弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

十年

あの日から十年の歳月が流れた。平成23年3月11日14時46分、私は東京中野、自宅近くの商店街で買い物をしていた。あの日は金曜日だったが、仕事は休みであった。携帯で九州の母に電話をかけながら、八百屋で野菜を見ていた時、店の窓がカタカタと鳴り始めた。地震だと思ったと同時に窓の音はカタカタからガタガタに変わって、グラっと縦に揺れたかと思うと、すぐさま横に大きく揺れ始めた。周囲の建物がおもちゃの様に揺れ動くのがはっきりとわかる。ずいぶんと長く揺れたように感じた。震源三陸沖で、マグニチュード9.0と云う我が国観測史上最大の地震であった。本震の最大震度は宮城県栗原市震度7岩手県宮城県福島県、栃木県、茨城県、千葉県、埼玉県の各地で震度6強や6弱が多発した。東北では震度4以上の揺れが190秒程度で、うち震度5強以上の揺れが40秒、5弱以上が70秒であったと云うから想像を絶する。東京の本震は最大震度5強で130秒間揺れ続けた。私には5分以上に感じたが、このあと立て続けに大きな余震があったせいかも知れない。私のそばには下校中の小学生の男の子がいて、恐怖で声も出ない様子。私は咄嗟においでといって、庇う様に道の真ん中に誘導した。地震中も母と電話をしながら私は「やばい、やばい」と連呼していた。そして電話は途切れてしまった。このあとしばらくは混線で通話不可となった。

揺れが収まってもすぐにまた大きな余震がやってきた。自宅へ戻ってからもずっと揺れていた。食器や本などが一部散乱していたが、東北ほどの大きな被害ではなかった。テレビをつけると震源三陸沖で、これから大津波が来ると喧伝している。窓をあけるとあちこちからけたたましくサイレンの音が響いてくる。私は近くで火災が起きていないのか心配になり、マンションの屋上へ上がってみた。幸い近所での火災は今のところ起きてはいない。マンションの屋上からは、都庁をはじめ西新宿の高層ビル群が一望できたが、目を凝らすと何棟かの高層ビルがゆっくり揺れているように見える。こちらも気が動転していたので、どのビルであったのかはっきり覚えてはいない。超高層ビルは耐震構造上あえて大きく揺れるように設計されているビルもあり、上に行けば行くほど揺れるそうである。おそらくあの時私が目撃したビルの大きな揺れもそのような構造のビルであったのだろう。

が、もっと驚いたのは、新宿上空に漂う不気味な雲であった。真っ黒だが、雨雲ではなく、事実そのあと雨は降っていないのだが、何か今起きていることは、この黒雲の仕業なのではないかと思うほど、気味の悪い雲であった。 部屋へ戻ってテレビを見ると、まさに今、大津波が東北沿岸に到達するという知らせであった。夕方以降、この大津波のあらゆる角度で撮影された映像が流れたが、私が生きてきた中で、もっとも衝撃的かつ恐怖に慄いた映像であった。高台で子供が泣き叫び、大人たちが震えている。そして翌日には福島第一原発が水蒸気爆発を起こしてしまい、世界の原発史上チェルノブイリに次ぐ最悪の事故となった。これは大震災が誘発したが、人災であった。これから日本はどうなるのか。このあとひと月ほど、私はそればかりを思った。私が物心ついてよりこのかた見た戦慄の映像が、日航機墜落事故阪神淡路大震災地下鉄サリン事件アメリ同時多発テロイラク戦争などで、いずれも心を抉るように鮮明に記憶する映像である。が、東日本大震災はそのどれよりも重く私にものしかかった。自分も震度5強と云う揺れを実体験したからゆえであろうか。

警察庁の発表では死者は1万5900人。未だ行方不明者は2525人に上る。震災関連死を含めると2万を超える方が亡くなった。原発を含めた東日本大震災の最大避難者はおよそ47万人で、未だに避難生活を強いられている方はなんと4万1000人もいる(いずれも令和3年2/26復興庁発表)。真の復興とは程遠いのが実状である。余震は数年にわたり続き、つい先月も大きな余震があったばかり。復興途上での災禍は物理的、経済的な損失以上に、修復中の人の精神力を削ぐ。

 私の人生において、東日本大震災の前と後では、あきらかに物事に対する見方、考え方、その後の行動というものが大きく変わった。あまりのショックで一年くらいは文章もかけなかった。しかし、私の体験など、東北の人々、ことに沿岸部で津波原発の被害に遭われた人々に比ぶべくもない。東日本大震災について私がここで事新たに語ることはない。それでも記憶を残し、節目の年だからではなく、せめて毎年「3.11」には思いださねばなるまい。あの日を生きた者の一人として後世に伝える義務があると思う。

二年前の夏、私は友人と陸前高田に行った。平泉に行く途中で、どうしても「奇跡の一本松」を見たかったのである。高田松原は跡形もなく、気仙中学校は目も当てられぬ姿。復興は遥か道半ば。しかし、美しい山海両方を持っている陸前高田雄大な眺めは、昔と変わらない。美しい陸前高田は一歩、一歩蘇りつつある。一帯は高い防潮堤や、堅牢な水門が築かれ、鎮魂の公園を国が整備しているが、それには少し違和感がないわけでもない。が、ここで暮らす人々には必要であり、もしも自分がここで暮らしているなら、それを切に望むであろう。松原も植林されて再生を図るらしい。自然に逆らうことなど、人間には不可能だが、出来うる限り受け入れながら、共生する道を模索することは、何も被災地に限ったことではない。ようやくここに来れた。しみじみとそう思った。帰り際、一本松に野の花を手向けた。

十年を経てもまったくの道半ばである。私たちは今、コロナ禍と云う新たな脅威の真っ只中にあって、この一年、人類はコロナに翻弄されてきた。ようやく立ち上がりかけていたのに、もう立ち上がれなくなった人もいるかも知れない。ワクチン開発がされて、日本でも接種が始まったが、私はコロナ禍を完全に脱却するにはこれまた十年かかるのではないかと思う。あくまで私見であり、まったくの素人の推測に過ぎないが。しかしワクチンができたといってすぐに収束するとは到底思えない。変異種も次々に現出し、ここまで世界中に広がってしまうと、収めることは容易ではないだろう。日本のみならず世界でもワクチンを打つのを躊躇う人もいるだろうし、そもそもワクチンとは何かと云う疑問が、今さら起こっていたりもする。

「さて、これからどう生きてゆくのか。」

東日本大震災から十年、そしてコロナ禍の今、私は毎日このことばかり考え続けている。死ぬまで問い続けることになるのかも知れない。しかし、自らに問い続け、少しでもより良い方向にゆくにはどうすべきか、それは個々の人生についても同じで、渡世とはその延長線上にあるのだ。思考し行動することは動物でもできる。では私たち人間はどうすればようのか。人間の罪は大きい。しかし、人間にできて動物にできないことがひとつだけある。それは律することだ。人間本位の考えを改め、環境を守り、整えながら生きてゆく。私たち人間は地球規模で物事を見据えることができる唯一の動物なのである。そこで一人ひとり、まずは日本人としてどう生きてゆくのか。昔の人々の智恵を拝借しながら、慎ましく安穏に生きてゆくためにどうすればよいか。今、この時ゆえに考えて生きたいと思う。