弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

西国巡礼 第四番 槙尾山

寺名は施福寺と云うが、槇尾山とか槇尾寺とも通称される。西国巡礼屈指の難所で、麓から本堂までは、胸突き八丁の山道を小一時間かけて登らねばならない。槙尾山の標高は六百メートルほどで、施福寺はおよそ五百メートルのところに在る。山としては大した高さではないが、それでも街中の寺からすれば相当な山寺で、一歩参道に入ると深山幽谷の気に包まれており、やはり観音霊場に相応しい場所だ。

京都から巡礼バスに乗って、山麓の駐車場までは連れて行ってくれたので、昔に比べたらそれでも楽なものである。バスを降りるとすぐに登りが始まるが、途中の山門近くまでは舗装された部分も多く、さほど大変ではない。なんだこんなものかとタカを括っていたが、山門の先がまったく違った。山門より奥からが本当の山道の始まりである。ちなみにこの堂々たる山門は豊臣秀頼の寄進だそうで、まわりには楓が多い。紅葉には少し早くて盛りの頃はさぞかしと想ったが、青楓が山門に幾重にも重なるも風情もなかなか良い。参道には至る所に小さな滝があって、滔々たる水音が全山にこだまする。滝の音を伴にして参道を歩くだけで、俗世を離れてゆくと云う気配が次第しだいに濃くなる。身も心も西国巡礼の気分が高まってゆく。それは札所から札所へと「ひたすら無心にゆく」という気分である。この気分は実際に巡礼を始めてみないとわからない。単なる憧れや想像ではぜったいにわからないのだ。巡礼が小利口な綺麗事ではないことが、こうした大変な思いをしてみて初めてわかると思う。

私が行った日は大雨で、泥濘の参道は歩き難いこと夥しい。昨秋は台風洪水の連続であったが、その直後のこととて、今にしてみればよくまあ何事もなく帰って来れたと思う。観音様に護っていただいたと素直に思った。参道の上りは右手が山、反対の左は沢である。途中、鎖場もあったりして、急な斜面は夜来の雨でかなり地盤が緩んでいるように見える。麓にある茶店のおばさんによれば、先日も巡礼の方が転落し、救急車で運ばれたとか。私も恐るおそる一歩ずつ慎重にゆく。巡礼も命がけであるが、それは俗世を離れる覚悟を問うてる気がしてならない。時にはこうした難所があるのも、気を緩めるな、注意散漫になるなと云う戒めなのだと私は思っている。 雨中ひたすら登り続けて四十分、ようやく頭上が明るくなり、点々と堂宇が見えてきた。 そこからさらに昇ると本堂の大屋根が現れる 。雨と汗とでずぶ濡れになるも感無量であった。 残念ながら山頂からの視界は悪くて何も見えなかったが、 晴れていれば雄大かつ神々しい葛城連峰を裏側から拝めるそうだ。

施福寺欽明天皇勅願寺で、創建は我が国に仏教が伝来して直後と云うから、西国札所では無論、日本でも古寺中の古寺である。寺伝によれば播磨国の行満上人が弥勒菩薩を本尊としたのが始まりで、その後、役行者法華経を葛城の峰々に納めた際、巻尾をこの山に納めたとの伝承より「まきお」の山号となったと云う。往時は千もの坊舎を構えたと云うが、南北朝時代南朝方の拠点のひとつとなり、戦国末期には信長によって焼き討ちに遭うなど、幾度もの戦火で衰退した。が、西国札所であったがゆえにかろうじて残ったのである。山上の堂宇は、信徒や巡礼者の寄進で幕末の安政年間に再建されたもの。古い建築ではなくとも槙尾山中に漂う歴史はまったく褪せてはいない。

今は天台宗の寺だが、弘法大師がこの山で得度剃髪したと云われる。よって槙尾山は大師信仰も篤く、真言密教修験道が深く根差している。参道途中には弘法大師の剃髪所跡に愛染堂が建っており、愛染明王空海像が安置されている。愛染堂から急な石段を少し登ると空海の髪を納めた髪堂がある。若き日の空海は此処で修行しながら、葛城金剛の山野を駆け巡った。後に高野山霊場を開くのもこのあたりの地理に詳しく、峰々の霊験に深く帰依していたからに違いない。入唐から帰朝した空海はすぐに入洛せず、九州大宰府に二年ほど逗留した。そして畿内へ戻ってくるとまず槙尾山に登り、さらに二年ほどしてから上洛している。空海なりの算段があったのであろうが、空海の僧としての原点である此処で、自らの来し方行く末に様々なる思いをめぐらせていたに違いない。空海は静かな此処で思索に耽り、このあとの進むべき道を定めた。後に深く関わる高野山や東寺と比べると、山深くて簡素で、いかにも地味な槙尾山であるが、此処にこそ弘法大師空海という巨人の本心が眠っている気がしてならない。先ほどから槙尾山に漂うただならぬ気と云うものがあること述べているが、それは弘法大師空海の発した気がいまだに充満しているのかもしれない。

納経して本堂に上がらせていただく。内陣の”ほとけさま”は聴きしにまさる傑作ばかり。本尊の弥勒菩薩、西国巡礼本尊の千手観音、文殊菩薩、方違観音、馬頭観音伝教大師像に弘法大師像、堂内ぐるりと枚挙に暇もない大群像である。なかで印象的であったのが五メートルもある巨大な方違観音で、内陣のさらに奥にどっしりと座しておられる。宝冠を戴くそのお姿は小さなお堂に不似合いであるが、それがゆえに圧倒される。「方違」とは陰陽道に基づき方角の吉凶を占う風習で、凶の方角を避けるため、目的地へ赴くのにいったん別の方角へ出て、目的地の方角が悪い方角にならないようにする。方違は平安時代に盛んに行われるようになった。こちらの方違観音は生きる道を良い方向へと導いてくださる観音様だそうで、方違観音を祀るのはここだけだそうである。それにしてもこんな山奥にあれほどの数の美しい仏像群が在ることに、私は驚嘆し感銘を受けた。西国の奥深さを改めて痛感する。此処まで苦労して登ったが、誰しもあのほとけさまを拝めば、疲れは一瞬で癒されるであろう。 馬頭観音も合祀されているため、馬に携わる仕事、とりわけ競馬関係者の信仰も篤いとかで、本堂の桜の下には立派な馬の像が奉納されている。

本堂で先達とご一緒に般若心経と観音経をあげた。去り際に先達は、 「貴方が生まれてきた時、貴方は泣いて、周りの人たちは笑っていたでしょう。だからいつか貴方が死ぬ時は、貴方が笑っていて、周りの人たちが泣いている。そんな人生にしてください。」と言われた。ネイティブ・アメリカンの教えらしいが、私の中に深く残る言葉となった。

御詠歌 深山路や檜原松原わけゆけば槇の尾寺に駒ぞ勇める