弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

麒麟を待つか、麒麟を呼ぶか

 今年の大河ドラマのタイトル『麒麟がくる』は秀逸である。麒麟とは中国の神話に登場する伝説上の霊獣で、全体は鹿のようで、牛のような尾と、馬のような蹄を持ち、頭の上に角が一本、体毛は五色に輝いているそうで、理想的な政治が実現した時にのみ現れると云う。果たしてこれまで麒麟が現れる様な世が来たことはないのだろうが、少なくとも第二次大戦後の七十五年間、我が国日本は他国と武力によって争うことをやめたおかげで、戦のない平和な世界を実現した。ある意味において理想的な時代であった。そのおかげで経済大国となり、世界に誇る技術大国にもなった。ゆえにか、いつのまにか平和という二文字を実感することさえ忘れてしまった様である。戦後日本が麒麟が現れていたと云うことに当て嵌まるのかはわからぬが、幻想と虚構の狭間を生きているのが我々であるとすれば、麒麟はとうの昔に去っていったのかも知れない。

緊急事態宣言が出ても爆発的に拡大はせずとも、現時点では減少どころか横ばいにも転じてはいない。私は新型コロナウィルスは一年や二年で終息はしないと思う。見えないウィルスを治めることなど、これだけ世界中に拡散した今となっては無理であろう。私は常に悲観的に物事を見るようにしているが、とてもこのウィルスを封じ込めることなど不可能とも思う。伝染病に抵抗することを止めない人間はいつか特効薬とかワクチンを開発するであろうが、その日が来るまで、我々の戦々恐々とした日々は終わるまい。都知事は自粛疲れはまだ早いと言うが、それは本当であると納得しながらも、事実心身が疲弊しているのだ。日本は世界と比べてもギリギリのところで爆発を抑えてはいるが、もういつ破裂しておかしくないのは共通の認識と思う。日本人の律儀さは先祖代々の専売特許であるが、その律儀さは脆さと同居しているのであって、秩序を重じるんがゆえに束縛を嫌うのである。だからこそ崩壊する時は一気であろう。流され易い国民性もまた危うい。

思えば人類の最大の敵は感染症である。人類の歴史は伝染病や感染症との戦いである。昔の人は見えぬ敵を悪魔とか鬼の仕業として恐れ、或いはまた神罰として慄きながらも畏怖した。例えばコレラも未だに猛威をふるうが、この病は幕末に日本にも入ってきた。感染経路は清国から朝鮮半島経由であると云うが、開国して外国人が頻繁に流入してきたり、日本人も海外渡航するようになった為でもあろう。しかし、日本全土に広がるのは不思議に明治維新後なのである。たしかに最初の流行である安政年間は西日本で流行したが、江戸までは達していない。その次の文久年間は逆に江戸で大流行し一説では数万人以上が死んだとも云うが、この時は西日本で大きな流行にはならかなった。ところが明治になると毎年数万人規模で流行し、ついに明治十二年(1879)には十万人以上が死亡している。なぜか?理由のひとつに江戸幕府が設けた関所が機能したおかげとも云う。今のように全国どこへでも自由に行き来できる時代ではなかった。江戸幕府は軍事上名だたる街道には関所を設け、厳しく監視した。ことに江戸近辺では、通行量のもっとも多い東海道の箱根の関所が有名である。箱根関所の検問は恐れられた。西からは武器となる鉄砲が箱根の関所を越えて関東に入ることを警戒し、逆は西へ向う女性を警戒した。俗に「入鉄砲出女」と呼ばれ、細心の注意がはらわれていたと云う。女性を警戒したのも諸説あるが、人質として江戸在住を義務付けられた大名の妻女の脱出を防止するためとも云われる。入鉄砲には老中発行の鉄砲手形、出女には留守居役発行の女手形が必要であった。関所破りは重罪で、必ず磔獄門であった。幕末になると、おかげ参りに便乗した抜け参りや、文久年間の参勤交代の緩和によって女手形もずいぶんと簡素となり、慶応三年にはついに手形無しで関所の通過が許されるようになる。これは事実上の関所廃止であった。しかし、同じ頃に猛威を振るったコレラが、全国に飛び火しなかったのが、奇しくも関所であり、明治のコレラ拡散は関所撤廃の影響があったのならば、ある意味で徳川封建時代の成功の一つであったとも言える。現代人の我々からすれば、関所などいかにも不自由だと想像するが、新たなる疫病の脅威に怯える今、私は必ずしも関所が負の制度だとも思えないのである。無論、新たに関所を設けるわけにはいかないが、先人の智恵をこういうところから少し拝借できないかとも考える。

新型コロナウィルスは我々の暮らしを一変させた。再三述べてきたが、終息までには果てしない時を要するであろう。であるならば、これまで人類が或いは日本人が築いてきた社会の仕組みを見直す好機到来と捉えては如何であろうか。法律、制度、外交、軍事、福祉、経済財政、そして教育。この頃盛んに九月からの新年度スタートへ移行すべきとの議論に沸いている。戦時下を潜り抜けてこられた方々からすれば何ほどのことかと叱られそうであるが、私たちまさに現代日本人がほとんどが経験したことのない今のムードはやがて殺伐とし、戦時下に似通ってくるに違いない。実際に世界情勢を鑑みれば、戦争が起こる可能性も極めて高くなったと言わざるを得ない。時間通り来る電車、それをホームで待つ人々の整列乗車、ゆずりあいやおもてなし、こうした秩序を無意識のうちに作り上げてきたのは代々日本人の誇りであるが、それが根底から覆ってゆくのではないかと危惧している。日本人の律儀さが危きこともあるのだ。であれば、これを機会にまさしく臨機応変に、物事を冷静に見直してゆくことが必要であり、必然であると思う。そうすることで光が見えてくるかもしれない。麒麟がくる時を創造するのは、我々一人ひとりにかかっている。