弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一応天門炎上一

日本人は貴種流離譚が大好きである。貴種流離譚折口信夫が提唱したが、大まかな概念は高貴な身分に生まれながらも時勢が味方せずに虚しく下野したり、敵の陰謀に嵌り低い身分となったりして彷徨い、もがき、その後華々しく復活する物語の事である。源氏物語伊勢物語が代表的な貴種流離譚と云われる。しかし実際は虚無感に堪えかねて憤死する者あり、或いは密かに遁世する者が多かった。こうした人物には「世が世であれば」と云う、余人には計り知れない苦痛が生涯付き纏ったに違いない。実在で代表的な人物を挙げれば、皇族では大友皇子大津皇子淳仁天皇崇徳天皇後醍醐天皇とその皇子たち、後南朝の自天王、臣下では源義朝とその子ら頼朝、木曾義仲義経、思えば源氏は皆貴種流離譚を字でゆく。少し下り足利尊氏の長男に生まれながらも、不遇を囲い続けた足利直冬もまた然り。文徳天皇の第一皇子惟喬親王もそうしたお一人である。

まことに悲運な生涯を送られた惟喬親王についてはぜひとも触れておきたい。文徳天皇の後継は藤原氏の策謀によって、第四皇子の惟仁親王が皇太子に立てられた。文徳天皇は惟喬親王立太子を望まれていたが、権勢をゆるぎないものにしつつあった藤原良房は、自分の娘明子の生んだ惟仁親王立太子を強引に推し進めた。惟喬親王は紀名虎の娘静子を母に持つが、もう藤原氏の勢力にはとうてい勝てない。誰が皇位継承するかは、臣下を巻き込んで様々な経緯があるのだが、結局は藤原氏に屈服したのである。惟喬親王は十四歳で元服されると、大宰権師に任命され、その後も大宰師、常陸や上野の太守と遠隔地へ追いやられてしまった。貞観十四年(872)、親王は病と称して二十八歳で出家されたが、事実は世に無常を感じられたに他ならない。それから五十四歳で薨去されるまで、流転の日々であった。叡山の麓、山崎の水無瀬、大原など方々に惟喬親王の放浪の足跡が伝承されている。墓所は京都から大原に行く途中の山中にひっそりとあり、地元の人以外にはあまり知られてはいない。一方で木地師と呼ばれる木工を生業とする人々から、惟喬親王は代々崇拝の対象とされてきた。それを色濃く残しているのが近江の小椋谷で、親王は遁世後すぐにこのあたりに籠居され、高松の御所と呼ばれるつつましい屋敷に住されたと云う。大木の多いこの土地に暮らす人々に、器の木地を作ることを推奨されて、自らろくろを引かれ教えられた。これが木地師の起源とも云われる。白洲正子氏の随筆『かくれ里』の「木地師の村」という章に詳しく書かれている。白洲氏が聞いた村の言い伝えによれば、親王薨去されるまでの十九年間この地に住み、薨去された後、村人たちは君が畑と云うところに親王を祀る社を建てた。そこは今も残る太皇木地祖神社で、入り口には「日本国中木地屋之御氏神」と彫られた石標が建っていると云う。後に日本中に分散していった木地師の総本山とも云えるこの場所に、参拝する木地師たちは、「只今帰ってきました」と言うとか。白洲氏によれば、惟喬親王の伝承は大原から花折峠を越え朽木谷、そこから湖北を経て伊吹山を越え、小椋谷を含めて鈴鹿山中の方々にあると云う。これが流転の惟喬親王の生きられた証拠であり、その最期の地は大原とも小椋谷とも云われるが、どの土地でも崇拝されている。よほど魅力的な人物であり、英明かつ民とも分け隔てなく親しく付き合われたお人柄と推察できる。親王御自身もそうなさらなければ、立つ瀬がなかったに違いない。惟喬親王が生きた時代が藤原摂関時代ではなければ、或いは偉大な帝王となられたかも知れない。人を惹きつけて、導かれることに長けておられたことが、藤原氏を警戒させたのであろう。私もいつか惟喬親王と云う無冠の帝の足跡をくまなく歩いてみたいと思う。

閑話休題

摂政とは「天下の政を摂行する」者の意である。単に「政を摂る」とも。和田秀松氏の『官職要解』に詳しい。以下、少し長いが引用する。

~天子に代わって、万機の政をすべ掌る職である。摂は、摂行の意で、字書に、「総なり、兼なり、代なり」とかいてある。この職は、応神天皇がまだ幼年でいらせられたから、御母神功皇后が摂政なされたのが始めである。また、推古天皇の御代に、聖徳太子が摂政なされ、斉明天皇の御代に、中大兄皇子天智天皇)が摂政なされた類で、昔は、皇后、皇太子のほかはその例がなかった。ところが、清和天皇の御代に至って、天皇が御幼少でいらせられたから、外祖父藤原良房が摂政した。これが臣下で摂政した始めである。これからのちは、おのずから職名となって、藤原氏一門の職となったのである。~

天安二年(858)、文徳天皇は三十二歳の若さで崩御された。兄に代わって皇太子となっていた惟仁親王が御年わずか九歳で第五十六代清和天皇として即位される。これまで桓武天皇以来、平安時代に入ってから即位された天皇の平均年齢が三十三歳で、歴代でも二十代半ばから三十代での即位がほとんど、一番若年が十五歳で即位された奈良朝の文武天皇であるから、清和天皇がいかに破格の若さであったか。以降、摂関が力をつけるに連れて、幼帝は大きな意味を持ってくるのである。つまりは外祖父として後見し、天皇に代わって政を行うためには、自ら思考し政を実行をできない幼帝を奉じるのがもっとも容易であり、周囲も屈服せざるを得ない状況なのである。かくして藤原良房は摂政となった。それでもまだこの段階では、良房と藤原氏による政治は磐石なものではなかった。しかしそれをさらに進める事件が起こる。

貞観八年(866)閏三月十日晩春の夜、平安宮朝堂院の正門、応天門が不審火により炎上した。朝堂院は大内裏の正庁で、平安時代からは中国に倣い八省院とも云われた。宮中でもっとも格式が高く、重要な施設である。天皇玉座である高御座が据えられた大極殿を中心に、天皇が早朝に政務を執った朝堂、臣下の待機所兼事務所であった朝集殿があった。唐の官僚機構に倣い設けられた八省とは、左弁官局右弁官局に分かれ、左弁官局中務省式部省治部省民部省の四省を、右弁官局兵部省刑部省、大蔵省、宮内省の四省を管轄した。各省をざっと浚うと、中務省天皇に侍従し、詔勅の作成や宣旨、伝奏、宮中の事務を統括し、戸籍を管理した。今の総務省宮内庁が一つになったような機関である。内部局として図書寮や陰陽寮もある。式部省は、文官の人事、朝議と学校を掌る。後に文部省と云われた時代もあり、今の文科省の前身とも云える。治部省は外交事務、雅楽、葬事をしきり、寺社を掌った。民部省は租税、財政、戸籍、田畑を掌る。兵部省は軍事全般と武官の人事を掌る。刑部省は司法を掌る。大蔵省は財宝、出納、物価などを掌る。宮内省は宮中の衣食住、財物を管理し、祭祀や諸事を統括した。八省院とはこれら官僚機構の集まる場所で、今の霞ヶ関官庁街のようなところである。現代に通ずる日本の官僚機構の原型が、この時代ほぼ出来上がっていたのである。平安時代、八省院には東西に多くの殿舎が建てられ、大臣ら公卿や官吏が執務をとっていた。その正門が応天門であった。平安神宮には立派な応天門が復元されているが、あれでも実際の応天門を縮小したものとかで、この門がいかに平安宮にとっていかに重要な門であったかが知れる。

紅蓮の炎は一瞬にして応天門と左右の楼閣を灰燼にした。出光美術館に蔵されている国宝『伴大納言絵巻』には、この事件のあらましが炎上から後日譚まで詳細に描かれている。この火事を巡り、当時の政権ナンバー4の大納言伴善男は対立していた政権ナンバー2の左大臣源信の仕業であるとして追放しようとした。伴氏はもとは大伴氏と称し、古来より名門の一族であった。大伴の姓が淳和天皇の諱の大伴と重なるのを憚り、大伴氏から伴氏に改めたのである。一方、放火犯に仕立て上げられた源信嵯峨天皇の皇子で、源の姓を賜り臣籍降下した嵯峨源氏のひとりである。当初この事件は政権ナンバー3の右大臣で良房の弟の藤原良相が処理に当たった。良相と善男は政権ナンバー1の良房に諮らずに源信を逮捕しようとした。しかしここで待ったをかけた人物がいた。何おう藤原良房である。良相は、良房の養子であり後継者の藤原基経源信の捕縛を要請するが、基経は良房は承知しているのかと問いただす。良相が否定すると、かかる重大事を良房の了解無しで運ぶことはできないと断り、基経は良房にその経緯を報告した。ただちに良房は「左大臣は陛下にとって大いに功ある人物であり、これを誅するならば、まず先に私が罪に服します」と清和天皇に訴えた。良房の奏上に驚いた天皇は訴えを退けて、源信は逮捕を免れたのである。窮地に立たされたのは良相で、独断で兵を差し向けた責めを負わされ、政権ナンバー3の座から転落してしまう。良相は娘の多美子が清和天皇の女御になり寵愛を受けていたため、着々と勢力を拡大しつつあった。これには兄でありながらも政権ナンバー1の良房が警戒しないはずはない。犯人扱いされた源信嵯峨源氏であるプライドもあいまって、屈辱のあまり籠居し、朝廷に出仕しなくなる。さらに、源信が放火したと訴えた伴善男が今度は真犯人であるとの目撃証言が出てきて、ついに善男は捕縛され、後に伊豆へ流罪となる。政権のトップ4のうちナンバー1以外はすべていなくなり、若い清和天皇が頼りとするのは、良房しかいなくなったのである。

そしてこの年の八月十九日、ついに清和天皇は良房に「天下の政を摂行せよ」との勅命を下す。ここに臣下として日本史上初めての摂政が誕生した。もう政界に良房のライバルは存在しなかった。果たして応天門の変の真犯人は誰なのか。結果的に一番利益を得た者は、藤原良房なのである。これはやはり彼の陰謀にあらずや。直接手を下してはいないが、藤原氏お得意の権謀術数の限りを尽くし、ライバルを排斥してゆく。良房はこの事件を上手に利用して、自らに有利な展開へと誘導していったのである。彼がこの事件の解決をみないうちに摂政となったことからも、応天門の変藤原氏の陰謀であった可能性が高い。良房以降、摂政は、養子の基経に引き継がれて、やがて令外の官として制度化し、藤原北家に継承されてゆくのである。そして幼帝が成長されて、成人となられると、摂政から関白となって、引き続き政務を取り仕切った。関白とは政を「関かり(あずかり)白す(もうす)、或いは関わり、白す」の意。『官職要解』には~天子を補佐し、百官を総べて、万機の政を行う職である~とある。この関白に最初に就任したのが、藤原基経なのであるが、それはまた次回記すことにしよう。

清和天皇は二十七歳で譲位され、陽成天皇がこれまた九歳で即位された。基経は良房に倣ったわけだが、清和天皇にしても、幼い頃より当たり前のようにいた摂政という存在を、成人してもなお頼りとされたに違いない。もっとも基経とて、「政と云う邪推を孕んだ雑事は我ら臣下にお任せください」などと天皇に吹聴していたかもしれない。余談であり、これもまたいずれ触れるだろうが、清和天皇の十人の皇子のうち四人と、さらにその孫のうち十二人が賜姓降下し源氏を名乗り、清和源氏が誕生した。このうち代々続いてゆくのが、第六皇子貞純親王の子で源経基から始まる流れで、武家の棟梁たる清和源氏の起源と云われる。平安末に武士が台頭するが、その一方の旗頭である源氏の嫡流である。平家を滅ぼして鎌倉幕府を開く源頼朝がそうであり、室町幕府を開く足利尊氏清和源氏の末裔である。

 応天門の変の年、基経は上席七人を飛び越えて中納言となり、二年後大納言を経て右大臣になる。その一週間後に養父良房が亡くなるが、ここまでのスピード出世は良房の影響力の大きさを示している。この時、上席の左大臣には源融がいたが、政権を掌握したのは基経であった。光源氏のモデルとも云われる源融も、嵯峨天皇の皇子で賜姓皇族であり、嵯峨源氏融流の祖である。源融は平安王朝随一の風流人として名高い。彼の六条河原の邸宅はその趣味と粋を集めた屋敷であった。河原院とも河原大臣とも称されるほど、当時の平安京において彼とその邸宅は有名であった。今ある東本願寺渉成園がその跡地である。また嵯峨にあった別荘の跡地に建立されたのが現在の清凉寺で、宇治の別荘が後に平等院になった。いずれも四季を愛で、風流を極めた融の面影は、清凉寺にも平等院にも色濃く残っており、彼の人となりが知れる。能の『融』は、彼を題材とした物語。 都へやってきた諸国一見の僧がある夜、六条河原院の邸宅跡を訪れる。そこに桶を携えた潮汲みの翁が姿を見せる。 海辺でもないのになぜ潮汲みを、といぶかる僧に翁は、此処は亡き融大臣の邸宅河原院の跡であると言い、生前の融が奥州塩竃の光景を再現しようと、難波の浦からわざわざ海水を運ばせ、庭で潮汲み、塩を焼かせていた故事を語る。しかし融の死後は跡を継ぐ人もなく、邸宅も荒れ果ててしまったといい、翁は昔を偲んで涙を流す。後でその翁は融の化身であるとわかり、僧が再び河原院を訪れると、融大臣が貴人の姿で現れて、昔を偲び月下で舞をまって、夜明けと共に消えてゆく。風流人源融の耽美的な生活を現出するのみの能であるが、どこか儚く、物寂しい幽玄さを湛えている。藤原氏の専横を許し、後の世までその栄華を決定的にしたその瞬間にいた源融の忸怩たる思いと云うものを、作者の世阿弥はさすがによく心得ていると思う。