弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一道真左遷一

東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ

あまりにも有名な菅原道真の歌である。この歌は、道真が太宰府に左遷されるにあたり、都へは二度と戻れぬと覚悟して詠んだものだ。

しばし道真について。菅原道真は幼い頃からその秀才ぶりを示し、十一歳で漢詩を詠んだ。詩は生涯愛し、歌にも秀で百人一首にも選ばれている。

此のたびはぬさもとりあへず手向山 紅葉のにしき神のまにまに

この歌は古今集の詞書には、朱雀院すなわち宇多法皇に供奉して東大寺の鎮守社の手向山八幡宮で詠んだとある。まさしく「とりあへず」の即興歌であろうが、神に捧げる幣(ぬさ)の用意がなく、代わりに紅葉の枝を奉ると云った。「神のまにまに」は、神の御心のままにお受け取りいただきたいと云う意。宇多法皇の南都行幸は、昌泰元年(898)十月のことで、奈良、吉野へ行き、戻りは竜田山から河内に入り、住吉大社に詣でている。これに供奉した道真も、右大臣に昇進する前年であり、この時が彼の絶頂であった。歌からもその喜びが明るく表されている。

道真は十八歳で当時の大学寮の文章生となり、数年後に官吏登用試験に合格。道真の血筋は土師氏に起源し後に菅原と氏を改めている。菅家は奈良朝、平安朝においては中流貴族ではあるが、代々優秀な文人を輩出。祖父菅原清公は左京大夫従三位まで昇進し公卿に列せられ、父是善は参議になっている。このあたりから道真の才能を花開かせるべく、それをお膳立てできるだけの財と環境は整ってきていた。道真は存分に勉強し、平安王朝随一とも称される学者に育った。貞観十六年(874)、従五位下に叙せられ、兵部少輔、民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877)に菅原家の家職でもある文章博士を兼任した。文章博士令外官で、官僚育成機関である大学寮において主に中国史漢詩を教えた紀伝道の教授である。元慶四年(880)に父が死去すると、祖父が開いた私塾山陰亭を主宰、ここには平安朝の志高い文人文士がこぞって道真に教えを請うた。集まる者は日々増えて、廊下でも講義が行われたため、別名菅家廊下とも称された。こうして道真は朝廷に並ぶ者のない見識高い文章博士として名を馳せるようになる。当時権勢を誇った摂政藤原基経も道真を高く評価しており、度々政の意見を私的に問うた。その矢先の仁和二年(886)、道真は讃岐守に任命され、下向することになる。仁和四年(888)、前回も触れた阿衡の紛議が起こり、ここで道真は朝廷への出仕を拒否していた基経を諌め、対立した宇多天皇の側近中の側近橘広相への赦免を求め、基経も矛をおさめた。その後橘広相が没すると、宇多天皇はそれに代わる者として、藤原氏にも臆することなく物申せる道真を讃岐より召還し、蔵人頭に抜擢する。天皇家の家政機関の長となり、天皇首席秘書官のような役を得た道真は水を得た魚の如く活躍する。やはり地方官では道真には役不足であったのだろう。宇多天皇も殊の外道真を頼りとされ重用された。

ここからの道真の躍進は、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢い。蔵人頭就任から二年後に参議、その二年後に従三位中納言、さらに二年後の寛平九年(897)に権大納言に昇進。道真は宇多天皇藤原時平の仲立ちとなり、同時に政の後見をしながら、手広く実務を取り仕切っていた。宇多天皇は道真に全幅の信頼を寄せられて、殊の外頼りにされたが、天皇はこの二人をうまく抑え込みながら親政をすすめようとされたに違いない。しかしこれが文人いわば学者であった道真の終わりの始まりであった。道真は守旧派からは疎まれ、また同じ学者の側にも妬まれたのである。道真は真面目な人であった。ゆえに頑固一徹な面も兼ねており、その実直さが敵を作り、味方がなかった。道真の生真面目さが、東風吹かば〜の歌にも、百人一首の歌にも、とても良く表れていると思う。

道真は累代の為政者の勢力ではない。対して藤原北家の時平は奈良朝以来天皇家を一番近くで支えながら、もうそろそろ隙あらば天皇は権威だけとして奉り、その権威を背景に全権を掌握するべく、虎視眈々動き出していた。藤原北家を頂点に公卿を輩出してきた上級貴族を権門と云い、中級以下で公卿にはなれない貴族は寒門と云う。道真はその寒門から突如閃光を放ったが、その光はまことに一瞬の輝きであった。

藤原時平は、貞観十三年(871)基経の嫡男に生まれ、幼い頃より政治家としての素養の片鱗を多分にみせ、基経も時平に期待して英才教育を施した。いわば藤原北家の期待のプリンスであり、朝廷廟堂において誰もが一目置く存在であり、エリート街道驀地である。十六歳で元服すると、翌年には従四位下右近衛中将に任命され、宇多天皇が即位時に蔵人頭、二十歳で公卿に列した。翌年基経が死去するが、時平は若年のため摂関は置かれず、宇多天皇はこれ幸いと親政をとられ、藤氏長者は大叔父の右大臣藤原良世が任じられている。寛平五年(893)、中納言兼右近衛大将となり、敦仁親王東宮になると春宮大夫を兼ね、寛平九年(897)正三位大納言兼左近衛大将に昇進した。また前年に藤原良世が引退し、空席となっていた藤氏長者には時平が就いた。

御室仁和寺にて表向きは隠居された宇多法皇の後を継がれたのが醍醐天皇である。この時十三歳、いまだ紅顔の少年であられた。宇多法皇は譲位に際して醍醐天皇に『寛平御遺戒』という訓戒を授けられている。君主としての振る舞いや日常生活、そして政治の心得が説かれている。そこには若年ながらも政治手腕が期待できる藤原時平と、学問の素養高く政策に精通した菅原道真の併用を指示しながらも、特に道真を頼みとするように諭されている。両名は醍醐天皇の即位時に関白に準ずる内覧となり、醍醐天皇もまた先帝の訓戒を忠実に守ろうとされた。一方で時平と道真のみに政務が委ねられたことにますます反発した他の公卿たちは廟堂に出仕しなくなり、宇多法皇が勅を出すことでようやく復帰したという事件も起きている。ことに寒門道真に対する僻みとバッシングは凄まじいものであった。この事件に乗じたのは他らなぬ時平であった。事実時平は道真が自分と並ぶことを良しとせず、常に宇多法皇と通じていたことに憤りを感じ始めていた。権門たる藤原北家の時平は、藤原氏一門とそれに与する諸氏の反感を巧みに扇動して、自らにも向けられていた矛を道真のみに向かうべく仕向けた。これから道真に対する様々な讒言が飛び交うことになったのである。

昌泰ニ年(899)、時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、同時に道真も右大臣となった。両者が廟堂の頂点に立った。が、やはり両雄並び立たず、道真は宇多法皇の側近の地位を引き続き占め、醍醐天皇と時平、その近臣たちとの間に修復不能の亀裂が生じていた。また、時期は明確ではないが同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させているが、これには宇多法皇もさすがに反対されたが、それを押し切ってのことであった。

昌泰四年(901)正月、醍醐天皇は突如、道真を太宰府に左遷する詔を下した。理由は醍醐天皇を廃して娘婿の即位を企てた科である。役職は大宰権帥である。当時の大宰府は、九州の政庁兼軍事的な拠点のみならず、中国や朝鮮半島との交易の窓口であり、京の都に次ぐ枢要な地とされた。貿易盛んで町は活況を呈し、人々も豊かに自由に暮らしていた。大宰府の長官は大宰帥であるが、帥の職は親王など皇族が任命されるも、現地へは赴任せず京都にいた。したがって実際は権官たる大宰権帥もしくは、その次官たる大宰大弐が現場を取り仕切り、実質的長官であった。後の世のことであるが、平清盛も宋との貿易で巨万の富を得ることを悟ると、自ら大宰大弐に就くことを志願した。道真がこの職に左遷されたのは、前例があったからであると云うが、本来なら長官として大宰府を仕切れる権帥も、この左遷と云うケースの場合だけは職務を与えられず、いわばお飾りの閑職とされたのである。したがって道真が赴いたところで何の権限もなく、大宰府を仕切ったのは大弐であった。むろん道真もそれはよく理解していたであろう。『政事要略』には記された道真の罪状は以下の如し。

『右大臣菅原朝臣、寒門より俄に大臣に上り収まり給へり。而るに止足の文を知らず専権の心あり。』

寒門出身ながら大臣に取立てられたにも関わらず、分をわきまえずに専横の限りを尽くしていると云うもの。

これを「昌泰の変」と云う。また道真の子と、宇多法皇の近臣らも流罪となった。道真の後裔である菅原陳経が「時平の讒言」と言ったことで、これが時平の陰謀であり、藤原氏ことに北家による他氏排斥をあからさまにした最大の事件であった。菅原家は父菅原是善の時代から藤原北家との関わりが深く、時平と道真は度々詩や贈り物を交わす関係であったのに、それでも時平を警戒させた理由は、宇多法皇醍醐天皇も、かなり道真寄りで、時平が蔑ろにされることが、どこかであったに違いない。基経も時平も文章博士としての道真を高く評価していた。道真の失脚は、藤原氏による他氏排斥の一環ではあるが、しかし時平のみの陰謀にあらず、道真に反感を持っていた多くの貴族層、時平を含む藤原氏、源氏公卿、学者らの同意があったことが時平を後押しし、支配的な空気を決めていった。権力者たちはいつの世も猜疑心の塊であり、疑わずしては天下は取れず、権力の維持は不可能であることは歴史が示している。源頼朝は弟義経を疑い、足利尊氏は弟直義と息子直冬を疑い、いずれも死に追いやっている。徳川家康正室築山殿と嫡男信康を殺め、次男であるのに後を三男秀忠に譲らざるを得なかった結城秀康や乱行の六男忠輝を勘当し、大御所となってからも譜代の忠臣大久保忠隣が秀忠寄りであればあらぬ疑いをかけて改易し、伊達政宗に対しては死ぬまで警戒し続けている。藤原北家、藤原摂関家平安時代の半分以上を治め、栄華を築いたのは、猜疑心とそれを踏まえての行動がまことに巧みであり、権謀術数に長けていたからに他ならない。

道真の左遷は醍醐天皇のご本意ではなかったに違いないが、時平に屈するしかなかった。これを聞いた宇多法皇仁和寺よりただちに内裏へと向われ、醍醐天皇に翻意を促そうとされるも、内裏の門は固く閉ざされ、先帝とはいえ入ることはできなかった。法皇の参内を阻んだのは、道真とも親しい左大弁の紀長谷雄蔵人頭藤原菅根であったとも云われるが、彼らすら道真を擁護できないほど、朝廷は道真排斥が強い流れになっていた。宇多法皇仁和寺に戻られ、仏道に打ち込まれることになることは前回でも触れた。

失意の道真はありのままを受け入れて太宰府へと赴いた。或いは道真ほどの人物ならばこうなる少し前から、自分を排除する動きに気付いていたであろうし、その時点で弁明する気も失せていたに違いない。道真ならば弁明すれば論破も可能であったかも知れないが、もう道真には余力はなかった。左遷後のわずか二年後の延喜三年(903)、梅の香漂う二月二十五日に彼の地にて没する。享年五十九。

道真の居なくなった廟堂で、藤原時平は意欲的に政治改革に着手した。延喜二年(902)最初の荘園整理令を発布し、班田収受を励行、土地制度の刷新に努めた。また『延喜式』や『古今和歌集』の編纂を行った。醍醐天皇の治世を「延喜の治」と云うが、これは時平が政治力を存分に発揮したこと大である。その時平も道真の死から六年後、延喜九年(909)に三十九歳の若さで死去する。これが道真の怨霊によるとされ、以降はもっぱらその見解が取られるようになった。時平の死後、弟・忠平が朝廷の中心を占めるようになり、時平流は次第に没落してゆく。時平による陰謀ならば道真は冤罪を被ったわけで、怨霊となって不思議ではない。

道真の死後、宮中では不吉なことが相次いで起こった。『北野天神縁起絵巻』には雷神となって怒り狂う道真が、清涼殿に落ちようとした時に、時平が抜刀して「そちは存命中は予の次の位にいた。いま雷神となってもこの世では予には遠慮すべきだ」と睨みつけたところ、鎮まったと云う逸話が載せられているが、実際には時平の死後、本当に清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貴が即死し、他にも死傷者が出ている。時平の死の前年に道真左遷に加担した藤原菅根が急死。次いで時平も急死。そして道真の死から二十年後の延喜二十三年(923)、皇太子保明親王が二十一歳の若さで薨去。この親王は時平の妹の穏子が生んだ醍醐天皇の第二皇子で、時平が己の権勢を高めるために一歳で皇太子となられた。保明親王薨去は道真の怨霊に違いないと噂され、醍醐天皇は道真の右大臣への復帰と正二位を追贈し、左遷の証書を破棄せしめ、慰霊鎮魂のため延長と改元された。保明親王薨去に伴い、その皇子の慶頼王が皇太子になられたが、何とその二年後に五歳で薨去されたのである。慶頼王の母は時平の娘仁善子である。その五年後、例の清涼殿落雷があって、その三ヶ月後、ついに醍醐天皇は四十六歳で崩御された。子や孫に先立たれての心労がたたってのことであったことは間違いないであろう。道真の怨霊を鎮めるべく、京都の北野寺の寺内社である北野神社に祀られることとなった。十世紀にはさらに正一位太政大臣が追贈され、北野神社はいつしか北野天満宮と呼ばれるようになった。また大宰府の道真の墓所の上にも社殿が造営され太宰府天満宮になった。この両社が天神信仰の中心であり、歴代の為政者から庶民にまで幅広く崇敬を集め続けている。今では学問の神様として受験生はもとより、海外からも注目されるパワースポットとなった。菅原道真は祟り神から福の神となって、日本人がいる限り生き続けている。