弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一式年遷宮と女帝一

先月末私は伊勢神宮に参拝した。伊勢には此度の改元を機に参拝しようと思っていた。夜行バスで朝早くに名古屋に着いて、まずは熱田神宮へ参拝する。熱田神宮主祭神熱田大神は、三種の神器のひとつ草薙神剣を霊代とする天照大御神であり、神剣は御神体として奉安されている。創建はあまりに古く諸説あるが、熱田神宮伝では景行天皇の息子日本武尊が草薙神剣を手に東征したが、伊勢国の能褒野にてあえない最期を遂げた。後に熱田の地に草薙神剣を祀ったことが由緒とされ、仲哀天皇により社が創建されたと云う。かつて熱田は伊勢湾に面した岬であったらしいが、干拓されて今や名残すらない。大都会名古屋の喧騒が近いが、広い境内はさすがに清々しく、朝は地元の人が散歩がてらに参拝に訪れるくらいで、観光客などひとりもなかった。伊勢参拝前に気分が引き締まる。昔から熱田神宮伊勢神宮に次ぐ由緒とされ、天皇家は無論のこと、権力者にも庶民にも崇敬されてきた。想像するに、熱田は伊勢の遥拝所ではなかったか。古代から尾張は有力な豪族がいたし、熱田の大宮司はこの地を治めた尾張氏が平安中期まで代々務めている。前回書いたとおり壬申の乱の折、伊勢を遥拝した天武天皇に、伊勢湾沿岸の豪族達が挙って味方したのも、このあたりの人々にとってはいかに伊勢が大切にされたかが知れる。天武天皇はそれをよくわかっていて、言い方は悪いが利用したのだと思う。もちろん天武天皇自身も伊勢への崇敬は非常に厚かった。即位後は伊勢神宮の祭祀を自ら執り行ない、娘の大来皇女を初代斎宮として遣わされた。三種の神器のうち、草薙神剣が天皇の武威を示すのは言うまでもないが、熱田神宮伊勢神宮の守護と遥拝する場として整備したのは、或いは天武天皇であったかもしれない。熱田は源頼朝の生誕地である。平安後期になると、尾張氏は大宮司から権宮司になり、取って代わって藤原南家が大宮司となった。藤原季範の娘由良御前は、御所に上がり、崇徳天皇の同母妹で、後白河天皇の同母姉の上西門院に仕えたと云う説があり、この頃に縁あって源義朝の妻となった。そして頼朝が生まれたのである。源氏は熱田大神を武神として崇敬した。熱田神宮のそばには誓願寺と云う寺があり、頼朝生誕地の碑が建っている。

名古屋からは近鉄線で伊勢へ向かった。東京から伊勢へ行く場合、どうしてもこのルートになってしまうが、伊勢へは本来、大和や京都から入るのが筋であろう。本伊勢街道がその主道になるが、今回はそちらから行く時間がなかった。次は本伊勢街道を辿る旅をしてみたい。余談になるが私の友人は数年前、江戸時代に盛んであった「おかげ参り」の道中を歩いて行った。日本橋から東海道を一路、伊勢内宮を目指して十日以上かけて歩いたのである。ちなみに友人は女性である。強者である。彼女は箱根を越え、駿河遠江をひたすら歩き、結膜炎を起こしながら歩き通した。彼女は浜松から渥美半島へ抜け、伊良湖岬から船で鳥羽へと渡り伊勢へ入った。江戸から行くならばやはりこのルートが人気であり、江戸人たちにとって、尾張、桑名経由よりも、海上経由の方が近道であり、楽であったと思う。

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も有らなくに

これは大来皇女の歌である。先に述べたが、大来皇女は初代斎宮を務められ、天武天皇崩御されるとしりぞかれたが、最愛の弟大津皇子を失い、多くの挽歌を遺している。この歌もそのひとつで、伊勢から都へ戻ると、天武天皇大津皇子もおらず、何をしに都へ戻ってきたのか、伊勢に留まっていれば良かったと嘆息されているのである。斎宮は「さいぐう」または、「いつきのみや」と呼ばれ、上古から南北朝時代にかけて天皇に代わって伊勢神宮に奉仕し、祭祀を執り行った。 近鉄線で名古屋から伊勢へ向かう途中、多気明和町のあたりで車窓左手に広大な斎宮跡が見られる。斎宮は伊勢から少し離れたこの地にて潔斎して暮らし、日夜朝暮に伊勢を遥拝した。年に三度神宮へと赴き神事に奉仕されたと云う。斎宮は基本的に未婚の内親王や皇族の女性(女王)が務められた。斎宮には天皇家出先機関として、斎宮寮が置かれ、数百人が仕えていたと云われるから、相当に大規模な役所であった。

午前中に列車は伊勢市駅に到着した。まず外宮へと参る。以前は外宮のあたりは閑散としていたが、今はずいぶんと整備されて、洒落たカフェや土産物屋が点在している。内宮に負けず観光客誘致に余念がない。私個人的にはいつも混雑している内宮のおはらい町よりも、外宮参道の方が広々と静かで良いと思った。私が行った日は令和になってちょうど一ヶ月、改元時の混雑は少し緩和されたようで、外宮は案外と静かに参拝できた。今さらこと新たに伊勢神宮について述べることはない。ただ、外宮に祀られた神が穀物や食を司る豊受大神であることは、内宮と併せて天地神明であることを明確に示しており、上古より人は天と地によって生かされていて、生き存えるにもっとも必要なモノを神として崇め奉ることは至極当然のことであったと思う。

外宮前で私はレンタサイクルを借りた。ここから先は内宮へ参り、二見浦の夫婦岩まで伊勢路をサイクリングである。御木本道路を外宮から内宮まで自転車で三十分弱、曇天模様ではあったが暑くも寒くもなく、気持ちの良い快走であった。途中、猿田彦神社に参り、おはらい町へ入った。いつ来てもおはらい町は活気に満ちている。老若男女が集う様は、原宿の竹下通りと巣鴨の地蔵通りが一緒になったような場所であるが、町並はこちらの方が風情がある。昭和中期に伊勢神宮の参拝客は増えたが、おはらい町の観光客は激減してしまい、伊勢市は再興に尽力した。それは平成となっても続いておかげ横丁ができたり、活況は今がピークとばかりに賑わっている。

私は宇治橋の前に自転車を停めた。暑い雲間からほんの少し陽光が差している。冬至の日、朝日は宇治橋の正面に昇る。冬至を境に昼は日一日長くなってゆく。そこに切なる願いが込められた。昔の人々にとって何よりも恐ろしいのは闇夜であった。闇夜では人の目はほとんど利かない。それはこんなに明るい夜しか知らない現代人の我々には想像もできない恐怖であった。夜になると鬼が現れ、魑魅魍魎が跋扈した。得体の知れぬモノが夜を支配し、人は活動を制限されて、怯えながら眠るしかなかった。だからこそ、朝が来て、日が昇ることを無上の喜びとした。夜を無事に過ごし、また目覚めることに感謝した。こうした想いも、今を生きる我々には絶対にわからない。大自然と共存するというよりも、大自然の中で生かされていること、その力に人が抗することなど不可能であることをよくわかっていた。統治者たる上古の天皇たちはその想いを代表して、自ら太陽を崇敬し、自身の祖先神が天照大御神としたのである。何よりも崇めるべきは太陽であり天であり、次に大自然であり夜であり、その次に海や大地であった。それが私にはアマテラス、ツクヨミスサノオを彷彿とさせる。中で第一はアマテラスであり、その子孫がこの国を治めるのであれば、誰も逆らうことはできなかった。こじ付けでも何でもなく、まったく人間として自然な考え方であったと私は思うのである。これは何も日本に限ったことはではなくて、世界中で太陽を神として崇めていることからも、上古の人々にとっては当たり前の思考であった。

昔の人々は朝起きて目覚めるたびに、一日、一日が生まれ変わりと考えていた。闇夜は黄泉の国を連想させる。ゆえに朝を迎えて、旭日を仰ぐことは黄泉がえりであった。そして日本人は神々もまた生まれ変わるものと信じた。それをもっとも具象化したものが遷宮である。遷宮はいくつかの神社で今も行なわれているが、もっとも有名で大規模なものは伊勢の式年遷宮であろう。伊勢の式年遷宮は千三百年間、室町時代の一時期を除いて二十年ごとに行なわれている。前回は平成二十五年であった。この二十年という周期が神明造の継承、遷宮を取り仕切る人々の叡智、献木の技術、奉納品の伝承にもちょうどよい。二十年前の遷宮を知る人々は、二十年後もだいたいは生きている。二十年後に次世代へと繋ぐには、これほど絶妙の時間はあるまい。よく考えられている。この伊勢の遷宮を始めたのが、何おう持統女帝であった。遷宮の意図は様々に推測され、実際様々な意味があるのだが、代替わりをすることはすなわち皇位継承をも意味し、平安遷都まで歴代天皇が度々遷都を繰り返したのも心機一転の「みあれ」を象徴している。改元にもまた同様の意味が込められていたことは前にも書いた。飛鳥時代から奈良時代にかけて、皇位継承は命懸けであった。しかし天武天皇と云う強い天皇が誕生し、後を引き継いだ持統女帝により盤石なる体制が築かれ、あおによし奈良時代は白鳳からやがてくる天平へと絶頂期を迎えるのである。

持統女帝は、官制の整備、百官の選任、庚寅年藉の作成などを次々に行い律令制を完成させた。持統天皇八年(694)には中国様式に倣い日本で初めて条坊制を敷いた藤原京を造営し遷都した。周囲およそ五キロ四方の藤原京平安京平城京よりも大きな都であった。薬師寺平城京の西ノ京に移転するまでは藤原京にあって、平城京に移転後も本薬師寺として長らくあったが、今は礎石を遺すのみである。藤原京は、北の山科の地に天智天皇陵、南に天武天皇陵、西に二上山、そして東に伊勢がある。これは偶然ではなく藤原京はそれらに守護された場所に意図して造営されたに違いない。この都で大らかで繊細な白鳳文化が生まれた。白鳳文化はいかにも女帝が統治した時代を象徴している。 持統女帝は持統天皇十年(696)に孫の軽皇子に譲位されて太上天皇となられた。軽皇子は十四歳で即位され文武天皇となる。これは史上初の譲位と云われ、持統上皇崩御されるまで若き文武天皇を後見された。二元政治と云うよりも、実質的に権力は上皇にあった。平安後期の院政の原型である。大宝元年(701)大宝律令が成り、それを見届ける様に、翌年、持統上皇崩御された。五十八歳であった。 その後文武天皇は在位十年で崩御され、母である元正天皇、その娘で文武天皇の妹元明天皇と相次いで女帝が即位している。持統女帝にはこれも予測の範囲であったかもしれない。であればこそ皇祖神たる女神アマテラスを歴代天皇の誰よりも崇敬し、アマテラスの力の絶対性と、生命の永遠性を意識的に世に示されたに違いない。式年遷宮には持統女帝の想いが強く込められている。

万葉集には持統女帝の歌がいくつか納められているが、私が好きな歌は、春過ぎて夏きたるらし〜よりも、天武天皇を想われて詠まれたこの挽歌に惹かれる。

北山につらなる雲の青雲の星離りゆき月も離りて

何とも雅びで冷え寂びた調べで、後々の平安王朝を彷彿とさせる歌である。月や星を散りばめて広大無辺の宇宙を連想させるが、その内には天武天皇亡き後の秘めたる恐怖と悲哀が見え隠れし、持統女帝の人間像が見えてくる気がしてならない。 そういえば西行は、晩年の七年ほどを伊勢に過ごした。西行の伊勢への信仰は、神仏混淆の厚きものであった。

   伊勢にまかりたりけるに、大神宮にまゐりて詠みける

榊葉に心をかけん木綿しでて思へば神もほとけなりけり

   月よみの宮にて

梢見れば秋にかはらぬ名なりけり花おもしろき月読の宮

 何事のおわしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる

三つ目の歌は有名だが、果たして西行の作は定かでないらしい。が伊勢に参拝して、河鹿の鳴き声を聴きながら五十鈴川で手を洗い清めていると、どうしてもこの歌が私の中をリフレインした。

自転車を駆って内宮近くの月読宮にも参拝した。ここは良い。内宮に比べて参拝に訪れる人も少なく、厳かな静けさである。外宮近くにも月夜見宮があるが、どちらも主祭神は月読尊で、西行はどちらの月読の宮で詠んだのであろうか。月の満ち欠けを教え、暦を司るとされる月読尊は、いかにも秘された神らしく、あまり目立ってないところがまことに好ましい。私個人的には、ツクヨミには大変興味があって、予てよりいろいろと調べたり、各地のツクヨミを祀る社を訪ねているが、調べれば調べるほど謎が多く、迷宮入りしそうである。それはそれでまた面白い。このシリーズの趣旨と離れてしまうので、今はあまり深くは追わないが、いつかツクヨミのことを多角的にアプローチしてみたいと思っている。

私は五十鈴川河口にある汐合大橋を渡って二見浦に向かった。二見浦のあたりも風情ある宿屋や土産物、赤福の店が立ち並んでいるが、あたりは静かな凪の音が聴こえてくるばかりであった。この日は一段と海は穏やかで、夫婦岩も仲良くごきげんに見える。私はしばし茫然と伊勢の海を眺めた。大波小波を受ける夫婦岩。私はそんな夫婦岩の姿に歴代最強の天皇夫妻たる天武天皇と持統女帝を重ねていた。