弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

Tribute to Symboli Kris S

先週、シンボリクリスエスが逝った。 彼は私の最強馬であった。 一点の白もない黒鹿毛は、パドックでは光度により青鹿毛にも見えた。あの他馬を威圧するように歩く様は、まさしく王者の風格を纏っていた。 新馬勝ちして、2勝目を挙げるまで4戦を要した。足踏みしたのは、1レースごとに背中に疲れが出て、疲労回復に時間がかかっていた。歯痒いレースが続いたが、陣営はこの馬は必ず大成すると信じていた。外国産馬には珍しいが、こう云う叩き上げっぷりもまた愛嬌さえ感じてしまう。

タニノギムレットにあと一歩及ばなかった日本ダービー青葉賞で騎乗した武豊騎手は「この馬は秋になったらさらによくなる」と、藤澤和雄調教師に伝えたと云うが、それは本当であった。 シンボリクリスエスは三歳で天皇賞秋を制し、岡部幸雄騎手にG1レース最年長勝利をプレゼントした。三歳馬の天皇賞制覇は同厩の先輩バブルガムフェロー以来であった。 そして有馬記念も勝って、彼は年度代表馬の称号を得る。

四歳時はわずか4戦のみ。春の宝塚記念は5着。掲示板は確保するも、生涯唯一の3着以下と惨敗。シンボリクリスエスは追えば右に寄れる癖があったそうで、それは前年の有馬記念でも見せていた。宝塚記念はその癖が一番悪い形で出てしまった。海外遠征のプランもあったが、宝塚記念を負けたため、シンボリクリスエスは再び休養に入る。その間、藤澤厩舎、シンボリ牧場外厩のスタッフはシンボリクリスエスに心身のケアを施しながら、どうすれば直線ゴールまで真っ直ぐ走らせることができるか模索した。藤澤調教師が導いた答えは、レース前はなるべく右回りでは調教しないと云うことだった。シンボリクリスエスが右に寄れるのは、特に右回りでひどくて、左回りではほとんどその癖を見せなかった。右回りが癖を助長するゆえに、左回り、左回りで稽古をし、少しずつ真っ直ぐ走らせることを身体に染み込ませたと云う。成果は歴然であった。四歳秋、シンボリクリスエスは最後の有馬記念まで寄れる癖は一度も見せなかった。

王政復古の秋。シンボリクリスエス天皇賞秋と有馬記念を連覇して、サンデーサイレンス産駒の全盛期に2年連続で年度代表馬となったのである。2つのG1レースを連覇した馬は彼しかいない。有終の美を飾って、惜しまれつつ引退したが、格好良すぎる最高の引き際。まさしく”天高く馬肥ゆる秋”を体現した名馬であった。

有馬記念連覇はスピードシンボリシンボリルドルフグラスワンダーに続く史上4頭目で、シンボリ牧場の御家芸であると世に知らしめた。 9馬身ぶっちぎりのラストランも凄かったが、私は三歳の時の有馬記念が一番印象に残っている。大逃げしたタップダンスシチーは4コーナーでもまだ10馬身はあって、絶望的な差。しかしシンボリクリスエスは、ゴール板10mほど手前で捕まえて、抜き去った。彼はあたかも獲物を捕らえる黒豹の如く見えた。あの日、私は彼の虜になった。

 種牡馬としてはエピファネイアを輩出し、2017年のダービ馬レイデオロの母の父としても血を繋いだ。今年、無敗で牝馬三冠を達成したデアリングタクトは孫である。タラレバが許されるのなら、シンボリクリスエスが、サイレンススズカエルコンドルパサーディープインパクト、アーモンドアイら歴戦の優駿と走る姿が見たかった。仮にそのレースが有馬記念ならば、何度走ってもシンボリクリスエスが一番強いと私は思う。今頃は天国で彼らと競争しているかな。

シンボリクリスエスは私にサラブレッドの強さと美しさを教えてくれた至高の駿馬であった。 さらば漆黒の帝王。君を忘れない。安らかに眠れ。