弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一安和の変一

承平・天慶の乱が終息し、平安京には平穏な日が戻ってきた。しかしこの争乱が平安貴族に与えた衝撃は大きく、貴族社会の歪みを露呈することになった。今こそ朝廷の立て直しが急務とされた。朱雀天皇を継いだ村上天皇醍醐天皇の第十四皇子で、母君は藤原基経の娘で中宮穏子。朱雀天皇とは同母弟であったため、兄帝の信頼も厚く、皇太子となる前から太宰帥などを歴任し存在感を示されていた。天慶九年(946)四月、譲位により践祚、二十一歳で即位された。即位後しばらくは廟堂を支配していた藤原忠平の牽引に任せておられたが、忠平が没すると、藤原氏の専横を戒めるかのような行動に出られる。周知のとおり平安時代前期は天皇家と諸家vs藤原摂関家の権力闘争、これがパターンであり、主導権争いを繰り返した。軍配は村上天皇の頃までは五分五分であった。

忠平の死去を機に村上天皇は親政を目指された。藤原北家の実頼、師輔兄弟の輔弼を受け、菅原文時らの意見を聴きながら政務をとられた。国司功過や租税確保などの公事を整え、倹約と諸芸文筆が奨励された。天皇御自身も詩歌管弦に優れた文化人であられた。村上天皇は多くの子女を設けられたが、第七皇子の具平親王臣籍降下してその子孫が後に村上源氏の中心を担っていった。親政は形ではうまく運んでいるかに見えたが、徐々に実権は藤原北家に奪われてゆく。実は村上天皇の親政は名ばかりの親政であったとも云われる。それでも御在位十七年間、摂関を置かなかった事実は一定の力を認めなければならない。村上天皇の親政は後に天暦の治と呼ばれ、祖父の宇多天皇の寛平の治、父の醍醐天皇の延喜の治と並び聖代視されたが、これが曲がりなりにも機能した最後の天皇親政であった。ずっと後に、白河天皇後白河天皇が力を有して政をやるが、これは天皇の位を退かれて、院にお成りになってからのことである。

一方の藤原北家は良房、基経、時平、忠平と着実に権門としての道を進み、廟堂を抑えて、公卿のトップに君臨した。忠平の時に、天皇が幼少期には天皇に代わり「万機を摂行」するのが摂政で、天皇元服後に天皇を補佐し、政務に「関り白す」のが関白と云う摂関の使い分けが明確になった。この令外官の最高職を藤原北家が独占する。貴族の中の貴族とは藤原北家のことである。そしてお家芸とも云える他氏排斥を繰り返し、いよいよその地位を盤石たらしめた。忠平を継いだのは嫡男の藤原実頼でこれが左大臣、そして次男師輔が右大臣として実頼を支えた。が、実質は右大臣師輔が政を仕切ったとも云われる。栄花物語には「一くるしきニ」とあり、これは「一の人」すなわち左大臣がその地位にいることが苦しいほど、「ニの人」すなわち右大臣が優れていると云う意味である。風流人だが気難しい兄実頼よりも、弟師輔の方が政治家としても文化人としても、度量の大きな人物であったと云う。師輔は『九暦』と云う日記を残し、『九条年中行事』を著した。また貴族の男子が守るべき日課や生活態度、公卿としての心得を子孫のたみちに家訓として著したのが『九条殿遺戒』である。こうしたことが嫡男実頼より、師輔が藤原北家の中心に据えられてゆくきっかけになった。

村上天皇後宮は華やかであったが、中でも師輔の娘の安子は第二皇子憲平親王、第四皇子為平親王、第五皇子守平親王を産み、他に四人の内親王を産んだ。いかに村上天皇の寵愛を受けていたか知れるが、ここに師輔は大きな期待を抱いたであろう。唯一の気がかりは第一皇子広平親王の存在であった。広平親王藤原南家出身の祐姫で、その父は大納言藤原元方。南家はこの頃には学者貴族になってふるわかなかったが、広平親王が産まれたおかげで、元方は参議から大納言に昇進している。北家に限らず、平安時代を通して外戚と云うものがいかに重んじられたか、この一例からもわかる。祐姫は更衣で、安子は女御であった。後宮での序列は更衣より女御が上である。これが決定打になったのかわからないが、第一皇子の広平親王がいたにもかかわらず、第二皇子の憲平親王が生後わずか三ヶ月で立太子されたのも、師輔の先手によるところ。が、その矢先の天徳五年(960)、桓武天皇以来の内裏が焼失してしまい、同年師輔は他界した。そして五年後に安子が死去、さらに三年後の康保四年(967)五月、村上天皇は四十二歳の若さで崩御された。天皇として崩御され、皇太子憲平親王が十八歳で践祚、即位された。冷泉天皇である。

冷泉天皇は元来が病弱であられた。加えて奇行も多かったと云う説もある。師輔、安子、村上天皇が相次いで亡くなったり、冷泉天皇の狂気は南家の元方の怨霊の仕業であると、『栄花物語』も『大鏡』も後の『平家物語』でも語られてはいるが、いずれも世の人々の付会にすぎまい。この時師輔の子の伊尹、兼通、兼家らはまだ若く、冷泉天皇の大叔父でもある実頼が廟堂のトップに返り咲いて関白となっている。忠平の死去以来関白が絶えて以来十八年ぶりであった。これ以降、藤原北家摂関政治を強固にし、これが連綿と続いてゆく。師輔の子らは北家ことに師輔流の勢力拡大に努めた。冷泉天皇はまったく政に関わることがなく、廟堂の主導権争いは公卿らの間で必然的に激化した。冷泉天皇の次の東宮には同母兄の為平親王ではなく、守平親王が選ばれた。このことが歴史上重大な要素を帯びてくる。安和の変はこのような中で起きる。

廟堂は実頼が関白太政大臣となり、次席の左大臣源高明であった。源高明醍醐天皇の第十皇子で、臣籍降下して源氏性を名乗っていた。英邁であったと云う。二十六歳で参議公卿となり、順調に昇進を重ねて、兄弟である朱雀天皇村上天皇を支えた。実頼や師輔との関係も良好で、藤原北家以外で唯一廟堂にて影響力を高めつつあった。師輔が亡くなった後は高齢の関白実頼ではなく、実質的には高明が政を仕切ろうとした。村上天皇や師輔が亡くなると孤立することもあったが、元来、政治力、経済力も傑出した存在であったのだ。北家の面々、ことに師輔の子らは、廟堂でずっと先をゆく高明の活躍を面白く思わない。加えて高明はこの時点で藤原北家よりも強い外戚関係を天皇家と築いていた。高明は師輔の娘を妻とし、生まれた娘を為平親王に嫁がせていた。為平親王皇位を継ぎ、皇子が産まれて世継ぎとなれば、高明が外祖父になる。藤原北家にすれば他氏が藤原氏以上の外戚関係を持つことは許されないことであった。安和元年(968)、冷泉天皇に入っていた伊尹の娘懐子が第一皇子師貞親王を産んだ。後の花山天皇であるが、北家としては何としてもいずれは師貞親王皇位を継がせたいと画策するのは当然であろう。

翌安和二年(969)の晩春、中務少輔橘繁延や左兵衛尉源連らが東宮守平親王廃太子を企てたと、左馬助源満仲前武蔵介藤原善時らが廟堂に密告、源高明が裏で糸を引いているとされ、高明は六十八年前の菅原道真と同じく太宰府に流された。源高明藤原北家を陥れようとしたと云われたが、この事件の真相は謎である。密告の内容も明確ではなく、企てた者、密告した者も廟堂の中枢ではない者だ。これはやはり陰謀であろう。事実、歴史家の間でも陰謀説は有力で、密謀を企てたのは何おう藤原北家に違いない。実は密告した者は、藤原北家師輔流の従者で、このあとも子々孫々摂関家に仕えている。対して企みを暴露され左遷された連中は、彼らのライバルであった。すなわち源高明を追い落としたい藤原北家が、従者らを使って彼らのライバルに罪を被せた陰謀事件であると云う、この事件の構図が浮かび上がる。関白実頼は七十歳の老齢であり、自らも名ばかりの関白と認めており、安和の変を主導したのは、明らかに師輔流の伊尹、兼通、兼家、師尹の兄弟であった。

藤原氏による他氏排斥は、良房以来、いや古くは乙巳の変を首謀したひとり藤原氏の始祖鎌足にまで遡る。まさにお家芸であると云われる所以である。その総仕上げが安和の変であり、安和の変藤原氏の他氏排斥の最後の事件であった。これでもう北家を中心とする藤原氏に拮抗する勢力はいなくなり、他氏排斥を成し遂げた藤原氏は、以降、兄弟間や叔父と甥との間、つまりは北家内部の同族間で骨肉の争いを繰り広げることになる。