弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一二所朝廷一

桓武天皇の二大政策は平安京造営と、蝦夷討伐であるが、どちらも道半ばのまま崩御された。この当時では無類である七十歳で大往生。歴代天皇でも長命のほうである。桓武天皇の行った二大政策は、民に重い労役と課税を敷いており、国家は疲弊しつつあった。桓武天皇自身、実はずいぶん前から中止を考えておられたようだが、専制君主として自ら提唱してきた二大政策を自らの意思で止めることは、御自身も周囲も許さなかった。結果、だらだらと来てしまった感がある。崩御される前、腹心の藤原緒嗣に頼み、緒嗣が提唱した形で政策転換が計られた。ついに平安京は完成しなかったのはこうした理由があったからである。東北への派兵も停止し、よってこのあと数百年、みちのくは為政者に従順とせず、徳川時代には少し大人しくはしたものの、それは鳴りを潜めていたに過ぎず、幕末には奥羽列藩が再び官軍に歯向かった。みちのくの独立心はもともとの気質に生じるところが大だが、奈良時代末から平安時代初期にかけての官軍による侵攻に抗したことで、その精神はさらに強く逞しく培われたのであろう。

桓武天皇は三人の天皇の父でもある。すなわち第一皇子の安殿親王平城天皇、第二皇子神野親王嵯峨天皇、第七皇子大伴皇子が淳和天皇となられる。平城と嵯峨は同腹で、母は皇后藤原乙牟漏。淳和天皇桓武天皇の第二夫人とも云える藤原旅子が母である。乙牟漏は藤原良嗣の女で、旅子は藤原百川の女である。乙牟漏は桓武天皇在世中に崩御され、代わって第二夫人の旅子が桓武天皇を支え、後宮に君臨した。旅子は皇后には冊立されていないが、桓武天皇亡き後皇太后と尊称されたことからも、藤原氏を後見に絶大な力を持っていたと思う。皇子たちは順に皇位継承してゆくのだが、偉大なる父亡き後は、早くも奈良朝の昔のように骨肉の争いを展開する。世はまだ流動していた。

平城天皇桓武大帝の背を見て育つも、父を尊敬してはおられないようだ。元来病弱で人格的にも少々難があったとも云われる。政治には無関心で父子関係も微妙であったが、嫡子であり、藤原式家の強力な後ろ盾もあったゆえに祭り上げられた感は否めない。桓武天皇も弟の早良親王廃太子にしてまで、我が子を立太子させたものの、安殿親王に次を託すことは不安であった。寧ろ聡明な神野親王に期待して、帝王学を授けたものと思われる。だとすれば平城天皇嵯峨天皇への中継ぎとしか考えていなかったに違いない。後顧を憂いながら側近にそう遺言したであろう。事実そうなってゆく。

平城天皇は尚待の藤原薬子を寵愛した。尚待とは後宮の女官の詰所である内侍所の長官で、言わば女官長である。当時の尚待は、単なる女官長にとどまらず、天皇と公卿たちの連絡役として、臣下の言葉を天皇に奏上する奏請と、天皇の言葉を臣下の伝える伝宣を独占する権限を有したと云う。天皇の秘書であり、側用人であり、女官でありながら、病弱で薄弱な平城天皇にとってはラスプーチンにもなれたのである。薬子は藤原種継の女で、幼い長女を妃として宮中に上がらせて、自らも共に女官として皇太子になった安殿親王に仕えた。親王の身辺の世話をするうちに、娘を差し置いて親王と深い仲になってゆく。薬子は年齢不詳のところがあるが、おそらく親王より歳上であったと思う。父に疎まれ、早くに母を亡くした安殿親王は、奈良時代より続く血腥い皇位継承にうんざりとされ、優しく奉仕する薬子の母性的な魅力に溺れてゆかれた。或いはそこに菩薩を見たのではあるまいか。一方で薬子は藤原北家の台頭を危惧して、実家の式家の復権を目論んでいた。兄の藤原仲成を重用するように親王に頼んだのも薬子であった。ここまでは確かではないかと思う。しかし、このことが父帝の怒りを買い、薬子は尚待を解任された。延暦二十五年(806)三月に桓武天皇崩御され、安殿親王践祚改元して大同元年五月平城天皇として即位。これ以降、即位に先立って践祚を行ない、その後に即位式を行うことが慣例となる。薬子を尚侍として復職させ、薬子の夫藤原縄主を従三位に昇進させ大宰帥として九州に赴任させた。平城天皇は父帝の政策転換を指示している。造都と征夷で財政難となった朝廷を立て直すべく、緊縮財政と民力の休養に努めて、官司の統廃合や年中行事の停止、官人の適切配置、中下級官人の待遇改善を図った。また畿内及び七道に天皇直属の観察使を置き中央集権的国家を目指し、参議制も廃止して、律令制に則った小さな政府を目指した。さらに十五条憲法の制定や酒造禁止令を発するなど矢継ぎ早に改革を急いだ。これには仲成や薬子の入知恵があったことは明白であるが、わずか三年と云う短い在位中に必死で舵取りをされようとした平城天皇のこうした事績は、いかにも急ぎ過ぎた改革であり、かえって哀れな印象すらある。

病身の平城天皇には皇位に在ることは荷が重すぎたであろう。大同四年(809)、皇太弟の神野親王に譲位され上皇となり、神野親王嵯峨天皇として即位された。はじめご兄弟の仲はよくて、互いに信頼しあっていた。嵯峨天皇上皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。同年暮れ、上皇は旧都である平城京に移御されると、奈良の帝と呼ばれ、のちに平城天皇追号された。が、そもそも仲成と薬子兄妹は譲位に反対していた。この兄妹が、太政官人半分を率いて平城京へ還都し、南都にて改めて政を行うことを平城天皇に強く迫った。平城天皇重祚を画策したのである。ついに大同五年(810)九月六日、平安京より遷都すべからずと云う桓武天皇の勅を反故にして、平城京に宮殿を新造し、政務をとらんとしたのである。これを当時「二所朝廷」といった。上皇天皇が並立することで、権威権力が二分し、側近たちが政の主導権を握るべく権謀術数を企図することは、このあと平安時代から南北朝時代にかけての数百年繰り広げられるが、その源流はまさにここ「平城上皇嵯峨天皇」から始まったのである。

上皇方のクーデターを事前に察知していた嵯峨天皇方は、九月十日に薬子の官位剥奪と、尚待の権限を縮小し、天皇と公卿の連絡役として新たに蔵人所を設置、蔵人頭には北家の藤原冬嗣を任命した。この蔵人所は後々まで平安王朝において、天皇の秘書官として時に摂関や公卿らを抑えるほど絶大なる力をつけてゆく。上皇方はこれに応じて翌十一日に挙兵し、薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂率いる軍勢に遮られて断念、翌日、平城京に戻った。クーデターは失敗したのである。田村麻呂はこの頃には朝廷の武門の最高指揮官であり、武神の如く崇められていた。田村麻呂の力を上皇方も欲し、平城京還都に追従するように誘い、造営使に任命した。田村麻呂もいったんは乗る気配を見せたが、結局は嵯峨天皇の命に背くことはしなかった。田村麻呂ほどの賢明な武人ならば、どちらが義であり有利かははじめからわかっていたに違いなく、上皇方に敬意を表すフリをして、嵯峨天皇政権の転覆を謀る輩を十把一絡げにしようと一芝居打ったのであるまいか。上皇は自らに付き従う貴族がいないとわかると、直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒し自害、仲成も殺害された。高岳親王は皇太子を廃され父に続いて出家し東大寺に入った。代わって上皇天皇の異母兄弟である大伴親王、後の淳和天皇が皇太子に立てられた。これが薬子の変と呼ばれるあらましである。これにより藤原式家は衰退する。

 その後も平城上皇平城京にとどまり、太上天皇の称号はそのままとされ、嵯峨天皇行幸も受けている。また大宰権帥に遷された阿保親王廃太子高岳親王の二人の皇子にも四品親王の身位を許されるなど、相応の待遇は保障された。嵯峨天皇が兄帝に対して深い情をかけられたのも、母を同じくする単なる兄弟愛のみならず、自らも同じ運命を背負われていると感じておられたのかもしれない。失意の平城天皇はその後十四年生き存えられ、天長元年(824)七月七日、五十一歳で崩御された。

しかし、最近の研究ではこの事件も藤原北家による陰謀の可能性ありとの説もある。事実、薬子の変以降、不穏な情勢の中、藤原北家は冬嗣から良房の時代に大躍進を遂げてゆくのである。