弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

西国巡礼記 第一番 青岸渡寺

西国巡礼は日本最古の巡礼と云われる。その発足の起源は諸説あるが、もっとも流布されてきたのが徳道上人の伝承であろう。大和の長谷寺を開いた徳道上人は養老二年(718)病を得て死んだが、冥府で閻魔大王に、「汝は諸人を救うべく本土へ還り、三十三箇所の観音霊場を広めよ」と言われた。その証に三十三の宝印を授かり、蘇生した。三十三は観世音菩薩が衆生を救うべく、三十三の仮の姿に身を窶して現れると云う霊験によるもの。が、甦った徳道上人のその話を誰も信じない。上人は今の世ではまだ早いと諦めて、宝印を播磨の中山寺に埋めてしまう。それから二百七十年あまり後の平安朝の頃、藤原摂関家の専横により若くして即位して、わずか二年で退位された花山院は、世に無常を感じ出家された。御自身にも申すも憚られる不埒な行いが、若気の至りとしてあったことを悔やまれたのかもしれない。仏道に打ち込む決意をされた花山院は、徳道上人の伝承を聞いて、中山寺の宝印を掘り出されて、巡礼を始められた。花山院には西国巡礼を再興するようお告げがあり、生涯を西国巡礼の整備に尽力されることを誓われた。御詠歌も花山院が詠まれたとされている。はじめは院や出家遁世した公家の間で行われた巡礼は、鎌倉から室町へかけて庶民にも広がって、江戸時代にもっとも盛んになった。

巡礼とはすなわち札所を巡ることだが、巡礼と云うことばが先で、霊場を札所と呼ばれたのも花山院である。世界中の宗教に聖地巡礼はあるが、日本ほどきっちりと巡礼を定めた所はないだろう。千数百年の西国巡礼のルートは紆余曲折しており、当初は長谷寺が第一番で、三十三番が三室戸寺であったりした。今のルートに定まったのは、江戸時代のこと。なるほど江戸から伊勢を経て、近畿一円を巡り、美濃の谷汲へ至ればスムーズに帰路につける。西国巡礼の始まりは偉い坊さんで、中興したのは花山院と云う貴人であるが、今に続いてきた巡礼の道は、逞しくも庶民の力で育まれた観音信仰の賜物であった。

私は三年前に坂東三十三所を結願してから、次は西国巡礼に参りたいと思っていた。昨秋、折りよく熊野三山を巡拝した。那智の滝を伏拝して、那智山青岸渡寺から西国巡礼が始まった。それにしても青岸渡寺とは美しい寺名である。江戸時代までは隣り合う熊野那智大社の如意輪堂と呼ばれていた。青岸渡寺と呼ばれるようになったのは、明治の神仏分離令以後のこと。青岸に渡る寺とは意味深であり、何より響きが良い。熊野の眼前には補陀落渡海の海が広がる。渡海の渡りをも意味することは明らかだ。創建年は不明だが、寺伝では仁徳天皇の頃(四世紀)、インドの渡来僧裸形上人を開基とする。裸形上人は印度天竺から布教のため随僧六人と船出したが、嵐に遭い、熊野南岸に漂着した。那智の滝を見つけて修行し、八寸の観音を感得し祀ったと云う。推古朝の頃、大和より生佛上人が来山し、玉椿の大木に丈六の如意輪観音を刻み、裸形上人の感得した八寸の観音様を胎内に納めて改めて祀り、推古天皇より勅願を受けて、正式に寺として発足した。熊野らしく創建や歴史が曖昧模糊としているところが、余計に神域をベールに包んでいるが、大正七年に推古時代の金銅仏が発掘されているので、裸形上人はともかく、生佛上人が如意輪観音を祀ったのは本当であろう。

古色蒼然たる現在の本堂は豊臣秀吉の再建に成るものだが、しっとりとした趣きある建築は、はるばるやってきた参詣者にほっと寛ぎを与える。青岸渡寺の名は、秀吉が母の大政所の菩提を弔うために高野山に建てた青巌寺に由来するとの説もある。 那智熊野三山の一つとしても、那智単独でも上古より神々の住まう地として崇敬され、畏怖されてきた。それはひとえに那智の滝が在るからに違いないが、深い山と目の前の海は、山海の恵みを豊穣にもたらし、人は神からの恵みであると信じたであろう。為政者をも虜にした熊野三山の神力は強力であった。しかし織田信長はちょっと違っていた。公然と神仏を虐げ、権威的にも天皇を超越しようとし、自らを神と称した。あとを継いだ秀吉は、信長が耕したあとの整地に努めた。仏教ともなるべくうまく付き合い、本願寺と和解し、懐柔策をとり、京に寺地を与えた。仏教勢力との唯一の対立が根来衆で、秀吉は紀州攻めにて根来寺や周囲の寺社を焼いた。覚鑁上人を祖とする新義真言宗は、高野山と袂を分かち、紀州にて勢力を拡大し、室町末期には寺領七十二万石と云われるまでになり、それを守るべく多くの強力な僧兵を抱えていた。これには朝廷や戦国大名も手を出せずにいた。しかし秀吉の天下統一への執念はついに根来衆を追い詰め、離散させたのである。この時の戦火で西国第三番札所の粉河寺も、焼けてしまった。秀吉は元より信心深い男である。成り上がりたればこそ、神仏の導きと加護を尊く信じたに違いない。紀州攻めの終戦後、離散した根来衆で降参した者には京都に寺地を与えた。これが後に智積院となっている。熊野や高野山を擁する紀州にも殊の外気を使い、粉河寺を修築し、第一番札所那智の如意輪堂も今の堂宇に再建した。

神仏混淆が色濃く残る此処は、那智の滝を筆頭に、アニミズムと神と仏が三位一体となっており、日本人の信仰の根源に触れる思いがする。本堂には役行者の木像が安置されていて、二人の山伏が法螺貝を吹いて読経していた。朱塗りが鮮やかな社と、古色蒼然とした寺は、老若、或いは生と死を具現しているようにも思えてならない。秀吉を惹きつけた那智は日本人の宗教感、信仰心をもっともわかりやすく体感できる場所である。日本人の信仰の対象は、星、土、水、火、木と五つに大別できる。細かく分ければ、太陽、月、山、海、川、滝、岩石、樹木などキリはなく、竈門から箸にまで八百万すべてに神は宿ると信じていた。だが明治維新から百年ほどは、そうした日本人土着の信仰は軽視され、迷信などと嘯かれた。文明開化、富国強兵、戦後復興、所得倍増の名の下に日本人は努力して大国の一つになったが、結果、日本人にとって日本人たる所以の大切なモノを失ってしまった。科学が正しく人類を導くと信じられたから致し方ないが、今、私たちはかつての日本人が大切にしてきたものを思い出して、一部でも再興するべきではないか。こういう場所に来るとつくづくとそう思わされる。

那智山内を歩いていると、那智の滝はその姿を見えつ隠れつする。とどまることのない轟音は山全体にこだまする。滝は生きている。かほど劇的な聖地は他にあるまい。そのロケーション、遙かなるアプローチ、そして崇拝畏怖の対象として、まったく裏切ることない迫力と荘厳さを、那智の滝は見せつける。この御神体根津美術館に蔵されている国宝『那智瀧図』は完璧なる写実性で捉えているが、神聖で厳かな瀧は、実物の滝からは得難い静けさを持っている。私はこの絵を見て以来、那智や熊野に惹かれ、虜になっていった。昭和四十七年(1972)に再建された朱の三重塔からの眺望は、日本でも五指に入る絶景であろう。三重塔上から滝を仰いでも、さらに高い青岸渡寺の境内から三重塔を俯瞰して、その奥に光る瀧筋を見ても、とにかく絶景と言うより他はない。 那智の滝は、我らの悩み、迷い、煩悩、欲得、怒り、憂さをいっぺんに洗い流してくれる。三重塔から拝する那智の滝は、あたかも一筋の光の道、我ら衆生を極楽へと導く白道にも見えた。

青岸渡寺の御本尊は秘仏だが、御前立ちも妖艶で美しい観音様である。納経し、御朱印を授かる。令和改元を機に私は伊勢と熊野三山へ参拝し、那智の滝を拝んだ。西国巡礼を発願するには今が好機と思い定めた。 千数百年続く日本最古の巡礼について事新たに述べることはないが、私なりに日本を発掘し新発見をしながら、道草の道中になるだろう。決して信心だけではない私は、巡礼に託けて近畿一円を巡るついでに、札所周辺を可能な限り歩いてみるつもりである。ゆえに結願までどれくらいかかるか今はわからない。西国の歴史は西国巡礼を辿れば自ずとわかるであろう。そう信じている。それが私の信心の一方である。とにかく一歩ずつ。西国巡礼発願。

御詠歌   

補陀洛や岸打つ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝津瀬