弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

熊野三山巡拝記

熊野の名は山の奥深い国と云う意の「隈の処」に由来すると云われる。熊野は遠い。今でも東京からは一日がかりである。長年行きたかった場所。しかしなかなか機会が来なかった。というよりも機会を作れずにいた。私に時間と金が有ればすぐさま行くが、熊野行きにはしっかりと準備をし、それには私の覚悟も必要だった。結果、知識だけはやたらと増えてしまい、募る想いは弾けそうなほどであった。今年、新天皇が御即位され、令和改元の折、私は天皇と日本史を総浚いしている。この機会に皇室とも縁があり、日本人とその信仰を語るべくでも欠かせない熊野へ思いたって出かけることにした。

かねてより私は、はじめに伊勢へ詣でて、熊野三山を巡拝し、那智青岸渡寺から西国三十三所観音巡礼を発願したいと思っていた。伊勢にはこの夏前に参拝を済ませていたので、今回は前日に名古屋に入り、翌朝早くに名古屋から特急南紀で新宮まで行って、新宮からはバスで大辺路那智へ向かい、那智からは中辺路を本宮へ行くと云うルートをとった。伊勢からツヅラト越えで熊野へと至る。ツヅラト峠は伊勢と紀伊の国境にある峠である。ツヅラトとは九十九折のことで、標高は三百五十七メートルだが、急峻で、峠からは熊野灘をみはるかす。この古道は石畳や石垣もよく保存されている。徳川時代に荷坂峠が拓けて伊勢から熊野への本道となった後も、ツヅラト越えは残ったのは、土地の人々には信仰と生活が結びついた大切な道であったからに違いない。

この日は九月初旬の台風一過で、全国的に猛暑であったが、熊野は意外にも涼しくて、海岸線は海風が心地よい。新宮駅に着いたのは昼近くであった。新宮は駅からすぐの町中にあるが、一歩境内に入れば別天地の静けさで、さすがに創建年さえわからないと云う大社の荘厳な雰囲気は、今日でもまったく失われてはいない。新宮の元宮は近くの神倉山にある神倉神社で、ゴトビキ岩と云う巨巌が御神体となっている。ゴトビキ岩こそが神の磐座であり、神倉も磐座が変化したものであろう。熊野速玉大社はこの元宮に対しての新宮であり、熊野本宮に対しての新宮ではない。いつの頃か現在地に遷宮されたが、その年代も良く分かってはいない。このよくわからないと云うところが、熊野三山の魅力のひとつだと私は思う。そこに日本人の信仰の神秘を感じる。新宮は熊野灘が目と鼻の先にあり、潮の匂いも漂ってくる。そのせいか全体にとても明るい印象で、実際、あざやかな緑と朱の社殿が、ひなたの空と森に照り映えて美しい。南紀の暖かく爽快な明るさが新宮にはある。熊野川も河口のこの辺りは、ゆったりと雄大に流れている。

南紀の海岸は至るところに巨巌巨石が露出している。獅子岩橋杭岩、円月島や花の窟神社の巨岩壁、そして神倉神社のゴトビキ岩。このあたりの日本離れした風景には圧倒される。そのスケールは半端ではなく、世界遺産に選ばれたのも、この壮観な景色と信仰が結びついているからに他ならない。それは日本人が代々紡いできた信仰の形であり、途中で仏教が入り混じっても、びくともせぬ信仰心であった。そればかりか仏教的な思想をもうまく習合して、神仏混淆と云う世界の宗教史的にも類を見ない複雑怪奇な信仰を生んだ。熊野はその先駆けであって、徳川時代が終わるまで神仏混淆の中心であった。熊野は神仏をまとめて最強の霊力を得たのだ。そして熊野によって神仏も結束し、日本人の信仰の形を育んだのである。ゆえに人々は熊野へ引き寄せられる。

俗に「蟻の熊野詣で」と云われるが、熊野を参詣する者に貴賎の別はない。皇族や貴族の参詣は記録に残っているものも多く、ピークは平安時代中頃から鎌倉時代にかけて。中でも後白河院の熊野参詣は群を抜いており、生涯で三十四度も来られている。京都から御徒でひと月、三山を巡拝して、帰洛されるには二ヶ月以上を要した。今でも遠い熊野に、これだけ脚繁く参詣されたのは、熊野に対する並々ならぬ信仰に他ならず、ついには京都東山に新熊野神社を勧請するに至った。新熊野神社平清盛が金を出して建立された。三十三間堂と同じである。「新熊野」と書いて「いまくまの」と呼ぶ。神社からほど近い泉涌寺には、今熊野観音があって、西国十五番の札所になっているが、ここは弘法大師が開いた寺で、京の熊野と呼ばれ信仰を集めていた。後白河院は、この地に新熊野神社を建て、新熊野神社別当寺として、蓮華王院すなわち三十三間堂の建立を発願された。源頼朝に「日本第一の大天狗」とまで云わしめた後白河院のこと、ただの厚い崇敬だけではあるまい。ここまで熊野に執着されたことには、別の理由もあったと私は思う。源平を巧みに利用した後白河院は、一筋縄ではいかぬ。熊野を信仰をする山伏、木樵などの山人、那智を信仰する漁師を味方にするためのご機嫌とりであったかもしれない。熊野に古くからいる豪族や野武士、そして当時最強との呼び声高き熊野水軍を手名付けて、味方につけることではなかったか。

後白河院が編んだ梁塵秘抄には次の今様がある。

熊野へ参らむと思へども 徒歩より参れば道遠し

すぐれて山峻し 馬にて参れば苦行ならず

空より参らむ 羽賜べ若王子

いかに熊野が遠くて、熊野詣が遥かなる旅路であるかを如実に示す今様である。空路で南紀に行ける二十一世紀でも熊野は遠い。

若王子は熊野の神の御子の意で、九十九王子(くじゅうくおうじ/つくもおうじ)とも云う。王子は熊野の参詣道に点々と祀られていて、紀伊路から中辺路に大小の社や祠がある。九十九とは実数ではなく、王子の数の多さを示している。九十九王子は鎌倉後期から南北朝時代を挟み室町初期まで、皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手になるもので、参詣者の守護が祈願された。同時に熊野への確かな道標であり、一社、一社と辿るうちに禊をし、精進潔斎しながら、三山巡拝に備えることができた。否が応でも熊野詣での気分は高まったであろう。九十九王子紀伊路と中辺路の沿道に限られるのは、京都から皇族や貴人が頻繁に往来したことから、当然だと思う。修験者たちが熱心に王子社を盛り上げたのは、貴人からの寄付や寄進を当て込んだものに違いない。ちなみに大辺路にも王子の社があるが、中辺路の王子とは由来が別とされ、九十九王子には入らないそうだ。これは紀伊路と中辺路、伊勢路と中辺路が熊野の表参道であることを示している。後白河院ら皇族や貴族は紀伊路から中辺路を経て熊野本宮へ詣で、熊野川を下って、新宮、那智へと巡拝したのだろう。

それにしても紀伊半島は広大である。たしかに半島としては日本一大きい。しかし地理的にはその大きさは決まっている。それでも熊野は最果てのない宇宙のように感じる。熊野を思う時、熊野は宇宙となる。いまだに膨張を続け、あたかもブラックホールの如く謎に満ちている。聖なるラビリンス熊野。巡拝の道は幾筋もあるが、京都から行く場合は紀伊路を経て大辺路か中辺路を辿るルートが一般的であった。他にも高野山から熊野本宮までの小辺路、伊勢を経由して伊勢路から中辺路と云うルートは徳川時代に江戸から参詣する者が歩いた。さらには、吉野から大峯山を縦走して熊野へ詣でる大峯奥駆道があるが、これは修験者の道であり、もっとも険しく、過酷な道である。途中には果無峠なる深く長い山道もあり、いかにも熊野が日本のあらゆる霊場の奥之院といった感じさえする。

 私はいよいよ那智へ足を踏み入れた。那智の滝を拝みたい。この日、私の積年の願いがついに果たされたのである。そしてもうひとつが西国巡礼を第一番札所の青岸渡寺から発願することであった。 誠に罰当たりなことだが、実は熊野三山巡拝は西国巡礼のついでであった。 が、実際に巡拝をしてゆくうちに、己の浅ましさを痛感することになる。 それは熊野三山の歴史と、熊野詣の先達が積み上げてきた貴賎を問わない信仰の重みに直に触れたからである。 那智大社は天空にある。大門坂から上がれば八百段の石段を登らねばならないが、中辺路の一部という熊野古道は昼なお暗く、それゆえに森を抜けて視界が開けると、誰しも歓声をあげるだろう。ここで我々はいにしえの人々とリンクして、未来の人々とも繋がるのである。隣接する青岸渡寺、そして那智大瀧。神、仏、修験、日本人が古くから拝んできた三つの信仰が何の違和感もなく、全く自然に同居する那智。 方々の寺社へ参詣してきたが、こんなに心が晴れ、魂を揺さぶられた場所はない。日本人の信仰の原点は熊野にあり、那智に極まるとさえ思った。

青岸渡寺の三重塔まで、 滝の音は響いてくる。 ここまで来たら、滝壺まで近づいて、 真下より伏拝したい。 昼なお暗く、歩き難いこと夥しい古道を、 ひたすら滝を目指した。  滝の轟音は那智全山にこだましているが、 御神体はなかなか姿を現さない。 汗だくになりながら、ついに飛瀧神社の鳥居をくぐった。 とたんに全身冷ややかな風に包まれる。 那智の瀧は、根津美術館に蔵されている「那智瀧図」を拝見して以来十年あまり、積年の憧れである。 御神体の圧倒的な迫力に、手を合わせるのも忘れて、 暫時、茫然としてしまった。 ここは私が日本で一番来たかった場所なのである。 とうとう参拝した。感無量であった。

最後に那智から本宮へ向う。たださえ隠国の熊野三山。その最深部に本宮は在る。霊峰に囲まれた彼の地へは、中辺路を辿った。 熊野川が見えてくると急に視界が明るくなり、狭隘が少し開かれた場所に本宮は在る。まるで御釈迦様の掌の中にいる様のところだ。 本宮は全国に三千以上もある熊野神社の総本社なのに、近寄り難さは微塵もなく、凛とした佇まいがまことに清々しい。それでいて荘厳かつ神さびた社には大いなる力を感じたし、静かな参道も私好みであった。 唯一目立っている八咫烏も親近感を抱かせる。 本宮はかつては熊野川の中洲に在ったが、明治二十二年の洪水で流されてしまい、現在の高台に遷宮された。元宮があった場所はモニュメントとして残されて、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれている。平成に建立された日本一の大鳥居が立っているそこへも行ってみたが、すぐ側を流れる熊野川から清らかな風が吹いてきて、心身が浄化されてゆくのをしっかりと認識した。

熊野が聖地としてあり続けたのは、伊勢に近いこと。次に吉野や高野山を後背し、眼下には補陀落の海が開け、仏教と深く結びついていること。さらには京の為政者や、紀州尾張、藤堂藩などの大いなる庇護を得られたことではないかと私は思う。私が感じた熊野三山の印象と云うのは、新宮は海、那智には空、本宮には山、同時に新宮には光明、本宮には陰影、那智にはその両方を感じた。三山を昼に照らす太陽と夜を照らす月が、その時に吹く風を呼ぶ。実は、東京でも探してみれば熊野と同様に感じ得る場所はあるのだと思うが、普段はまったく気づけないでいる。熊野はそれを自然に呼び起こし、体感できるところである。五感がこれほど研ぎ澄まされる場所はない。

熊野三山はそれぞれ、新宮が前世の罪を浄め、那智が現世の縁を結び、本宮が来世を救済するとされる。三山を巡拝すれば過去、現在、未来の安寧を得られると云う。この考え方は仏教と深く結びついている証拠であり、輪廻転生、蘇りの思想ともつながってゆく。実際、本地垂迹では熊野三山の神々は熊野権現となり、新宮の熊野速玉大神は薬師如来那智の熊野牟須美大神は千手観音、本宮の家都御子大神は阿弥陀如来となっている。

私は今まで雑多に様々な寺社を訪ねてきた。信心よりも、歴史的興味が優っていたが、熊野へ来てそれが少し変わり始めている。これからも方々の寺社を訪ねる旅は続けるだろう。が、私の拠り所となるのは熊野権現となりそうだ。熊野へ来て、熊野へ帰りたい。 そんなふうに思ったのは此処だけである。それにしても熊野は遠い。果てなく遠い。