弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜花輪高校のモルダウ〜

令和元年の全日本吹奏楽コンクールが終わった。先月触れた淀川工科高等学校は、32度目の金賞に輝いた。今年は課題曲Ⅱ「マーチエイプリル・リーフ」、自由曲がラヴェル作曲のバレエ音楽「ダフニスとクロエ第二組曲より夜明け〜全員の踊り」あった。私は後から音源で拝聴したが、やはり淀工、圧倒的なスケールはライブでなくとも伝わってくる。 私が現役の頃は、吹奏楽コンクールの自由曲ではアルフレッドリードが主流で、少しレベルを緩めてバーンズなどが大いに演奏された。吹奏楽曲は吹奏楽のために書かれた楽曲ゆえに、吹奏楽の魅力を最大限に引き出すことができるし、指揮者も奏者も作曲家の表現の意図や楽曲のテーマを汲みし易いのである。同時に果敢に原曲は管弦楽のクラシックに挑戦する学校もあり、それは今も変わらない。むしろ今の方が、全日本の常連校ではクラシックをやるほうが主流のような気がする。これは原点回帰といえるかもしれない。吹奏楽コンクール黎明期には、吹奏楽曲はマーチやファンファーレの類いが多く、コンクール自由曲はクラシックを吹奏楽にアレンジして演奏されることが当たり前であった。長い日本の吹奏楽の歴史は、今や吹奏楽曲のクラシックと云える名曲も数多輩出したが、一般への認知度となるとやはり管弦楽のクラシックには及ばない。誰もが一度は耳にしたことのあるメロディは、間違いなく聴衆を惹きつけるが、同時に知ってる曲であればこそ良し悪しがはっきりとするから、よりパーフェクトな演奏に期待するのだ。

 定演などで自由に選曲して、時には難しいクラシックをやってみるのと違い、コンクールの自由曲を吹奏楽オリジナルと、クラシックから選択するのは慎重に頭を悩ます。たいていはその時の部のレベルを見極めて、指導者が決定するが、近年は部員に自主性を持たせるために部員で相談して、コンクールを最後に引退する最終学年が決める学校も増えている。 淀工をはじめ日本のアマチュア吹奏楽界の最高峰にある中学や高校及び一般の団体は、決まって果敢にクラシックに挑戦する。コンクールは制限時間12分と定めがあり、課題曲が概ね4分〜5分であるから、自由曲は7分〜8分にまとめねばならない。したがってクラシックもアレンジされる。このアレンジは指揮をする指導者がやる場合が多い。アレンジは非常に重要で、各校の力量が反映され、曲の魅力に大きく影響するから、悩みどころであろう。そうして楽曲を自らの音楽に創り上げてゆくと云うのも、吹奏楽コンクールに挑戦する者、我ら聴衆、双方にとり醍醐味と云えよう。

 私はこれまで多くの吹奏楽部の演奏を聴いてきた。淀工がキングであることは既に書いたが、他にも多くの名門校に魅了されてきた。なかで心に強く残っているのが、秋田県立花輪高校である。花輪高校は十和田湖にも近い秋田県鹿角市にあり、昭和三年(1928)創立と云う歴史ある高校。吹奏楽部の創立も学校創立すぐで、1970年代には全日本常連となり名門校になった。1969年から1992年まで22年連続で全日本に出場し、最高賞の金賞を8度受賞している。花輪高校吹奏楽部を最初に全日本へ連れて行ったのが佐藤修一先生で、佐藤修一先生のあとを引き継がれた小林久仁郎先生も、ハチャトゥリアンバレエ音楽「ガイーヌ」に挑戦するなど、このお二人が花輪高校吹奏楽部の黄金期を創造された。

佐藤修一先生が率いた最初の全日本での自由曲はバッハの「トッカータとフーガニ短調」であった。ここですでにバッハを選曲しているのが凄い。吹奏楽コンクールでバロック音楽の極みのような曲を演奏するなど、よほどのスキルと度胸がいる。佐藤修一先生の時代の自由曲は以下、ムソルグスキー交響詩「禿山の一夜」、A.リードの「パッサカリア」、スメタナの連作交響詩「わが祖国」より「第2楽曲 モルダウ」、リムスキーコルサコフの「シェエラザード」より「第2楽章・カレンダー王子の物語」、ムソルグスキー組曲展覧会の絵」より「プロムナード、古城、バーバヤガーの小屋、キエフの大門」、チャイコフスキー交響曲第1番「冬の日の幻想」より「第2楽章」、デュカスの交響的奇想曲「魔法使いの弟子」より、とリードのパッサカリア以外はすべて管弦楽曲であるが、佐藤先生がロシア音楽に強く傾倒していたことがわかる。中でも私が感動したのが、1972年のモルダウである。私が生まれる前の演奏で、音源はOBの方が保存している貴重なものを、運良くインターネットにアップしてくださっていたので拝聴できた。モルダウは個人的に愛聴しており、CDでカラヤン指揮のベルリンフィルで親しみ、その後吹奏楽部でも演奏し、大人になっていろいろなオーケストラから吹奏楽のいろいろな楽団で聴いてきた。スメタナはこの曲を描いた頃には聴力を著しく失っていたが、彼の中では母なる大河モルダウの情景は生涯忘れがたく、源流から河口までの緩急と川音は常に鳴り響いていたに違いないのである。それがモルダウと云う美しく壮大なる楽曲を生み、彼の中に響く音そのものなのである。さまで崇高なる音楽となれば、奏でる管弦楽はもとよりかなりのスキルを要する。まして吹奏楽で演奏することは至難の業である。並の楽団ではよほどの力と度胸がなければ、大概は失敗するであろう。

そんな世界的に超有名なモルダウを1972年の花輪高校吹奏楽部は完璧にやってのけているのだ。あの切なくも優美なるモルダウの主旋律と世界観や壮大さは、花輪高校の吹奏楽においても少しも欠けていない。オーケストラ並のスケールである。それでいて高校生らしい潑剌さも、川面から水しぶきが跳ねるが如くに迸る。私はこの音源を何度聴いたか知れないが、いつも感動する。人を感動させる音楽は千差万別であるが、この時の花輪高校吹奏楽部のモルダウは、そこにいた聴衆全員を惹き込んだに違いない。結果は金賞であった。1972年の花輪高校のモルダウは、日本の吹奏楽の可能性を大きく開いたと私は思う。続。