南朝後亀山天皇の勅願所となり、武田家からも庇護を受けて、信玄の時に本格的な禅道場となり向嶽寺となった。向嶽寺も信玄の時代がもっとも隆盛し、末寺、塔頭が軒を連ねる大寺となったが、武田家滅亡後は衰退してゆく。戦国末期には荒廃していたが、徳川幕府から朱印を受け、維新後に臨済宗南禅寺派に一時属し、明治半ばに独立して臨済宗向嶽寺派大本山になった。今は住宅地の只中に、禅寺らしい凛とした佇まいをみせている。仏殿や前庭以外は非公開だが、山門を入ると池があって、その池の真ん中に屋根のある美しい橋が架かってい、その橋越しに見る仏殿と、裏山の鮮やかな緑には見惚れてしまう。雲水の修行のための寺であり、拝観謝絶のせいか、参詣客は一人もおらず、清らかな朝の空気が充満する寺を独占した。向嶽寺は文字通り富嶽に向かう寺、富士を仰ぐ甲斐に相応しい寺である。

恵林寺は武田家菩提寺に相応しい堂々たる寺であるが、肩を怒らせたところがまったくない。ゆったりと静かに、優しく甲斐の歴史を見守っている。恵林寺臨済宗妙心寺派で、元徳二年(1330)夢窓国師の開山。禅寺らしく美々しい参道の先に朱塗の四脚門、その先に古色蒼然とした三門があり、屋根には武田菱が光っている。寺伝によれば、信長は武田家を徹底的に潰しにかかり、恵林寺にも兵火を及ぼした。当時の住職快川国師は、燃えさかる炎の中、この三門の上から、「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(あんぜんかならずしもさんすいをもちいず しんどうめっきゃくすればひもおのずからすずし)と遺偈した。さすがに武田信玄が帰依した禅師らしく、潔い死に様である。夢窓国師が作庭した庭は、池が配されて四季折々の花が咲き乱れる。方丈の枯山水も窮屈さはなく、のびのびと広くて気持ちが良い。有名な武田不動尊は、信玄が出家し比叡山から大僧正の位を受けた際に作らせた信玄等身大の不動明王の木像で、信玄は自らの髪を焼き、漆に混ぜて胸元に塗り込めたと云う。たださえ怒髪天不動明王に、甲斐の猛虎と恐れられ、山の神とも崇められた信玄がまるで乗り移っているかのようである。不動尊の裏手が墓地になっていて、信玄の墓所となっている。信玄の墓の背後には、武田二十四将を含む七十基もの家臣団の墓が整然と並んでおり、まるで鶴翼の陣の如く壮観である。死してなおも武田信玄と家臣団は強固な主従関係を見せ付けており、この場所にいると威風堂々たる武田軍が鮮明に瞼に浮かんでくるようであった。そしていつの間にやら戦国の世へ還って行きそうな心地になる。信玄墓所から少し離れたところには、元禄時代甲府を治めた柳沢吉保夫妻の墓もある。吉保は徳川綱吉側用人として絶頂を極め大老格の待遇を受けたが、綱吉亡き後は日を置かずに隠居し、余生は駒込六義園の造営などして風流を旨として過ごした。吉保は信玄を敬愛していたと云う。今、恵林寺で信玄の側にいられることは幸せであろう。

 当然ながら甲府市内には武田家に所縁のある寺が多い。信玄は京都や鎌倉の五山制度に倣い、甲府城下にも臨済宗甲府五山を置いた。甲府市内にある長禅寺、東光寺、能成寺、円光院、法泉寺である。また信濃を平定した後、甲斐にも善光寺を建立し、川中島合戦による兵火から逃すべく信濃善光寺から本尊の阿弥陀三尊を甲斐善光寺へ避難させている。ついでに甲斐善光寺にも参詣した。寺の規模や参詣人は信濃に遠く及ばぬが、金堂は姿形がよく似ている。境内はさほど広くはないのに、金堂や山門は異様に大きく、ゆえに少し違和感を覚えるくらい窮屈だが、緑青の屋根に朱塗の金堂には圧倒される。現在の金堂は、江戸期の再建で、内部には荘厳な内陣があり、外陣の天井にはよく見かける鳴き龍がいる。私も手を打って試してみたが、この寺の龍はとても大きな声で鳴いた。堂内には多くの仏像が薄気味悪い暗がりに所狭しと安置されている。そして内陣の地下には信濃善光寺と同じく、戒壇巡りがあって、本尊と結縁できる錠前がある。先年、信濃善光寺戒壇巡りをした時には、錠前の場所がわからずに通り過ぎてしまったが、同行した友人に引き戻してもらって何とか掴むことができた。此度はひとり。甲斐善光寺戒壇巡りは信濃ほどの長さはないが、やはり内部真っ暗闇。ここは寺であり、内陣の須弥壇の直下、本尊と結縁できる場所。これほどありがたく安心できる場所もないのに、視界の効かぬ闇はやはり怖しい。人間とは愚かである。手探りで慎重に壁を伝ってゆくと、果たして錠前を掴むことが出来た。信玄は仏門に深く帰依し、同時に諏訪大明神を崇敬した。神々の住まう山に四方を囲まれた甲斐の国守として、大自然と神仏を敬うことは信玄にとっては当然のことであった。一方の信長は神仏を怖れず、比叡山を焼き払い、一向宗と戦った。或いはそれは、はじめ自分よりも遥かに大きな山として立ちはだかる信玄への恐怖心を除かんがための、信長の手立てであったかもしれない。信玄は「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり」と言った。家臣を信じ、領民を慈しんだ信玄の大きな友愛の精神がみえるようである。

日を空けずに私は八王子にある。信松院を訪ねた。ここには武田信玄の四女(五女とも六女とも云うが寺伝に従う)松姫が開基の曹洞宗の禅寺で、松姫の墓もある。私は前々から松姫の数奇な生涯に関心があった。この寺にも来てみたかったのだが、近いからいつでも行けるだろうと思っているだけでいっこうに出向く機会がなかったのだが、此度ようやく参詣できた。松姫はたいそう美しい姫であったと云う。美貌のみならず、知性と教養を備え、かつ人を想う深い慈愛と、御仏への厚い信仰心を持っていた。父信玄は、他国からは甲斐の猛虎と呼ばれ、武田武士は山猿などと揶揄されたが、本人は漢籍、古典に通じ、孫子を愛読し、書も達筆であった。単なる荒くれ者に甲斐を豊かに統治し、戦国最強軍を形成できる力などあろうはずはなく、武田信玄はまことに智将であった。その娘松姫は、偉大なる父から多くを感じ、学んだに違いないのである。しかし松姫の幸せは儚いものであった。松姫は七歳で信長の嫡子信忠の許嫁となり、両家の絆となるも、都での信長の横暴と野望を見抜いた信玄は、次第に信長と不和になり信忠と松姫の縁も破談となる。信玄が亡くなり、十年余りで武田家は滅亡。松姫は八王子の心源院に入り、二十二歳で出家した。武田家代々の信という名、それは信玄の信であり、松姫の松をとって信松尼と称した。後にささやかな庵を結んだのが当院で、五十六歳で亡くなるまで、ここで寺子屋を開いたり、武田家の菩提を弔う日々を過ごした。先に述べた様に、家康は武田家の再興を画策し、武田家縁の人々や遺臣を丁重に庇護し取り立てた。これが縁で腹違いの姉の見性院とともに、秀忠の落胤保科正之を幼少時には匿って養育している。かつて寺にはまつひめ幼稚園があって寺子屋の意志は受け継がれていたが、今は幼稚園は無くなっていた。寺の前は松姫通りと呼ばれ、今でも当地の人々は松姫に心を寄せているが窺われた。本堂が中国の禅宗様式なのは、八王子七福神の布袋様も合祀されているからだろう。境内至る所に武田菱が刻まれている。小さいが庭も美々しく、茶室もあった。いかにも尼寺から始まった寺という慎ましい佇まいである。裏手にある松姫の墓にも参り手を合わせた。松姫は信玄の娘に生まれたことが、幸せであってまた不幸であったが、生涯武田信玄の娘であることを誇りとして生き抜いたに違いない。

さて図らずも、恵林寺甲斐善光寺は私が平成最後に訪ねた寺で、信松院は令和最初に訪れた寺となった。 ひとまず「なおすけの平成古寺巡礼」はこれにて終わりに致すが、私の古寺を訪ねる旅は終わらない。次からは「なおすけの古寺巡礼」として、新たに始めたいと思う。