弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 仏国土平泉

「みちのく」と云う響きは、いつの世も旅人達の旅情を誘う。かく言う私もその一人で、みちのくの歴史に興味を抱き、西行芭蕉に憧れて、少しずつ東北を旅している。東北の中心が仙台ならば、みちのくの核心は平泉であると私は思う。地理的に奥州のど真ん中とはいえないが、ほぼ中央といってよく、仙台は秋田や青森からは遠い。坂東から白河の関を越え、陸奥へ入ると確かに風景は変わる。

律令制が整い始めた頃より、奥州は畿内勢力の憧れの地であった。権力者は広大で肥沃な大地を求めて、原住民を蝦夷と蔑称し、極めて強引なる手法で侵略した。しかし蝦夷大和朝廷の想像以上に強く、桓武帝は坂上田村麻呂を派遣して、阿弖流爲率いる蝦夷をようやく平定したが、平定まで二十年もかかっている。阿弖流爲は身柄を拘束されて平安京へ護送され、田村麻呂の助命嘆願も虚しく処刑された。そもそも完全なる武力鎮圧ではなく、和睦であった。朝廷は実より名を、蝦夷は名より実を取ったのである。蝦夷の強さを思い知った朝廷は、その後は静観していた。が、平安後期になると土着の豪族安倍氏がみちのくの独立を画策し、北上川流域に防御壁や城砦を築いた。安倍氏は朝廷への貢祖をせず、いよいよ事態を看過できなくなった朝廷は、ついに安倍氏討伐のために陸奥藤原登任を大将とし、軍勢を差し向けるが、安倍氏の軍勢は朝廷軍を圧倒、登任は更迭され、代わって源頼義陸奥守に任じられた。頼義は武勇の誉れ高く、安倍頼時は恭順したが、すぐ様軍門に下るというわけにはいかず、膠着状態が続いた。清衡が生まれた年、頼義が刺客に襲われたが、これが頼時の息子貞任の仕業であると讒言され、頼義は貞任を引渡すよう求めたが、頼時はこれを拒否、ここに再戦が始まり、安倍氏は滅亡した。これが奥州十二年合戦、すなわち前九年の役である。

安倍氏は倒されてしまうが、その後も小競り合いは各地であって、鎮火せぬまま燻り続けた。散々に抵抗された上、朝廷はみちのくを完全に支配下に治めることはできなかった。その様な大乱世に清衡は生まれ、辛い幼少期を過ごしてきた。この頃には清衡の心中に、朝廷に対する遺恨と警戒が、強く植え付けられたであろう。この二度の戦で、台頭してくるのが奥州藤原氏である。初代藤原清衡の父経清は国司として陸奥に下向した。出自は藤原秀郷の傍流の坂東武士であるらしい。経清は安倍氏から妻を娶り、天喜四年(1056)、嫡男清衡が生まれた。父は前九年の役では源氏に反旗を翻したため、処刑されたが、母が源氏に味方をした出羽国清原武貞と再婚したため、七歳の清衡は助命されたのである。安倍氏から奥州の覇者は清原氏に代わった。

しかし、今度は清原一族で骨肉の争いが始まる。後三年の役である。清原武貞には正妻との間に真衡という嫡男がいて、武貞亡き後家督を継いだ。また清衡には異父兄弟の家衡もいた。この頃、源義家陸奥守になった。真衡はかねてより不仲であった叔父の吉彦秀武を討つべく義家に願い出た。許しを得ると出羽へと出陣した矢先、吉彦と気脈を通じていた清衡と家衡兄弟は、真衡の拠点を襲撃した。しかし、用心深い真衡は事前に察知し、守りを強化、義家の援軍もあって、クーデターは失敗した。清衡はこれまでかと思ったが、なんと真衡が急死してしまう。私の推測に過ぎないが、ここまで話が出来すぎているのも、或いは清衡と義家は結託して、真衡を暗殺したのではあるまいか。いずれにしろ義家はこれ以上の争いを避けるべく裁定し、清衡と家衡に陸奥の六郡を与えたが、今度は家衡がこの裁定を不服とし、清衡を憎むようになる。ついに清衡の館を襲い妻子を惨殺したが、清衡は危機一髪で逃げ延びて、義家に助けを求めた。こうして清衡と家衡の兄弟で戦い、最終的には兵糧攻めに成功した清衡と義家に軍配が上がるのである。後三年の役終結後、清衡は清原の名を棄て、父経清の姓である藤原に帰することにした。ここに奥州藤原氏が始まるのである。

私がみちのく、奥州を思うとき、やはりどうしても胸に去来するのは、仏国土平泉のことであった。平泉にはずっと行ってみたかった。ようやく願いが叶ったのは先月のことである。平泉には平安後期に、京の都に次ぐ大都市が存在した。しかし今や、それが虚構であったかのように夢の跡が点々と残っている。それが平泉の一番の魅力ではないかと思う。

それにしても岩手県はその名にそぐわぬ巨巌巨石に溢れている。渓谷も多い。岩や石に興味のある私は、寺廻りをする前に、宿をとった一関にある二つの渓谷へ行った。猊鼻渓北上川の支流の一つ砂鉄川が成した二キロ余りの渓谷で、高さ百メートル近くもある断崖が両岸に迫る。この日本離れした大渓谷を、砂鉄川は驚くほど静かに流れている。川底からは砂金や雲母が採れるそうで、中尊寺金色堂にも使用されているとか。砂鉄川では舟下りができる。清流には手で掴めるような水面すれすれを魚たちが泳いでいて、船頭の唄う「げいび追分」に合いの手を入れるように、時々飛び跳ねて魅せる。船頭は竿一本で巧みに操船するが、砂鉄川がゆるりと流れているから出来る技であると聞いた。渓谷のずっと奥に猊鼻の名の由来となった、獅子の鼻の形をした巨大な鍾乳石があった。ここまで来るとまったく俗界と隔絶しており、巌窟に仙人が描かれている南画を彷彿とさせる風景である。次の日の朝、厳美渓にも行ってみた。厳美渓は太古栗駒山の噴火によって堆積した凝灰岩を、磐井川が侵食してできた。かつてこの辺りまで領した伊達政宗は、松島と厳美渓仙台藩の二大景勝地として自慢している。暑中のこととて、磐井川の水量は乏しかったが、ひとたび大雨が降れば、水は滝のように下ってゆくのであろう。奇岩が屹立する様には圧倒される。「空飛ぶだんご」として有名な名物郭公だんごを頬張って、平泉の寺々へと向かった。

厳美渓から達谷窟へは車で十分とかからない。稲田の奥に突如断崖絶壁がそそり立ち、端のほうには巨大な磨崖仏が見下ろしている。坂上田村麻呂は、蝦夷討伐を崇拝する毘沙門天に祈願した。平定の御礼として、京都の清水寺を模して毘沙門天を祀る堂宇をこの地に建立したと伝わる。毘沙門天の化現とも云われた田村麻呂は、清水寺の縁起にも関わりがあるから、この毘沙門堂も懸け造になっているのだろうか。何度も火災に遭って、今のお堂は昭和の再建だが、巌窟に捩じ込むように造られた姿は、少し窮屈な印象を与えるが、それ以上に荒々しい逞しさを感じる。堂内の内陣には所狭しと毘沙門天が並んでいた。これほどの数の毘沙門天が、一同に奉安されているところも珍しい。ここは神社とも寺ともつかない。参道には三つの鳥居があり、天台宗の西光寺という寺が別当だが、今以て神仏混淆が色濃い社寺である。

奥州藤原三代は、仏教によって世の平安を願い、仏法僧を庇護し、主従と民草の皆が信心し、功徳を積めば、自ずと平和で安定した世が続くとした。これが初代清衡の定めた家訓であり、二代基衡、三代秀衡は忠実に家訓を守り、仏国土の建造に余念がなかった。三代までの百年で、こと清き仏国土と云う点においては、平安京を遥かに凌いでいた。

私は毛越寺までやってきた。広々とした大泉が池の水面には、抜けるような碧天が映え、時より涼やかな風も吹き渡ってくる。かつて毛越寺は、嘉祥寺や円隆寺といった複数の寺の総称であった。このうち金堂にあたるのが円隆寺で、吾妻鏡には金銀を鏤めた絢爛たる伽藍であると書かれている。吾妻鏡はさらに、毛越寺は「吾が朝無双の荘厳さ」であると讃えている。毛越寺は、嘉祥三年(850)慈覚大師円仁の開山と伝わるが、寺伝によれば、円仁がこの近くの山中へ来た時、濃霧に包まれ歩けなくなった、そこへ一頭の白鹿が現れて、白い毛を地に敷いた、それが一筋の道に見えて、円仁が進んでゆくと、白鹿は消えて、今度は一人の老人が現れた。老人は円仁に吉瑞を告げて飛び去ったと云う。これは吉兆に違いないと思った円仁はここへ堂宇を建立した。円仁が白鹿の毛を頼って難を逃れ、山を越せたことから、毛越寺=けごしでら、或いは、モウオツジと呼ばれ、それがモウツウジになったと云う。しかし、数多の戦乱で毛越寺も衰退してしまった。それを再興したのが、奥州藤原氏である。毛越寺は奥州藤原三代によって百年をかけて隆盛してゆく。二代基衡は父清衡の背中を見て育った。不戦の誓いと仏国土造営は、基衡にもしっかりと継承され、朝廷とも良好な関係を結び、平泉は飛躍していった。基衡は少し前に京都で流行していた浄土思想に強く惹かれて、平泉を此の世の浄土とすることにした。その集大成が毛越寺なのである。大泉が池のほとりでは平安貴族さながらに曲水の宴が催され、池には龍頭の小船が浮かべられて、観月の舟遊びも行われた。池には時折さざなみがたって、あたかも海を思わせる。平泉には毛越寺の他にも、観自在王院や無量光院など、宇治の平等院を凌ぐ大規模な浄土庭園を持つ寺があって、それらのすべて完成した三代秀衡の頃の壮観はさぞかしと偲ばれる。毛越寺だけでも堂塔四十余り、禅房五百を超えたというから想像するだけでも驚嘆である。池畔では盛りを過ぎつつある蓮にも出会った。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、御釈迦様が極楽の蓮池の畔を散歩している様子が描かれている。御釈迦様は朝の散歩中、蓮池から遥か奈落の地獄の様子を見ているのだが、私は蓮池を見るといつもそのシーンがよぎる。毛越寺の浄土庭園はまさしく極楽浄土。 とすれば蓮池は極楽の池。もしやと思い、蓮池の底を覗いてみたが…。そうこうしているうちに、ちょうど午近くになっていた。

私はいよいよ平泉の核心中尊寺の月見坂を登る。天台宗東北大本山中尊寺は、その歴史、格式、知名度からして、今やみちのくの寺の総代とも云える。ここも開山は慈覚大師円仁で、嘉祥三年(850)創建とされる。初めは弘大寿院と称したが、清和天皇より中尊寺の寺号を賜り、長治二年(1105)より大伽藍を造営したのは秀衡である。往時は四十以上の堂塔があり、伽藍の規模も大きなものであった。幼少より血で血を洗う世を見続け、兄弟を攻め滅ぼしたことは、清衡の心を剔り、彼が誰より泰平の世を望んだか、察するに余りある。ここから清衡は争いのない世を理想とし、具現化するべく深く仏教に帰依した。東を北上川、北を衣川、南に太田川という三方を川に囲まれ、西に小高い丘と、三つの川の流域に肥沃な土地が広がる平泉に目をつけた清衡は、ここに仏国土を創造することを、生涯の仕事と定め、邁進するのである。西の小高い丘が、中尊寺の建っている関山(かんざん)のことであろう。月見坂を登ってゆくと、中尊寺境内にはいくつのか物見台があるが、ここから周囲を眺めると、まさに天然の要害であることを実感する。ここに伽藍を造営したのは、無論のこと、いざという時の砦にするためでもあったに違いない。さらに秀衡は、白河関から津軽半島の外ヶ浜まで、一町(109.09m)ごとに傘卒塔婆を立て、そのちょうど中間にあたる場所に中尊寺があるのである。驚くべきスケールの大きさである。清衡が中尊寺落慶の際に記した「中尊寺建立供養願文」には、

官軍夷慮の死事、古来幾多なり。毛羽鱗介の屠を受くるもの、過現無量なり、、、、、鐘声の地を動かす毎に、冤霊をして浄刹に導かしめん

攻めてきた官軍も、守った賊軍も、古来より幾多の戦乱で亡くなった。鳥獣魚貝にいったてはこれまで限りはない。鐘の音が地を動かすごとに、故なくして命運尽きたすべての魂を、安らぎの浄土へと導きたい。およそこうした意味のこの願文を奉じたのも、自らの来し方行く末を思うとき、清衡の心には常に草木国土悉皆成仏という想いが去来したからに違いない。

数多ある中尊寺の寺宝で、私がもっとも心惹かれるのが、国宝の「紺紙金銀字交書一切経」である。この装飾経は、藍染の料紙に、一行ごとに金泥の字と銀泥の字で交互に一切経が書かれており、大変な手間がかかっている。はじめに黄土で下書きし、まず銀字、次いで金字で書かれたそうだ。見返しにはあらゆる浄土が描かれている。以前私はこの一切経を東京の美術館で間近で拝見したが、壮麗かつ力強い筆致に圧倒されて、奥州藤原氏の凄さに想いを馳せた。この一切経を見て以来、私の平泉に対する憧憬はより強くなった。中尊寺には世界中から参詣客が訪れる。皆が目指すは金色堂。たしかに金色堂は、凝視すると目が潰れそうなほど美しい。しかし、この奥深い寺には多くの堂宇が点在しており、その一つひとつを巡るのも良いだろう。 金色堂以外は空いている。私がことに気になったのが旧覆堂である。旧覆堂は室町時代の建立で、今の覆堂が昭和に完成するまで、五百年近く金色堂を風雨から保護してきた。金色堂は天治元年(1124)に完成してから、なんと五十年もの間、雨露に曝されて建っていたそうだ。それも驚くべきことで、名だたる大伽藍が悉く灰燼に帰する中、金色堂だけは九百年余りずっと、あの場所に在る。平泉を焼いた頼朝も、金色堂だけはその荘厳さに平伏したのかもしれないし、兵士たちも賢明に火の粉を振り払ったのではなかろうか。その証拠に鎌倉時代には金色堂を護るため、覆堂の原形のような屋根が組まれたそうだ。それほど金色堂は人々の至宝であり、希望であり、燦然と輝く威光を畏怖したのだろう。奥州藤原氏の栄華はここに始まった。金色堂には藤原清衡、基衡、秀衡、そして泰衡が眠る。つまりは奥州藤原氏はここに終わったとも云える。かつては奥州藤原氏のルーツはアイヌではないかと云うは説もあったが、戦後、金色堂の墓を発掘し遺体を学術調査したところ、アイヌ民族の特徴は見られなかったと云う。しかし、奥州藤原氏、ことに初代清衡には、阿弖流爲ら蝦夷の魂は間違いなく受け継がれていた。その魂こそが、百年に渡る藤原氏の栄華をもたらしたのである。 芭蕉は一句でその標とした。

五月雨の降り残してや光堂

夏の長い太陽がそろそろ傾く頃、最後に私は高館の丘へ登ってみた。ここには源義経を祀るささやかな御堂が北上川を見下ろすように建っている。義経元服してすぐに平泉にやってきた。秀衡に気に入られて、この地で生きる決心をするが、時勢を見過ごせず、兄頼朝の元へ馳せ参じる。 壇ノ浦の船戦に勝利し、源氏の御曹司として無二の活躍をみせるが、それからは頼朝に疎んじられ、再び秀衡を頼って平泉へとやってくる。流浪の旅もここで終わりと思い定めたが、頼朝の追及は秀衡亡き後の泰衡には抗せず、ついには義経主従を攻め落とす。義経が追い込まれて、自刃した場所が高館とされる。義経柳之御所や伽羅御所にも近いこのあたりに屋敷を構えていた。義経堂は天和三年(1683)に仙台藩伊達綱村義経の遺徳を偲んで建立したと云う。この場所からの眺望はすばらしい。眼下には清冽雄渾な北上川、その向こう稲田の奥には、西行が吉野に匹敵すると評した桜の名所束稲山が横たわる。

ききもせずたばしね山のさくら花 よしののほかにかかるべしとは

芭蕉はここで義経に手を合わせ、奥州藤原氏の栄華に一句手向けた。

夏草や兵どもが夢の跡

これぞ平泉という眺めである。

平泉に伝承されている延年の舞には、五穀豊穣と平和への願いが込められている。奥州藤原氏の培った平和を望むDNAは、強く、太く、逞しくなって、今も彼の地に生きる人々の中に流れ、育まれ続けていると私はかねがね思っていたが、平泉を訪ねてみて、それは確信となった。