弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一中関白家一

前回、平安時代摂関政治を代表する人物藤原道長がついに登場したが、少し話を戻そう。平安時代も此処からが山である。よって少し丁寧に紐解くことにする。そして道長がどのようにして政権を掌握し、また彼の栄華の頃がどんな時代であったかをしばらくは見てゆきたい。

前回述べたとおり、道長の父の右大臣藤原兼家は、花山天皇を出家に追い込み、外孫にあたる一条天皇を謀略を持って即位に導いた。一条天皇円融天皇の第一皇子として天元三年(980)にご誕生。母は兼家の娘詮子である。花山天皇東宮に立った時は五歳、そして践祚された時が七歳。天皇の外祖父となった兼家は待望の摂政となり、藤氏長者となる。これにより関白の藤原頼忠は辞任し、太政大臣となった。一ヶ月後、兼家は右大臣を辞したが、これには意図があった。兼家が右大臣のままでは議式などで最上位の席につけないのである。兼家の上席には太政大臣頼忠と左大臣源雅信がいた。そこで兼家は右大臣を辞することで太政官の機構を離れて、摂政として如何なく権力を行使することを考えたのである。これまで摂関は大臣の兼務という形が、このとき崩れたことになる。これまで摂関はほとんどが太政大臣となったが、兼家の場合は太政大臣のポストが空いていなかったため、あえて大臣の序列から離脱したのである。

兼家には「准三宮の詔」が下された。これは太皇太后、皇太后、皇后に待遇を準ずるの意で、さらには摂政は三公(太政大臣左大臣、右大臣)より重き職で、座を三公の上とする「一座宣旨」も下された。詔や宣旨は一条天皇の御名によって下されたが、むろん政務を代行した兼家本人が出したものである。兼家の摂政就任は、これ以後、摂関の地位に変化をもたらした。もともと摂関は大臣を本官とするポストであったのが、律令官職を超越した最高職の地位となったのである。また太政大臣と摂関が分離したことで、これまでは太政大臣は摂関のみであったのが、これ以後の太政大臣は実質的権力とは一致せず、長老や天皇外戚を処遇するために名誉職的な意味合いが強くなった。さらには摂関と藤氏長者は一体のものとなるなど、摂関の地位は太政官の政務から離れることによって飛躍的に高まったのである。これ兼家の豪腕によるところ大である。永延二年(988)春、兼家の還暦の宴が法性寺で開かれ、さらに秋には新造成った二条京極邸で盛大な饗宴が行われている。ここが兼家の絶頂であり、もはや並ぶ者なき藤原摂関家の天下を世に知らしめたのである。翌永祚元年(989)頼忠が没すると兼家は太政大臣に就いた。

そして兼家はあとに続く息子達や一族を、これまた強引な手法で昇進させてゆく。これには摂政の権限をフルに活用した。まず、一条天皇の即位直後に、詮子を皇太后に引き上げた。詮子は円融天皇の女御であるが皇后ではない。しかし一条天皇の生母であり国母となったことで皇太后となられた。さらに冷泉天皇第二皇子の居貞親王元服を、兼家の南院邸で行い、その日に立太子が相成った。後の三条天皇である。兼家は天皇と皇太子の外祖父となり、その権勢は磐石となった。

兼家の長男道隆は、一条天皇の即位前は非参議で従三位右近衛中将であったが、即位直後から異常なほど急激に昇進する。詮子が皇太后となった当日に、その兄弟と云うことで、参議を経ずに権中納言となり、皇太后宮大夫を兼ね、四日後には詮子が参内した賞として正三位、居貞親王立太子の際に中将を辞して、さらにその四日後に権大納言、二日後の一条天皇の即位礼において従二位、さらに五日後に正二位となっている。わずか一ヶ月の間に、これだけ昇進したのは例のないことである。四男の道兼は、花山天皇の蔵人で、前回述べたように花山天皇譲位の立役者であったが、一条天皇即位とともに蔵人頭従四位下、右中将、参議とこれもほぼ一ヶ月での昇進。さらに三ヶ月後に、従三位中納言、一週間後に正三位となっている。それまで昇進が抑えられてきた反動とも云えるが、それにしても前代未聞のスピード出世であった。

さて兼家五男の道長であるが、一条天皇即位直後に従五位上蔵人となり、正五位下少納言、左近衛少将従四位下と半年で進み、年が明けて、従四位上、九ヶ月後に左京大夫正四位下をとばして一挙に従三位となり、翌年正月、参議を経ずに権中納言に昇進した。道長、この時まだ二十三歳。先例もなき若さであった。兼家は息子達以外にも道隆の息子伊周など、孫の世代も積極的に昇進させており、あとの道筋を確かなものとすべく腐心した。兼家は内裏内の摂政の宿所である直盧で徐目や叙位を行った。廟堂の人事権を掌握することで、兼家は朝廷の最高権力者となったのである。しかし兼家は摂政として独裁者になったわけではなく、廟堂には太政官政務の励行を求めており、決して自分の周囲のみ優遇したわけではなかった。また人事や政については一条天皇の父円融院に奏上し承認を得ている。事実、円融院、摂政兼家、そして廟堂公卿による合意の上で政権運営をしたのである。息子たちもこの父のやり方を取り入れて、藤原摂関家は隆盛を迎えるのであった。永祚二年(990)、不遇を囲った前半生と我が世の春を謳歌した後半生に想いを馳せながら、藤原兼家は六十二歳で亡くなった。

摂関を継いだのは嫡男道隆で、氏長者も引き継いだ。兼家存命中に道隆の娘定子が入内し女御となった。兼家は摂政を辞して関白となるが、すぐに道隆に譲り、道隆は関白を辞して摂政となった。兼家亡き後、道隆はすぐさま定子の立后に動いて中宮とした。中宮とは、正式には太皇太后、皇太后、皇后の総称であるが、平安時代中頃からは皇后を中宮と呼ぶようになった。すなわち定子を皇后に立てたわけだが、実は皇后には頼忠の娘で円融院の后遵子がいて、これを皇太后に繰り上げようにも、皇太后には詮子がおり、太皇太后には冷泉天皇后の昌子内親王がいた。つまり后のポストは満席であったのだ。そこで道隆は遵子皇后はそのままにして、遵子に仕える役所の中宮職皇后宮職と改めて、定子に仕える役所を中宮職とした。後宮に四后が並び立つのは前代未聞の異常事態であったが、このあと道長がさらに凄いことをやってのけるのである。平安時代のこの頃、摂関の力が強くなればなるほど、朝廷には様々なる歪みが生じ始めていた。それでも強引に事を推進したのが藤原北家の面々であり、権力への執着心は凄まじいものを感じる。

正暦二年(991)、円融院が崩御された。皇太后詮子は落飾され東三条院となられたが、これが女院号の嚆矢である。女院太上天皇の例に倣い院分受領と云う受領の推挙権が与えられた。こうして円融院の権威をも引き継いだ東三条院は、一条天皇の国母として、また道隆や道兼の妹として、道長の姉として摂関家を支えた。東三条院の発言力は絶大で、しばしば政に口添えをしたと云う。それを藤原実資は『小右記』において非難している。こうして道隆は自らの近親である一条天皇の妻と母の権威を、制度的に高めることで権力基盤を固めたのである。一条天皇が十四歳になると摂政を辞して再び関白になり、五年間は権力を独占した。道隆は一家の官位も引き上げ、次男伊周にはことに目をかけて、わずか二十一歳にして内大臣に据えている。これまた前代未聞の若さで、この時に権大納言であった叔父道長を抜いてしまい、これ以後、道長と伊周の対立が始まったのである。道隆を「中関白」と云い、道隆一家を「中関白家」と云う。この呼称のいわれは諸説あるが、次に長期政権を握る道長の「御堂流」までの中継ぎの関白の意ではないかと云う説を私も採りたい。 中関白家の栄華は、定子のサロンの中心にいた女房清少納言の『枕草子』にも多く記されている。しかしそれは道隆が四十三歳で亡くなるまでであった。道隆の死は流行り病の麻疹とも云われるが、実際は持病の糖尿病であったと云う。『大鏡』にも「御酒のみだれさせ給」と記されているが、道隆はかなりの大酒飲みで、酒癖も悪く、半ばアルコール中毒であったとも云われる。長徳元年(995)三月、死期を覚った道隆は、伊周を後継とし、関白職を代行させるよう一条天皇に奏上したが、ついに天皇は許されなかった。伊周には才能はあったようだが、いかんせん人望が薄くて、祖父や父ほど廟堂においての権力基盤はなかった。これを見抜かれた十六歳の一条天皇は英邁であられたと思う。