弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

西国巡礼記 第三番 粉河寺

大和と河内の国境になだらかにどっしりと横たわる葛城金剛の峰々。巡礼バスの車中から、折しも夕陽に照り映えたこの雄大な山塊を飽かずに眺めた。なんとも神秘的な印象で、上古より神山と崇められたと云うわけが、ここへ来ればはっきりする。私は河内の南側から眺めたが、あの山の向こうには吉野があり、高野山がある。葛城金剛のあたりは、山の神を頂点にした土着の神々、修験道真言密教、観音信仰が縦横に混在する。言ってみれば信仰のスクランブル交差点のような場所である。

その真ん中を貫く様に紀ノ川が流れている。大台ヶ原に源を発する紀ノ川は土地と民を潤し、時には暴れ川となって恐れられた。紀州は雨の多いところなのは周知だが、その雨雲を発生させ、紀伊半島全土に送るのが大台ヶ原である。そこから流れ出でる紀ノ川は大和では吉野川と呼ばれ、紀州に入り紀ノ川と呼ばれる。吉野、高野、葛城、金剛の名だたる山麓を曲折しながら、吉野川から紀ノ川になるとゆったりとした流れになり、紀伊水道へと注いでいる。紀ノ川もまた信仰の対象であったと思う。紀ノ川は上下に人、物、文化を運んだ。流れに沿って数多の寺社が点在することがそれを物語る。

このあたりは高野山が近いことから、弘法大師真言宗に関わる寺が多いが、なかで新義真言宗の本山根来寺は有名だ。粉河寺は元は天台宗で、今は粉河観音宗の本山となっているが、この根来寺との関わりも深い。藤原時代から広大な荘園を領した粉河寺は、根来寺高野山と比しても劣らぬ僧兵を抱えていたのである。三山は互いに牽制しあいながらも、時に為政者に立ち向かうべく一時的な同盟を結ぶこともあったかもしれない。

粉河寺は古くから貴賎を問わずに信仰を集め、また憧れの地となっていった。枕草子梁塵秘抄平家物語義経記にもその名が語られる。高野山を本拠とし、吉野を愛した西行も度々訪れ逗留した。都よりやって来た旧知の女房を案内したこともある。「西行物語」では西行が発心出家した後、妻子は高野山麓の天野に住んだとされ、だとすれば西行も時折顔を見にいったであろう。或いは親子連れ立ち粉河寺参詣もあったかも知れない。余談だが、西行が終焉地として選んだ弘川寺もさほど遠くはない。紀ノ川の周囲には西行の足跡が数多ある。西行妻子の暮らした天野とは、紀ノ川南岸の周囲を小高い山に囲まれた桃源郷のような場所であるとか。高野山を含む一帯の産土神である丹生神社は、紀州に七十あまりもあると云うが、その総社が天野に鎮座する丹生都比売神社(天野大社)である。私はまだ天野に行ったことはないが、白洲正子さんの「かくれ里」に詳しく書かれており、いつか行ってみたいところである。

粉河寺には二つの縁起がある。昔紀州に大伴孔子古と云う狩人がいた。ある日孔子古は山中の谷に不思議な光を発する場所を見つけた。聖なる光の導きと思い、そこに庵を結んだ。すると孔子古の家に一人の少年が現れ、一夜の宿を求めた。孔子古は快くもてなし、少年は宿を借りたお礼にと言って、七日かけて千手観音の像を刻んだ。八日目の朝、少年の姿はなく、金色の千手観音の像だけが残されていた。少年は童姿の行者すなわち童男行者であった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになる。また或る時、河内国の長者の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童男行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが、童男行者は受け取らず、娘の提鞘と緋袴だけを受け取り、「紀伊国那賀郡粉河におります」と言い残して立ち去った。長者一家が粉河を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、童男行者が観音の化身であったことを知って出家し、孔子古とともに信心して、粉河寺の別当になったと云う。京都国立博物館に蔵されている国宝「粉河寺縁起」にはこの霊験夢譚が描かれているが、絵巻は焼けて黒ずんだ部分があり、火災の度に必死で持ち出したのであろうと思う。粉河寺の縁起は絵解きであるが、絵巻自体がこの寺の歩みの真実をまざまざと教えてくれる。

 紀ノ川の中流の北岸に蹲る粉河寺。ここへ辿り着くまで、こんな大きな寺があるとは想像出来ない。静かな集落に、突如、朱塗りの大門が現れ、参道は長屋川に沿って右にゆったりとカーブする。長屋川は「粉河寺縁起」に”粉をすって入れたような”とあり、昔は米の研ぎ汁のような白い川だったらしいが、今はとても澄んでいる。 「風猛山」の扁額を掲げる中門も存在感がある。山号は一般にフウモウザンと読むが、或いはカザラギサンとも読む。かつて粉河寺は今よりももう少し葛城山の近くに在って、カザラギはカツラギが転じたものとの説もある。中門を潜れば、美しい石庭の上に、浮かぶように大きな本堂が現れる。西国札所最大の偉容を誇る本堂。全体に重心が低く、私には鳳凰が羽を広げ、今にも飛び立とうとしているように見える。山門からここまで完璧なアプローチだ。ダイナミックな弧を描くような参道は、紀州の寺ならではと云う気がする。

創建は宝亀元年(770)。往時は七堂伽藍、僧坊五百余りを有する巨刹であったが、豊臣秀吉紀州攻めで灰燼に帰す。天正十三年(1585)、関白宣下を受けた秀吉はいよいよ天下統一の最終仕上げにかかる。自らに逆らう勢力はすべて排除するか、軍門に降らせようと目論んだ秀吉は、紀州のみならず、同時に四国の長宗我部にも戦を仕掛けている。これにより近畿一円とその周囲に秀吉の敵は居なくなって、後、九州を平定し、関東と陸奥を制圧する足がかりとしたのが、紀州攻めであった。さしもの粉河寺もこの時ばかりは風前の灯となったが、しかし廃寺にならなかった。その救いとなった要因には西国巡礼の札所であることが実に大きい。江戸期に紀州徳川家の庇護を受け、現在の諸堂は八代将軍吉宗の時代に再建された。この不死鳥の様な本堂には、札所を復活させたいと云う人々の、積年の信仰心も込められているように思う。

参道に沿って整然と堂宇は並ぶ。不動堂、羅漢堂、本坊、善男堂、出現池、念仏堂、太子堂、千手堂、地蔵堂、丈六堂、薬師堂、行書堂、粉河寺は今でもかなりの大寺院である。本堂の前には西国三十三観音が一度に拝せる六角堂もある。こうした便利は忙しい現代人向けの寺側の心遣いなのだろう。西国巡礼や板東巡礼の寺にはよく見かけるが、それにしても粉河寺の三十三観音はとても立派なもので、拝むだけではなく、一体一体をよく拝観する価値はある。本堂裏には粉河産土神社が鎮座し、聖地としての歴史はこちらが先であろう。祀られているのは丹生都比売命と天忍穂命で、古くから土着信仰がこの土地にしっかりと根を下ろしていたことがわかる。産土神社のさらに奥には十禅律院と云う寺がある。十禅律院はかつては粉河寺の塔頭だったが、江戸後期に紀州藩徳川治宝によって分派され、今は独立した寺である。境内は破れた壁があったりして閑寂としている。巡礼者も観光客もここまでは上がっては来ないようで、秋風が冷たく吹いている庭にいると、何度も焼けたと云う粉河寺の経て来た歴史が彷彿として浮かんでくる。 本尊は秘仏であるが、秀吉の戦火の折に焼け落ちた仏頭が、かつての本尊かそのお前立ちであったと云う説もあり、大切に守られている。

粉河寺は参拝作法が厳しい。昨今の巡礼ブーム、ご朱印ブームで各地の霊場は文字通り蟻のように行列ができているところもある。本堂へお参りもせずに納経所へまっしぐらという人もいるが、粉河寺ではきちんとお参りをしないとご朱印をいただけない。ましてや巡礼者となれば、しっかりと本堂で観音経と般若心経をあげてから札を納め、納経所へ並ぶ。ほとけさまや寺に対する礼儀礼節をわきまえるということは、本来当たり前のことであったが、薄れつつある今、粉河寺の示す姿勢には大いに賛同する。かく申す私も普段だらしない生活をしているから、偉そうなことは言えないが、こうして寺へお参りして正気を取り戻している。どこまでも観音さま頼みである自分が、巡礼を続けてゆくうちに果たして変わってゆくのだろうか。今のところはまったく。本堂の下から中門の向こうを飽かずに眺めた。入日が照らす参道は白く光って見える。この門を潜れば、また俗世へと戻る。境内には楠の大木があり、ソテツがあり、蜜柑や梅干しを売る店があり、南国の寺らしい趣き。都人は花の粉河寺に憧れた。古くからの桜の名所。  

御詠歌

父母の恵みも深き粉河寺 ほとけの誓ひたのもしの身や