弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

多摩丘陵に棲む〜梅ヶ枝〜

週末は自宅近くの多摩丘陵を歩こう。『きつねくぼ緑地』は、バスで毎朝前を通るので気になっていた場所。散歩がてら入ってみた。鶴川街道沿いの入り口を入ると、空気が変わった。武蔵野の面影を多分に残す雑木林や竹林には、たしかに今も狐狸が棲む雰囲気が漂う。途中、池もあったりして、少々薄気味悪いところも私には好ましい。この日も誰もいない池の向こうの藪の中をしきりに何かが蠢いていたが、あれは狐か?狸か?野鳥か?それとも…。丘を登ってゆくと視界が開けた。冬枯れの広場は明るくて気持ちよく、早咲きの梅の香がしてくる。他にも多くの木々が植えられていて、四季折々楽しめそうだ。高台からは都心のビル群もよく見えた。広場の反対側には『旧白洲邸武相荘』があるが、行き来はできない。そう、此処は武相荘の裏山なのだ。昔は武相荘とは地続きで、きっと次郎さんや正子さんの散歩道であったと思う。ちなみに此処には昔、”お化けマンション”なる廃虚があった。昭和四十二年(1967)から大規模なマンション建設が始まったが、その土地が許可を得ずに造成されていたことが判明し、土地の所有権をめぐって裁判となり工事は中断。同時に建材が基準を満たしていないことも発覚、工事再開は不可能となった。結審まで現状を維持する必要があることから取り壊せず、外壁のない異様な姿のまま放棄された。これが”お化けマンション”と呼ばれるようになったのである。廃虚の独特のフォルムが絵になると、1970年代の特撮作品で、よく使われたそうだが、ついに平成三年(1991)取り壊されて、跡地に緑地が整備された。辿ってきた過程もどこかミステリアスな『きつねくぼ緑地』である。

水辺が近くに在ることは、暮らしを豊かにしてくれる。多摩は海からは少し離れているが、川や池沼は数多ある。水質も23区よりはるかに良い。自宅から至近にある『広袴公園』は、真光寺川の調整池が中心にあって、中洲には葦が生い茂り、水鳥や野鳥が羽を休めている。展望デッキからの眺めはとても開放感があって、深呼吸したくなる。園内には桜がたくさん植えてある。一昨日、確認してきたが、蕾は真っ赤になっていたから、もうまもなく盛りが来るだろう。

広袴公園を南へ少し登った丘に鎮座するこの広袴神明社は、このあたりの鎮守なのだろう。此処から1キロほど西へ離れた妙全院と云う寺が別当寺だとか。ささやかな社だが、さすがは神明社。御祭神は天照大御神。 参道、鳥居、拝殿、幣殿、本殿が太陽光線の一直線上に在る。私は赤い夕陽に導かれるように参道を昇っていった。

また別の日、梅が見頃になったと聴いたので『薬師池公園』出かけてみた。町田市では有名な大公園で、美しい池の眺めは「新東京百景」に選ばれている。西園にあるカフェ”44APARTMENT”で、遅めのランチ。カフェでは地産の食材を使った美味しい料理やスイーツをいただける。薬師池公園は、最近西園が整備された。多摩丘陵の真っ只中に在って、ちょっと洒落た雰囲気。地元野菜の直売所もあり、野菜の他にも地産の米、手作りのお菓子に、地元作家の器や工芸品も売っている。私も春野菜とコーヒカップを買った。つづら折りの芝生の丘や森はまだ冬枯れであったが、北欧の田舎を彷彿とさせる荒涼とした景色はむしろ開放感にあふれて、とても気持ちが良い。此処も私の散歩のレギュラーコース確定。

公園の一番高いところに在る『野津田薬師堂』は、薬師池の名の由来の御堂。正式には普光山福王寺と号す。創建は天平時代で、行基が開創したとされる。町田市でもっとも古い寺だ。もとはもっと北に在ったが、新田義貞の兵火によって焼失し当地へ移されたと云う。元弘の乱のことであろうか。今、北の地には薬師堂を管理する別当の華厳院と云う寺が在る。 脇侍に日光月光両菩薩と十二神将を従えて鎮座する本尊は、行基作と伝わる秘仏で、十二年に一度”寅年の春”に御開帳される。一年後の拝観が楽しみだ。総欅造の御堂は明治十六年(1883)の再建で、笠の様な大屋根は一見すると社殿を彷彿とさせる。神仏混淆の名残りであろうか。が、後姿はたしかに寺だった。

梅林には、250本もの紅梅白梅が植えられている。薬師池に近づくに連れ、風にのってほのかに梅の香が漂ってくる。早咲きの桜はすでに満開で、入り口で出迎えてくれた。この日はあいにく雨もよいの曇天であったが、満々と水を湛える薬師池のエメラルドグリーンがかえって映えて見える。すると池に架かる太鼓橋の向こうに、花の雲が現出した。梅林は聴きしに優る見事さで、これだけの数が一同に今を盛りと咲き誇る。木は若木ではなくどっしりとした老梅に見える。夢の様な光景に、しばし茫然と立ち尽くしていたが、やがてあたりに漂う芳しい香で我にかえった。薬師池は花の園。桜、牡丹、えびね、藤、花菖蒲、紫陽花、蓮、ダリア、菊、椿、そして錦秋の紅葉。折々楽しみである。梅は百花の魁と云われるが、そろそろ終い。ほころび始めた今年の桜を観に行かねば。春は重畳と連なる花の乱。 百花繚乱中、私とて居ても立っても居られない。春の胸中は業平の歌が常に駆け巡っている。

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

今年も春が来たことを寿ぎたい。