弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

青春譜〜野庭高校の灯〜

野庭高校をご存知であろうか。今は近隣の横浜日野高校と統合して、神奈川県立横浜南陵高等学校となっているため、野庭高の名は忘れられつつあるが、かつて野庭高は吹奏楽の名門校として、吹奏楽関係者やファンには有名であった。そして今は野庭高吹奏楽部は伝説として語り継がれている。数年前、「仰げば尊し」というドラマが放送された。舞台はどうしようもない不良高校に、校長のたっての願いで招聘された元プロサックス奏者の寺尾聰さん演じる非常勤教師が、不治の病に冒されながらも、不良たち一人ひとりと向き合い、ぶつかりながら、熱血指導して弱小無名の吹奏楽部を音楽の甲子園で優勝させるというストーリー。この物語のモデルとなったのが、なにおう野庭高校吹奏楽部であり、熱血教師が中澤忠雄先生で、ドラマの原案は石川高子さんの「ブラバンキッズ・ラプソディー」と云う野庭高校吹奏楽部のノンフィクション作品である。

中澤忠雄先生は昭和十一年(1936)横浜の生まれで、吹奏楽部でチューバを専攻、天理高校から東京芸大へ進まれ、日フィル、読売日本交響楽団でチューバ奏者として活躍されたが、自動車事故に遭い、その後遺症からオーケストラを退団し、横浜の自宅で音楽教室を開いておられた。その指導力は近所で評判となり、やがて横浜でも名だたる音楽教室となっていった。中澤先生の確かな指導力に期待を込めて、当時の野庭高校の校長はじめ教員たちは何とか吹奏楽部の指導をお願いしたいと再三に渡り頼み込み、ようやく中澤先生の了解を得た。中澤先生は周囲の反対を押しきって非常勤教員となった。先生の自宅は野庭高校の近くで、噂は校長の耳にも入っていたのであろう。が、引き受けてから中澤先生と野庭高校の生徒たちの駆け引きが始まる。それまでの吹奏楽部は、あってないようなもので、コンクールはおろか、他にやることがないからとりあえず所属している部員というのがほとんど。一部に中学からの無類の楽器好きが細々と続けているのみ。部員たちは部室や音楽室に顔も出さずに帰るのであった。ほとんどが喫煙や非行は当たり前、それは1970年代から80年代、校内暴力や暴走族などの非行少年少女が出始めてピークになってゆく頃と重なる。形ばかりの吹奏楽部員も二年で引退して、まともに合奏などしたことはなかった。そこへ中澤先生はやってきたのである。

中澤先生がまず初めにやったことは、吹奏楽の指導ではなかった。生徒一人ひとりと向き合うこと。彼らが何を考えて、どうなりたいかを知ることであった。案の定ほとんどの生徒は吹奏楽に関心はなく、学校にさえ行きたくはないと思っていた。そんな彼らにいきなり音楽をやらしても、うまくゆく道理などない。やる気もないのに、楽しさを得ることなどできないのだ。中澤先生は彼らを面談したり、中には自宅に招いて語らい、時にはともに遊んだりした。今では法律上どうこう問われそうだが、喫煙する生徒からタバコを取り上げることもしなかった。中澤先生は彼らを信頼した。そしてこちらが真剣に向き合えば、彼らもまた真剣にぶつかってくる。徐々に生徒たちは中澤先生に心を開いていった。絶妙なる人心掌握である。だが、そこには嘘がなかった。ゆえに彼らは先生を慕ったのである。半年くらいこうした時が過ぎていった。

或る日、彼らに楽器をやってみないかと話した。ここまでずいぶんと強固な信頼関係を構築していたが、こと楽器のことになると生徒たちは後退りしそうであった。そこで先生は、楽しくやろうと、遊びの延長でも良いから楽しくやろうと伝えた。しかしやるなら一生懸命やろう、自分も共に一生懸命やると言った。コンクールを目指して、一番になろうじゃないかと。元々は半分くらいはやんちゃな生徒たち。負けん気は強かった。彼らが中澤先生に乗っかるのにもう時は要さなかった。先生は楽器の基礎練習からはじめて、楽曲の表現力はもとより、基礎体力作りのために部員たちにマラソンを勧めた。やがて彼らは校内では運動部員よりもマラソンが強くなった。俄然、肺活量は鍛えられてゆく。

中澤先生は彼らの心に点火した。きっかけは中澤先生であるが、メラメラと燃えてゆくのは各々次第。いつのまにか野庭高校吹奏楽部は当たり前の部活動をしていた。練習にも打ち込み、一年後には県大会をいきなり突破して、関東大会でも銀賞を獲得する。が、関東大会の銀賞と云う結果に大いに彼らは悔しがった。そして、次は必ず関東代表を勝ち取り、全日本へ行きたいと強く願った。遥かなる高峰へ、無謀とも思える挑戦であったが、火のついた彼らはもう後ろ向きにはならなかった。そして誰にも止められない。中澤先生はそんな彼らを鼓舞し、煽り、叱咤激励の熱血指導をした。結果、彼らは地区予選を突破し、「吹奏楽の甲子園」とも呼ばれた普門館に行った。今はなき普門館については何度も書いたので省くが、十年ほど前までは、全日本吹奏楽コンクールの舞台であった。彼らは初めての全日本でも気後せずに堂々たる演奏をして、見事に金賞に輝く。中澤先生就任からわずか二年で成し遂げてしまった。演目は課題曲C「カドリーユ」、自由曲はAリード作曲「アルメニアンダンスパートI」であった。中澤先生在任中の昭和五十七年(1982)から平成七年(1995)に、野庭高校は八度全日本へ出場し、六度金賞に輝いている。

野庭高校の奇跡は、日本の吹奏楽界に燦然と残る軌跡である。たった二年で無名から頂点に立った。その音や勇姿はCD化されているし、YouTubeでも聴ける。私が圧巻だと思ったのは、レギュラーコンサートで演奏された、「エルカミーノレアル」。その大音響は凄まじい迫力に溢れ、振幅の広い表現力、音の深さにはただただ感銘を受ける。ライブで聴いたらさぞや鳥肌が立つに違いない。Aリード作曲のエルカミーノレアルは吹奏楽の名曲であり、全楽器が緻密な譜面を奏でる難曲の一つだ。色々な楽団の様々なエルカミーノレアルを聴いたが、野庭高校を超える演奏を私は知らない。中澤先生は平成八年(1996)、六十一歳の若さで旅立たれた。ゆえに前年の全日本吹奏楽コンクールが最後の出場であったが、見事に金賞を受賞し、有終を飾られている。その後も吹奏楽部は存続したが、成績は下降した。野庭高校も今はない。しかし、中澤先生の想いは生きている。平成十六年(2004)野庭高校吹奏楽部OBによって、ナカザワ・キネン野庭吹奏楽団が発足した。楽団は、中澤先生の「野庭の火を灯し続けてほしい」という想いを胸に、年に二回の演奏会を開いている。まことにすばらしいことだ。

どんなに落ちこぼれそうになっても、最善の人が最低限の導きをすれば、若人は自らの意思でもって一気に習熟してゆくのである。それを中澤先生はやった。吹奏楽部員もそれに応えた。野庭の火を灯し続けてほしいと云う中澤先生の想いは、志し在る者から次世代へと紡がれて、あたかも比叡山の不滅の法灯のように灯り続けてほしい。これは吹奏楽を愛する私の願いでもある。

一芸に秀でる。およそ人間に生まれてきたからには、何かひとつでもそうありたい。大半の人がそういう想いを抱いて生きているのではあるまいか。が、なかなかその一芸に秀でることはおろか、一芸や特技、楽しみさえも見つけることが困難でもあり、見つけてもその道が厳しいものであれば、継続して精進することは容易ではない。昨今の時代背景からして、その道がますます険しいものとなった。つまりそれは精進せねばならぬ人間が次第に弱くなっている証でもある。しかし、もしも何かひとつでも、自分が打ち込める何かを見つけることができたならば、その人の人生は途端に意義深いものになる。たとえそれが一瞬であってもだ。青春の盛時にそうして手に入れた輝きは、いくつになっても色褪せることはないだろう。私はそう信じて、今を生きている。二年近く書いてきた私の青春譜も、今回でひとまず終わりにしたい。はじめは懐古的に自らの吹奏楽部での体験をもとに吹奏楽の魅力を伝えたいと思ったが、なんだかとりとめのない未熟な随筆になってしまったことをお詫びしたい。しかし私にとって吹奏楽はかけがえのないもの。これからもファンとして愛聴するであろう。吹奏楽は私の青春の日々であった。青春を思い出すのはブラスの音なのである。完。