弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

祖父の従軍のこと

私の祖父は、父方も母方も対中戦に従軍した。父方の祖父は二十年近く前、母方の祖父は十年ほど前に亡くなったから、今となっては定かでないのだが、私が幼い頃に左様聞いた記憶がある。父や母は祖父の軍歴についてはほとんど知らない。聞いてもよくわからないという。祖父は子供たちには戦争や従軍のことを多くは語っていないようだ。よほどの嫌な思い出であって、悲惨な体験を子供には語りたくなかったのか。はたまた復員してからは復興と家庭を守るために汗水流して働きづめ、やがて高度経済成長の大波に乗っかってゆくうちに、忘れたい記憶をしまい込んでしまったのかも知れない。或いは、敗戦の屈辱を子供たちに伝播すれば、それは末代までの遺恨となる事を、あの頃の日本人は知っていて、愚行を連鎖させないためにも、敢えて何も話さないでいたのかと思ったりする。子供たちつまりは私の父や母は関心がなかったのか、直接聞いていないのもおかしなことだが、真実を知っている親族も少なくなり、いずれは二人の祖父の軍歴証明書を取得しようかと思っている。

中国戦線のどこへ祖父が従軍したのか。私の薄い記憶では満州であったと思うが定かではない。いずれにしても、泥沼化した日中戦争に当時二十歳そこそこで徴兵された。何とか生き延びて、復員したのは大平洋戦争末期であった。母方の祖父からちらと聞いた話では、戦闘や後方支援のみならず、焼き場の見張り番を担当する日は特につらかったと云う。火葬場と違って、野戦場で人間を火葬するのがいかに大変であるか想像に難くはない。ましてや一晩に何十人と火葬する日もある。焼き場では片時も火力の衰えがあってはいけない。その為に膨大な薪が必要で、常に薪をくべ続ける。強烈な臭気にはじめは何度も嘔吐した。いずれ自分もこうなるのかもしれないと云う恐怖もあっただろう。気分は塞ぐばかりであったが、何度か経験するうちに、慣れてゆくらしい。ぬくぬくと平和な時代を生きる我々が、生涯経験することのない凄まじい地獄に、慣れてしまうなど、やはり戦争は人を狂わせてゆく。

私の父母は戦後生まれたので、どちらかの祖父が帰って来なければ、私は生まれていない。その事を思うだけでも、全身が凍りつきにそうなる。二人の祖父が行った日中戦争だけでも手一杯で、あれだけ多くの犠牲を払っていたのに、どうして大平洋戦争へ向かったのか。一概になぜかとか、無謀であるとばかりは言えないと思う。歴史というものは、未来の人々が「なぜ」と疑問を抱き、「もし」と考察することは許されても、常にその場合、時勢と時代背景を見過ごしてはならないのである。どうして大平洋戦争に向かったのか、どうして日中戦争は起こったのか。そこをスルーして、ただ単に無謀であったとは、私には言えない。明治日本は功罪二つの道を敷いた。どちらも同じ比重で、大正、昭和、平成を経て現代日本につながっている。比重は同じでも、罪の部分は明治後半に生まれた人々が、国粋主義軍国主義を掲げる思想家と、それをバックアップしたマスコミに扇動された結果であった。国粋主義が力をつけたのは、共産主義が台頭したことも所以であろう。軍国主義もまた日本が亜細亜の盟主となることを目標としたためのやむを得ない手段であった。そしてマスコミがそこに飛びついたことにも、自らの既得権益のみならず、何らかの理由があったはずである。はじめは誰も、無謀なる戦争をしようとは思ってなどいないと私は信じたい。もちろん疑わしい人物もいないではないが、何も考えずにただ突き進んでいったとは、到底考えられない。以前はよくもまああんな馬鹿な戦争をやったものだと呆然としたのだが、私も昭和の戦争のことや、当時の指導者のことを考え、調べてゆくうちに実はよくわからなくなってきた。

そこでである。そうした想いからも、まずは身内である二人の祖父がどういう戦争に駆り出されたのか、それをもっと知りたいのである。祖父の軍歴を辿ることは、あの時の日本と日本人がどういう状態だったのか、朧げに輪郭が浮かび上がってくるのではないかと思っているからだ。