弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一承和の変一

藤原氏の起源を改めて振り返ってみたい。藤原氏天皇家に次ぐ高貴な一族であるが、その出自はイマイチはっきりしない。日本書紀の神代上にある天の岩屋戸の神話で、天照大御神を岩屋から引っ張り出す策を練る一人に名を連ねて活躍する天児屋命は、中臣氏の祖先神であると云う。確かに古代氏族に違いなく、忌部氏とともに神事や祭祀を司り、京都山科の中臣町あたりを本拠とした。しかしこのあと鎌足の登場まで中臣氏の活躍はない。ことに蘇我氏天皇を凌ぐほどの権勢にて幅を利かせている当時、中臣氏は鳴りを潜めているが、いよいよ崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立が始まると、代々神官司祭としての家である中臣氏は物部氏と共闘するようになった。そしてついに天智天皇の決起に中臣鎌足がつき従い乙巳の変を経て、大化の改新を成し遂げたことで、後に続く権門の礎ができた。しかし権門となるのは鎌足の子孫のみで、鎌足の死に際し、天智天皇は藤原の姓を賜ったのである。鎌足の子孫以外の中臣氏は引き続き中臣氏を名乗り、神祇官となったり、伊勢神宮の神官を務めている。わかりきったことであるが、改めて申せば藤原氏の始祖はまさしく鎌足であることはゆるぎない。鎌足以来、藤原氏天皇家にずっとくっついてきたのである。よく言えば忠孝の臣として天皇を守護し、悪く言えば傀儡師の如く天皇を操って癒着した。

さて平安時代初頭に話しを戻そう。嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位され、淳和天皇嵯峨天皇の第二皇子の正良親王に譲位された。仁明天皇である。すでに述べたことだが、嵯峨天皇は父帝に倣い専制君主となられたが、淳和天皇は兄帝の隠然たる影響力を無視することはできずに、窮屈な思いをされたであろう。院政とは平安末期に白河院より始まるのだが、すでに奈良朝の持統上皇あたりからその萌芽がみられ、嵯峨上皇には大いにその兆しが垣間見える。嵯峨上皇天皇家の長として三十年も君臨し、平安京平安時代の礎を完成した。政治は安定し皇位継承のトラブルも起きなかった。歴代天皇の御心を痛めてきた皇位の安泰、この皇室の平安こそが思わぬ歪みを生んでゆくのである。逆に言えば、皇位継承の争いが激化すればするほどに、それを勝ち得た天皇の力と権威は増すわけで、泰平であれば神聖なる権威のみが高まってゆくが、為政者としての権力は削がれてゆくものである。藤原氏はその隙を見逃さなかった。

この頃、藤原氏の中でもっとも力をつけていたのが北家である。その長たる藤原良房は嵯峨上皇と壇林皇后の厚い信任を得ていた。これには良房の父である藤原冬嗣の影響がかなり大きい。冬嗣は娘の順子を仁明天皇に嫁がせ、生まれた皇子が後の文徳天皇となる。さらに良房を嵯峨天皇の皇女潔姫と娶わせる。臣下が天皇の娘を娶るなど前代未聞の出来事であったが、これにより勢力拡大を確実にした。薬子の変の直前に嵯峨天皇は尚待の権限を縮小し、代わって蔵人所を設置した。律令制度の規定にない新設の官職を令外官と云う。既存の律令や官制のみにとらわれない機動性重視の特別職ともいえ、江戸幕府でいえば大老のような非常置の職であった。時代を降るごとに増え、次第に権力も常置の官職を凌ぐようになる。摂政、関白、内覧、内大臣中納言、参議、征夷大将軍鎮守府将軍勘解由使検非違使文章博士押領使蔵人所などが令外官で、云わば天皇の私設の機関あるいは天皇家の家政機関と認識されていた。同時に蔵人所天皇と公卿の間を取り持つ役所であり、天皇の秘書官的な役割を果たすことになる。冬嗣はその初代長官である蔵人頭に抜擢された。冬嗣は北家初代の藤原房前の曾孫で、嵯峨天皇が皇太子時代から仕えており、即位後も後見役の最側近であった。

藤原北家の野望は果てしなく、それを実現するために図った数々の陰謀は凄まじいものがある。権謀術数の限りを尽くした。権謀術数と云う言葉は藤原北家のためにあると言って過言ではない。その中で最たる謀が天皇家と姻戚関係を結ぶことと他氏排斥である。冬嗣からバトンを託された良房は、それを実行に移してゆく。先に述べたとおり良房の妻は嵯峨天皇の皇女潔姫であるが、潔姫は臣籍降下した賜姓源氏の一人であった。当時廟堂は藤原氏より嵯峨源氏の勢力の方が大きかった。冬嗣はこれにも目を付けて、最大勢力である嵯峨源氏と姻戚関係を結んだ。これにより藤原北家の権勢は磐石への道を確実に進める。が、以前として嵯峨上皇は隠然たる影響力を保持していた。そもそもこの時点で嵯峨上皇仁明天皇の次は、弟の淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子としている。恒貞親王藤原北家と姻戚関係はない。ゆえに良房としては妹の順子が生んだ道康親王皇位を継承することを望んでいた。しかしどういう意図なのか私にはわからないが、嵯峨上皇は良房に信頼を寄せつつも、破竹の勢いで権力の階段を駆け上がってくる藤原北家に対して、恐れと嫌悪を持ち始めていたのかもしれない。次第に良房との間にもすきま風が吹くようになっていたが、その矢先、さしもの大家父長嵯峨上皇は五十七歳で崩御された。承和九年(842)のことである。

上皇崩御のわずか二日後、事件が起こる。伴健岑橘逸勢らが皇太子恒貞親王を奉じて東国に赴き、謀反を企てていると捕縛されたのである。伴健岑恒貞親王の警固役を務めており、親王もあらぬ嫌疑をかけられ廃太子と相成った。この事件が承和の変である。承和の変こそが藤原氏による最初の他氏排斥である。当時、良房の叔父の藤原愛発が大納言の地位にあったが、愛発は娘を恒貞親王に嫁がせていたため、承和の変により失脚を余儀なくされた。代わって良房が中納言から大納言に昇進。結果、良房の目論見どおり道康親王皇位を継承されて文徳天皇となられたのである。良房は外戚として大きな力を得た。承和の変では恒貞親王廃太子、同じ北家の叔父藤原愛発は解官されて京外追放、伴健康は隠岐へ、橘逸勢は伊豆へと流れされ、関係者六十人余りが厳しい処罰を受けている。良房はこれより先、自らの血筋以外を廟堂より排除することに執心する。名族の伴氏や橘氏を追いやり、同族の競争相手をも退ける執念はまさに凄まじい。良房は道康親王に自分の娘明子を嫁がせた。その間に惟仁親王が生まれる。文徳天皇にはすでに三人の皇子がいたのだが、良房はわずか生後八ヶ月の惟仁親王を皇太子に立てたのである。文徳天皇の第一皇子惟喬親王はまさに帝王に相応しい資質を備えておられたが、あえなく皇位継承のレースから外されて、失意の日々を過ごすことになるのだが、惟喬親王にまつわる多くの興味あるエピソードについては次回記すことにする。

良房はこの時右大臣。そのあと左大臣を経ずに、天安元年(875)、従一位太政大臣に昇進する。従一位平安時代になってから初めてのことで、太政大臣も臣下ではこれまで恵美押勝道鏡以外に例はなく、この二人は失脚しているため、位人臣を極めた最初の臣下が藤原良房であると云ってよいであろう。翌天安二年(876)、文徳天皇が三十二歳で崩御。惟仁親王は九歳で即位され清和天皇となられた。むろん後見役には外祖父である良房が就き、政治の実権を掌握した。事実上の摂政であった。摂政とは「天下の政を摂行する」者の意で、元来は皇族しか就くことはなかったが、もはや良房のする政に異を唱える者は廟堂には誰もいなくなった。