弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

ほとけのみち 建長寺

春先、花所望の茶会へ参席するべく数年ぶりに鎌倉を訪ねた。東京から鎌倉は近い。以前はよく歩いたものだ。江ノ島近くの片瀬に住んでいたこともあり、当時は毎週末鎌倉の寺社巡りをした。近頃は関西にばかり脚が向いて鎌倉は素通りであったが、歩いてみればやはり良い。山海が密接した鎌倉はいかにも堅固な要害で、樹々と潮騒の入り混じる鎌倉独特の匂いがする。三方を山に囲まれ、前面には相模湾を望むこの地形が、鎌倉から歴史を完全に放出させずに済んでいる。地形は実は歴史と云うものとかなり深く結びついていて、例えば関ヶ原などは古代と近世の二度、天下分け目の大戦があったことは、あそこが交通の要衝であったと云うだけの理由ではあるまい。関ヶ原の地形と風土がそういう場所に仕立てたのである。京都があの狭い盆地で千年ものあいだ都であったのも四神相応の鉄壁の布陣であったがゆえに違いない。

鎌倉五山一位の巨福呂山建長興国禅寺は、鎌倉でもっとも大きい堂宇が甍を並べている。関東でも屈指の壮大な寺で、総門、山門、仏殿、法堂、方丈が一直線に配された伽藍を歩いていると、ズドンと胸を貫かれた心地になる。 この寺の境内を歩けば、禅道とは如何なるものか、凡俗の中で悟ることが如何に厳しく困難であるか、おぼろげに伝わわってくる。禅の悟りとは掴みどころなどない壮大な宇宙で、無碍の境地への到達は生涯なく、それはひたすら禅道に打ち込み、己の仏道に励むことが或いは無碍の境地なのかも知れない。臨済禅は、中国唐の時代末の宗祖臨済義玄に始まる。日本には宋の時代に渡った栄西によってもたらされ、鎌倉新仏教の一翼を担った。一翼と云うよりも一時は鎌倉仏教の中心が臨済禅であった。為政者たる北条氏が厚く帰依したからである。臨済宗の教えは、師から弟子への悟りの伝達を重じる。いわゆる公案と云うものだ。同じ禅宗曹洞宗が地方豪族や民衆に広まったのに対して、臨済宗は朝廷や武家政権に支持された。戦国時代に一時衰退しかけたが、徳川時代に明より来日した白隠によって日本の臨済宗は再興された。以降臨済宗白隠禅とも云われている。

北条時頼は十九歳の若さで鎌倉幕府五代執権となるが、北条幕府の転覆を謀る相次ぐ謀略事件の取締りや、三浦氏一族の反乱に忙殺され、なんとかこれを鎮圧し権力を掌握するも心身疲弊していた。この時頼りとしたのが当時永平寺建立の寄進を波多野義重らから受けるべく鎌倉を訪れていた道元であった。接見した時頼もまた道元の教化に感銘を受けて、自ら建立する寺院の開山に迎えようとしたが、権力と距離を置きたい道元にはにべもなく断られてしまう。時頼はがっかりしたが、次に出会ったのが、南宋からの渡来僧である蘭渓道隆であった。蘭渓道隆は宋の純なる臨済禅の伝播に努めて、次第に慕う弟子が増えていった。時頼もまたその一人で、京に滞在していた道隆を鎌倉に招いて留め置き、いつしか師と仰ぐようになる。道隆も鎌倉こそが自分が布教を根差す場所と確信したに違いない。こうして蘭渓道隆は大船の常楽寺に入った。

かつて建長寺のあたりは地獄谷(じごくがやつ)と呼ばれた処刑場で、死者を葬る場所でもあった。その霊を弔うために古くから地蔵堂があった。そして建長元年には心平寺と云う寺が建立され地蔵堂も残された。時頼はこの心平寺を蘭渓道隆に与えて、建長五年(1253)に建長寺と改め、道隆を開山とした。ゆえに禅寺としては珍しく地蔵菩薩が本尊となったのである。余談だが、心平寺の地蔵堂は横浜の三渓園に移築保存されている。 仏殿に安置されている本尊は丈六の地蔵菩薩坐像で、あまりの大きさに圧倒されるが、よく見ればその表情は地蔵らしいわらべのような面差し。創建当初の仏殿は焼失し、今在るのは正保四年(1647)に江戸の増上寺より移築されたものだ。この建築は寛永五年(1628)に建立された崇源院の霊廟である。崇源院徳川秀忠正室で、家光の生母、浅井三姉妹の三女お江の方である。仏殿の天井や壁面には桃山文化の名残をみせる江戸初期の華麗な装飾が施されている。今は経年剥落してはいるが当時の壮観は充分に偲ばれる。

国宝の梵鐘も大きい。高さ二メートルの鐘は時頼の発願で、当時鎌倉大仏を鋳造に成功した鋳物師の物部重光が鋳造したもの。創建当時の数少ない遺構で、大きさは円覚寺の鐘にわずかに及ばないが、藤原様式伝えながらも鎌倉仏教の新しい息吹を感じさせる。円覚寺常楽寺の鐘と併せて鎌倉三名鐘と称されている。

仏殿のすぐ後方に法堂。禅宗では住持がほとけに代わって説法する講堂を法堂と呼ぶ。鎌倉五山で法堂が現存するのは建長寺だけである。関東屈指の大きな堂宇の中央には千手観音が祀られ、天井にはこれも禅堂お決まりの雲龍図。禅宗寺院で法堂の天井に水神である龍を描くのは、この下で修行する雲水に法{教え)の雨を降らすと云う意味が込められているのだとか。我が国最初の本格的な禅宗寺院として発足したのが建長寺である。確かに鎌倉五山第三位の寿福寺こそが日本最初の禅寺とも云えよう。宋より帰国して寿福寺を開山した栄西が最初に臨済禅をもたらしたからだ。ところが寿福寺や京都最古の禅院建仁寺は創建こそ建長寺より早いが、元は天台、真言、禅の三宗兼学の道場であった。寿福寺の創建から半世紀後、坂東武士の心と蘭渓道隆の理想がひとつに結実して建長寺が創建されたのである。ここに純粋な禅の新しい時代が開かれていった。満を持して日本の禅宗がスタートしたのが建長寺であった。蘭渓道隆は大覚禅師と称されて、宋の厳格な禅風を取り入れ、建長寺は往時千人以上の修行僧が起居し、道隆の教えに導かれた。

今も山内では雲水たちがその法灯を守り、日夜厳しい修行が続けられている。基本的に自給自足の修行道場。雲水はまだ払暁前の午前三時に起床する。朝課と呼ばれる読経と坐禅、朝食の粥座(しゅくざ)、山内を掃き清める日典掃除(にってんそうじ)と続き、世間一般の朝が始まる午前七時過ぎには托鉢に出かけてゆく。托鉢から戻れば作務や寺務作業、或いは個々に課した行などで午後九時の消灯まで休む暇はない。消灯後も、夜坐(やざ)と呼ばれる屋外での坐禅を自主的に行う。雲水の一日が終わるのは時に午前一時前後になることもあると云う。平均睡眠時間が三時間と云うから驚きだが、常人には到底成せない境域に達すると、こうしたことができるようになるのであろうか。ちなみに建長寺の台所典座(てんぞ)が発祥とされるのが精進汁の建長汁である。建長汁は普茶料理が起源と云う。昔、建長寺の修行僧が、豆腐を運んでいて誤って落としてしまい、豆腐はくずれてしまった。それを見ていた老師はくずれた豆腐を洗って鍋に入れ、咎めなかったと云う。これが建長汁のはじまりで、けんちょう汁とかケンチャン汁と呼ばれていたのが、やがて「けんちん汁」となったとか。 門前の点心庵では建長寺直伝の建長汁をいただける。 味は薄いが滋味深くとても美味しかった。

五山制度は臨済宗の格式を示すために宋国に倣い設けられた。日本では鎌倉幕府建長寺を五山第一としたが、それ以外はまだ曖昧であった。鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇建武政府が、鎌倉を中心とした五山を京都中心に改めて、南禅寺を第一とし、以下東福寺建仁寺建長寺円覚寺と定めた。つまり当時の五山は京都と鎌倉混在であった。建武政府が未だ東国と鎌倉を完全に掌握できていなかった証拠でもある。事実、倒したはずの北条氏の残党が、東国の各地であげた狼煙が常に燻り続けていた。後醍醐天皇はその牽制と討伐に北畠顕家を差し向けるも抑えきれなかった。鎌倉には足利尊氏の世子千寿王(のちの足利義詮)がいて、尊氏の命で弟の足利直義がこれを補佐していた。北条氏の残党は鎌倉奪還のために攻めてきた。足利軍は敗れ、千寿王と直義は命からがら鎌倉を脱出している。後醍醐天皇から鎌倉出陣を堅く止められていた足利尊氏は、しばらく我慢していたが、高師直らの進言により出陣を決意。千寿王と直義を救出した。その後は後醍醐天皇と仲違いしてしまい、ついには南北朝時代が始まるのであるが、五山もここでまた変わってくる。室町幕府を開いた尊氏は直義に寺院統制を任せた。直義は五山第一を建長寺南禅寺、第二を円覚寺天龍寺、第三に寿福寺、第四に建仁寺、第五に東福寺、准五山に浄妙寺と定めた。これより五山は数ではなく寺格になる。その後も五山の順位は度々変わったが、これを確立し、今に継承された五山を整備したのが、室町幕府を満開に花開かせ、自らも日本史上最高ともいえる権勢を手にした三代将軍足利義満である。義満は南禅寺を「五山の上」に置き、京都五山天龍寺相国寺建仁寺東福寺万寿寺鎌倉五山建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺と定めた。自ら開基となった相国寺を五山に組み込むための強引な策であるが、朝廷さえ傘下にし、自ら日本国王と称した義満にしかできなかったことであろう。鎌倉にはかつては尼五山も存在したが、今は第二位の東慶寺が残るのみで、第一位の太平寺以下四ヶ寺は廃寺となった。五山の僧侶は漢詩文をよく学び、日本の漢文学の黄金期を築いた。詩文のほかに、日記、紀行文、随筆など多彩で、五山文学として確立された。 

関東には臨済宗建長寺派の末寺が多く、お膝元の神奈川県や東京の多摩地区には特に多い。その大本山建長寺は縦に長く深い寺である。創建時に中国五山第一位の万寿寺を手本にされ、今よりもっと巨大な伽藍であったそうだ。今でもたいへん掴みどころのない巨刹である。禅宗寺院の魅力はこの掴みどころがないところである。禅寺はどこにいっても私を覚醒する。しかしそれとは表裏一体何か空虚さも感じる。七堂伽藍を一直線に配した禅宗特有のレイアウトだけがそうさせるのではない。きっとこの掴みどころのないところが禅なのである。禅寺とは虚空より何かを掴むための修行道場なのだから、余分を排除して然るべきなのである。個性などいらないのだ。私のような愚物に、禅のことなど一語も語る資格もなく、また語る術も知らないが、これだけはわかる。禅の道は厳しく果てしない。境内最奥の山上にある半僧坊からの眺めは格別だった。 西に真っ白な富士を仰ぎ、東には紺碧の空と海。 二月の風はまだ冷たかったが、身も心も研ぎ澄まし、 私は正気を取り戻した。