弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一皇統回帰一

石ばしる垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも

これほど早春の風景を詠み当てた歌はない。また同時に躍動感と歓びに溢れる歌で、じわりじわりと訪れる春の気配、そしていずれダイナミックに展開するであろう春への期待も込められている。清冽な水飛沫には温もりさえ感じ、南風そよぐ中、春の匂いが漂ってくる。暖房器具などない古人にとって冬の厳しい寒さほど辛いことはなく、誰もが春を待ち侘びていた。その気持ちを代弁する歌である。繰り返しこの歌を詠んでいると、私の中にはベートーヴェンの第九が流れてくる。まさしく春の訪れを歓ぶ歌である。詠人は志貴皇子志貴皇子天智天皇の第七御子で、施基、志紀、芝基とも書く。志貴皇子は天武系の皇統が盛期の間は、息を潜めるようにじっと領地に引き込まれていた。いわゆる「吉野の盟約」を頑なに守り、他の御子たちのように天下も栄誉も望まれず、野心を見せずに欲がないと周囲に思わせたことで、血筋を絶やさずに済んだ。これが結果的に功を奏したことになる。

生涯独身であった称徳女帝に子はなく、天武朝の皇統がここで途絶え、代わって志貴皇子の子、白壁王が平城京へ迎えられて光仁天皇として即位された。天武天皇以来、持統、文武、元明、元正、聖武孝謙淳仁、称徳とおよそ百年続いてきた天武系は、奇しくも同系の争いによって皇統は途絶え、天智系に回帰するのである。しかし志貴皇子自身は、主要な官職に就くこともなく、専ら文化人として生涯を終えられた。名歌も多く万葉集や新古今にも採録されている。その領地は田原野と云って、今の奈良市の東にある田原の里である。また別には京都府宇治田原町のあたりとの説もあり、地理的には鷲峰連山を挟んで一括りの地帯と云ってよく、その領地は思いの外広かったのかもしれない。志貴皇子の陵墓は奈良市田原町の田原西陵で、東に二キロほどのところには光仁天皇の田原東陵がある。宇治田原の大宮神社には志貴皇子が合祀されているが、境内の一部はその御廟であったと云う説もある。志貴皇子の御歌は貴人らしい品の良さとか、教養高い文化人の香りは一切みせないところが、その御歌に触れる者を惹きつける気がする。極めて人間らしく、兄弟想いでありながら、内心の忸怩たる悲運を嘆く様も、少しばかり垣間見せる。

むささびは木ぬれ求むとあしびきの 山の猟夫にあひにけるかも

この歌は兄宮の大友皇子への挽歌とも云われる。壬申の乱で非業の死を遂げた兄宮を罠に嵌ったムササビに重ねたのであろうか。それが本当ならば洞察はさすがのもので、繊細で優しい心と透明な眼で浮き世を見つめていた。

采女の袖ふきかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く

藤原京より旧都飛鳥浄御原宮を偲んだと云われる。まことに哀調な歌である。古京への挽歌としては柿本人麻呂がかつて大津京を偲んだ歌、

淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば 心もしぬに古へおもほゆ

と双璧を成すであろう。飛鳥にはこの歌の歌碑が建っているが、皇子が改めて飛鳥へ赴いたのではなく、静かな田原の領地にて遠い都を偲んだのではないかと私は思う。それは飛鳥でも、藤原京でもなく、この時の都である平城京ではなかったか。ストレートに表すことを憚り、わざわざ古京の飛鳥を充てたのだとすれば、異常なほどの気遣いであるが、要らぬ詮索を免れるためには致し方なかったと思う。

葦辺ゆく鴨の羽交に霜降りて 寒き夕べは大和しおもほゆ

自分の運命を受け入れながらも、静かなる怨嗟を感じなくもない。平城京から一山隔てた田原の里に引き篭もっておられたら、時には鬱々たる気分の日もあったであろう。

志貴皇子天皇に即位はされなかったが、皇位継承の歴史を鑑みるとき、今に続く皇統として、極めて重要な存在であるゆえに、あえて取り上げることにした。 志貴皇子薨去されて五十年あまり後、白壁王は光仁天皇として即位され、その皇統は今上天皇まで連綿と続いてゆくのだから、志貴皇子ご自身も彼の世で驚いておられるのではあるまいか。光仁天皇は父君に春日宮天皇追号を贈っている。また領地である田原の里から田原天皇とも敬称された。

光仁天皇志貴皇子の第六御子で、白壁王と呼ばれた。  隠棲した父とは違い、都へ出て、少しずつしかし順調に官位を昇っていった。世は皇統が変わると予測して白壁王を必要としたのだろうか。白壁王は実務にも長けており、光明皇后の葬儀では葬場造営の責任者である山作司(みやまつくりのつかさ)を務めたり、称徳女帝の紀州巡幸の際には、供奉の責任者たる御前次第司長官(みさきのしだいしちょうかん)を務めた。神護景雲四年(770)八月称徳天皇崩御されると、参議藤原百川の主導で、左大臣藤原永手内大臣藤原吉継らと結託し、白壁王は皇太子に立てられた。道鏡時代に辛酸を舐めた藤氏には天武系に対してのアレルギーが生じており、怨恨と警戒も大いにあったに違いない。称徳女帝子飼いの右大臣吉備真備らはあくまで天武系にこだわり、天武天皇の孫で臣籍降下していた文室浄三を推挙したが、浄三はこの時すでに七十八歳、今ですら高齢で、当時にしたら仙人のような存在である。無論、浄三自ら皇嗣になることを辞退している。これにて白壁王が光仁天皇として同年十一月に即位され、宝亀改元、御年六十二歳であった。これまで何度も述べてきたが、飛鳥時代から奈良時代にかけては皇位継承は命懸けであった。一方を排除して骨肉の争いを繰り広げた結果、嵐の外で息を潜めていた老年の文室浄三や白壁王しか残っていなかった。何とも皮肉なことである。皇族の男子に生まれた者は皆、いつ何時命を狙われるかも知れず、戦々恐々と生きてゆかねばならなかった。刃を上を歩くが如く慎重に。光仁天皇は七十三歳で崩御されるまで、道鏡を失脚させ、藤原氏の権門復帰を後押しし、寺院、僧尼の統制し南都仏教界と政治の癒着から乖離を試みる。さらに管制や地方行政を改革し、蝦夷のことも棚上げにせずに真剣に取り組もうとされた。

一方、妃であった井上内親王は皇后に冊立され、その御子である他戸親王が皇太子に立太子されたが、 皇后と皇太子は、天皇を呪詛したという疑いで位を剥奪される。これには藤原氏の陰謀説がある。代わりに皇太子となったのが山部親王、後の桓武天皇であるが、山部親王を強く推挙していたのが他ならぬ藤原百川であった。藤原百川藤原式家二代目で、白壁王の頃から光仁天皇の腹心であった。光仁天皇は穏健な性格で、橘奈良麻呂の乱恵美押勝の乱に関与した者の流罪を解いたくらいであるから、井上内親王他戸親王を追い込んだのは藤原氏に違いない。光仁天皇大和朝廷最後の天皇だが、その政治はクリーンなものであった。この後を継ぐ桓武大帝への下地は光仁天皇によって整えられたと言ってよいだろう。

さて、去る十一月十四日の宵の口から、十五日の未明にかけて令和の大嘗祭が滞りなく行われた。その大嘗宮が、今、一般に公開されている。先日、私も見学してきた。大嘗宮は皇居東御苑江戸城本丸御殿跡地に造営されている。平成の大嘗宮もここに造営された。それにしてもあれほど装飾を排した建築を私は知らない。大嘗宮を取り囲む周壁には無数の椎の葉が結界として嵌め込まれ、回廊や殿舎の入口は白布で覆われている。大嘗祭については前回も書いたので詳細は省くが、天皇陛下は向かって右の悠紀殿、続いて左の主基殿において、厳かに大嘗宮の儀を執り行われた。大嘗宮は大嘗祭のためのみに造営されるが、江戸時代までは僅か五日で造営されたと云うから、今より遥かにこじんまりとした規模であった。明治時代の登極令により、大正の御大典からは大規模な大嘗宮が造営されるようになる。此度は悠紀殿や主基殿の屋根を茅葺きから板葺きにし、一部の建物がプレハブになるなど、大正、昭和、平成よりもずっと簡素になっている。一生に一度かもしれないゆえに、冷たい雨が降り頻る中でも、多くの人が来苑していた。このあと大嘗宮は破却されて、奉焼されるが、ここにも日本人の信仰と祈りの原点のひとつを見る思いがする。