弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一藤原道長一

藤原道長摂関政治の完成を実現した。平安と云う時代を代表する人物であり、まさに王朝時代の申し子であったと云えよう。祖父、父が敷設したレールの上を着実に歩んできた道長だが、当初はその本線ではなく支線であった。しかし、兄二人の相次ぐ急死と、本線を継ぐはずであった甥の伊周が墓穴を掘るように脱線してしまったことで、「一の人」となった道長はまさに運も味方したと云えよう。

名だたる研究者も道長ほどの強運の持ち主はいないと言う。道長は元来病弱であった。二人の兄よりも先に死ぬだろうと思われていた。多くの持病を抱え、壮年になると糖尿病も患っている。道長は何か大きな事を成すと伏せってしまうことが多かったと云う。彼の自筆の日記『御堂関白記』にはその事実が赤裸々に綴られている。それでも当時としては高齢の六十二歳まで生き抜いたのだ。これは道長に天命を全うすべく神仏より運を授けられたとしか言いようがない。それを道長本人も充分に自覚して、摂関政治の完成に邁進したのである。世もまた不世出の大貴族に傾倒し、藤原道長を中心に据えた。およそ四百年続く平安時代、人々は戦乱や飢饉、疫病蔓延など、常に混沌とした日々に嫌気がさしていた。貴賤の別を問わずに、泰平安穏な世が訪れることを切に願った。そして強力なリーダーが現れて、世を牽引することを暗に希望していたに違いない。

 伊周が失脚した長徳の変のあと、道長は空席となっていた左大臣に昇進した。内覧、左大臣となり、道長が名実ともに廟堂の頂点に立った。一条天皇の母の詮子が道長の姉であることから、天皇とはすでに外戚関係ではあったが、さらに磐石とするために自らの娘を天皇に嫁がせて、皇子が生まれたならば皇位につけて、外祖父として安定的な政権運営をしようと試みることになる。そして長保元年(999)、道長は長女の彰子を女御として入内させた。彰子この時十二歳。一条天皇にはすでに兄道隆の娘定子が中宮として入っており、天皇から寵愛を受けていた。定子の御座所には清少納言が女房として仕えており、文学や和歌に造詣深い天皇を惹きつけていた。翌年道長は定子を皇后、彰子を中宮にするという前代未聞の離れ業をやる。元来「中宮」と「皇后」は同義語であり、一人の天皇に皇后と中宮が並ぶ「二后並立」はありえなかった。これを力強く推進したのも、道長の権力基盤固めに対する執念が如実に現出した証拠である。

しかし一条天皇の定子への御寵愛はますます深まり、十三歳の彰子のもとへはほとんど通われることがない。入内から六年経っても皇子が生まれる気配はなかった。道長は定子に対抗するにはいかにすればよいか思案した。若い彰子は定子の色香には及ばない。そこで、彰子には定子を超越するほどの教養を身につけさせることにした。白羽の矢を立てたのは紫式部である。後に『源氏物語』を著すことになる紫式部は、当時宮中でも評判の作家であり、歌人であった。その素養、教養は朝廷ではつとに聴こえており、清少納言と対抗するには唯一無二の人物であった。女流文学と云うよりも王朝文学を代表するこの二人の女房兼家庭教師が、それぞれ定子の御座所と彰子の御座所において文学サロンを展開してゆくことになる。どちらが当代一流の教養人たる一条天皇を惹きつけることができるのか、その命運は後宮のサロンに託されたのである。そしてその命運こそが、道長自身の命運なのであった。平安時代において、女性としての魅力、いわゆる美人の三大要素と云われるものは以下のとおり。

一、豊かな長い黒髪

二、和歌の達人

三、漢詩が詠める

つまりは、顔は不美人であっても美しい黒髪と教養があれば、美人であるとされ、男性からモテるのである。現代人の考える美人とはずいぶん違う。紫式部清少納言もこの点において、平安の超美人であった。

道長は彰子のサロンに莫大な資金を援助し、内外から書物、典籍を集め、彰子を囲んで女房たちに度々和歌や漢詩を詠む会を開かせすべてをバックアップした。金に糸目はつけずに、定子のサロンにはない書物を次々に取り寄せ、パトロンとして暗躍する。紫式部が『源氏物語』という大長編を続けて書くことができたのも、当時たいへん貴重であった紙や文房具を道長ぎ与え続けたおかげである。『栄花物語』には彰子のサロンが面白いと云うことを聞かれた一条天皇がある時彰子のもとを訪れ、紫式部がそろえた数々の珍しい書物を目にされて、「あまりに面白がっていては、政を忘れて愚か者になってしまう。が、どれもこれもすばらしい。」と仰せになられたとある。これより天皇は彰子のもとへ足しげく通われるようになったと云う。そして彰子の入内から九年が過ぎた寛弘五年(1008)、ついに一条天皇との間に皇子が誕生した。これが後の後一条天皇になる第二皇子の敦成親王である。待望の外祖父になった道長はこのあと権勢の絶頂期を迎えるのだが、親王御誕生と聴いた瞬間歓喜し、正妻の倫子と共に感涙に咽んだと云う。そして何と翌寛弘六年(1009)、第三皇子の敦良親王が御誕生。後の御朱雀天皇である。彰子は年子で皇子を産んだのである。道長にとって彰子は聖母にさえ見えたであろう。これにて道長の目指す外祖父としての政権基盤は磐石となった。

藤原道長と云う人は、平安王朝最高の権力者に上り詰めながらも、非常に情に厚い人で、涙もろい。左遷へと追いやった伊周が一年後に都へ戻ってきたが、その後は追い落とすことはせず、共に賀茂の祭を見に行ったり、宴席に招くなどして決して粗雑にはしなかった。道長は相手が敵ではなくなれば、撃ち方をすぐにやめて、余計な殺生はしない。根っからの貴族であった。この点は、平清盛源頼朝足利尊氏徳川家康など時代の覇者でたちと同類のようである。 一条天皇には定子との間に第一皇子の敦康親王がすでにいたが、外祖父の道隆は他界し、後継の伊周も失脚したため後ろ楯を失っていた。定子が亡くなると、敦康親王は彰子のもとで養育された。一条天皇がそのように願われたに相違ないが、道長自身も幼くして母を失った皇子を哀れに思ったのかこれを許している。そこにはもはや敦康親王は敦成親王の対抗にはならないという安堵感もあったであろうが、露骨とまではゆかぬとも第一皇子で世が世であれば東宮に立つるべきところを、大宰師などの閑職に留め置かれ、決して廟堂において発言権を与えられることはなかった。果たして敦康親王がお幸せであったかどうかわからない。この不遇の皇子はその後、二十歳の若さで薨去された。中関白家の血を引く皇子はいなくなった。 

 一条天皇は三人の可愛い皇子を残して、寛弘八年(1011)六月二十日病のため崩御された。三十二歳であった。その在位期間は二十五年だが、紅顔可憐な少年の頃に即位されて、外祖父の兼家、外戚の道隆、道兼、道長という三人の叔父たちのバックアップと監視と圧力を受け続けての窮屈な御生涯であったと思う。そして摂関家と云うものを確立せしめたのは、一条天皇の御在位が半世紀にも及んだことも一因でないかとも思う。

露の身の草の宿りに君をおきて 塵を出でぬることぞ悲しき

この歌は一条天皇の辞世の御製であると藤原行成の『権記』には記されている。果たして彰子に遺したのか、幼い三人の皇子たちか、はたまた愛する定子への挽歌を兼ねたのかわからないが、私には第一皇子敦康親王の行く末を慮って吐露された歌のように思われてならない。

藤原道長は伊周との権力闘争に打ち勝つと、その後、死ぬまで誰とも権力闘争をしなかった。摂関政治の隆盛を招いた道長家を御堂流と云い、道長以後は子々孫々この御堂流が藤原摂関家と呼ばれることになる。もう敵はいなかったと云うのが事実であるが、道長は和を持って尊しとなすと云う初代摂政聖徳太子を敬い、肖ったのではないかと私は思う。道長は伊周を完全に追い落とすことはしなかった。当面の敵である時は容赦はしないが、角がなくなった鬼には融和的に接して、無駄な遺恨を取り除く気配りをみせたのも、将来的に道長と子孫いわゆる御堂流の繁栄を考えてのことでもあった。 こうして王朝時代は藤原道長を主役に満開を迎えるのである。

 

多摩丘陵に棲む〜花だより〜

桜は人を酔わせ、惑わせ、狂わせる。 かくいう私も花の便りが聴こえ始めると、つい浮き足立つ。平静を装うふりをしても無駄で、今年何処の花に逢いに行こうと想いを巡らせる。毎年のことだ。 多摩丘陵はそこかしこ桜が植わっている。実際、私の自宅付近もソメイヨシノはむろん、山桜や八重桜も多く見られる。越したばかりの今年はひとまず、近所の桜を眺めて歩いた。

先日、梅だよりをお伝えした薬師池公園。梅はすっかり終わって、桜のたよりが届いたと思いきや、行った日にはもう満開であった。池の向こうにはぼんやりと花の雲。太鼓橋を渡って私は花の雲中に身を埋めた。この春芽吹き、今を咲き誇る草花たち。多摩丘陵も魔法をかけられたように彩られている。薬師池公園の西園には広い菜の花畑もある。菜の花を眺めていると、身も心もふわふわと浮遊してゆく。

広袴公園へ行った朝はらおりからの雨。公園に着いた時にはどしゃ降りになってしまったが、おかげで私は桜を独占できた。桜は朝日か夕陽に透かしてみると格別だが、雨中でも美しい。雫滴る桜は、より儚げに見える。

せっかくの花の宴。平日の閑散時を狙って、少しだけ足を伸ばすことにした。今年は栃木県下野市の”天平の丘公園”へ出かけた。此処にはかつて下野国国分寺国分尼寺が在って、今は天平時代の史跡公園となっている。園内には多くの木々草花が植えられ、四季を通して楽しめるが、主役はやはり桜。八重桜を中心におよそ五百本あまり植えられている。恒例の”天平花まつり”は昨年に続き中止だが、人影はまばらで、かえって静かに花とご対面できた。こちらには根尾の”淡墨桜”、山高の”神代桜”、三春の”滝桜”の日本三大桜や盛岡の”石割桜”など、名立たる桜の子孫樹が一堂に集まっており、子孫樹たちは坂東のど真ん中で、今、堂々と根を張って、枝を大きく伸ばしている。この春も彼らは一斉に咲き誇っていた。それにしても日本人の桜愛は深い。どこへ行っても桜は在る。この日私は、行きも帰りも”湘南新宿ライン”を利用したが、車窓からの眺めは格別。沿線はどこもかしこも花、華、桜。宇都宮線はこの時季”花見電車”になる。どうせならゆっくりとグリーン車を利用するのがお勧めだ。ことに蓮田駅近くの元荒川沿いは圧巻で、堤の上を延々と続く桜並木はすばらしい。帰りに見た夕陽に透かされた花は、この世ならぬ美しさであった。

陽春払暁。私は寝室の窓を開けると息を呑む光景が現れた。外はすでにうっすらと明るい。西の空へ隠れゆく望月、満開の桜花、そして鶯の目醒めの囀。陶然と眺めていると、心地良き春の風が頬を掠めた。 我にかえり、今度は深呼吸してみる。極楽浄土とはこんな場所なのではないかと思った。

この春は大和和紀さんの源氏物語あさきゆめみし”を拝読した。行く春に私もやはり荘厳華麗な”紫の上”を重ねてしまう。多摩丘陵へ越して来て、最初の春からすでに大満足だが、早くも来年の花が待ち遠しい。

皇位継承一七日関白一

藤原道隆が亡くなったのは当時流行していた赤斑瘡(あかもがさ)という疫病によるらしい。この病は麻疹だとか。長徳元年(995)のことで、夏には空前の猛威をふるったと云う。道隆の後は嫡男の伊周が継ぐものと、道隆も伊周もその周辺も思っていた。道隆のあとには有力な弟公卿の道兼、道長が控えており、道隆は自分の後を襲うのはこの二人の弟であることを強く認識しており、生前に自らの身内に優位な布石を随所に打っている。その最たるものが娘定子の入内でみごとに一条天皇中宮と成した。息子の道頼、伊周を台閣にいれ、また妻の父高階成忠をひきたてるなど八方に画策している。そしてもっとも期待して目をかけたのが、英邁な次男伊周であった。嫡男の道頼と次男伊周は異母兄弟で、道隆が次男の伊周に重きを置いたのは、母方の高階家を重用したいがためであった。ちなみに道頼の母方は山城守藤原守仁の娘だが、高階成忠は公卿に列せられており、身分の差が大きくものを云う平安時代にあっては、伊周が兄よりも出世してゆくのは当然であった。道隆は伊周を内大臣にまで引き上げて、この時点で権大納言であった道長を追い抜く。道隆は死の床にあって、伊周を関白に推すも、一条天皇は時期尚早としてこれを拒否した。しかし道隆の代行という形は認められて、道隆の病中のみ内覧の権限を与えると勅命された。伊周は道隆の病中のみではなく、今後は道隆と交替すると云う勅命に変えていただきたいと画策したが、一条天皇はこれも断固拒否されている。十六歳の聡明な君主であったが、中関白家のあまりに強引で、派手な印象が天皇の印象を悪くされていたし、道長はじめ廟堂の公卿にもこんな若僧に主導権を握らせるのは不愉快であるという考えがあったように思う。

ここまで周到に一族の将来の道筋を敷いた道隆であったが、道隆の死後すぐに関白に任命されたのは弟の右大臣藤原道兼であった。伊周の悲嘆は尋常ではなかったと云う。道兼の関白就任によって臍を曲げてしまった伊周は不良蛮行になっていった。道兼は、花山天皇退位劇の立役者であり、父兼家の後継は自分であると自負していたから、待望の関白就任であった。一説によれば、父を継いで兄道隆が関白に任じられたことに不快感を抱き、父の喪中にも関わらず、自邸にて遊興に耽っていたとも云われる。ところが、道兼は関白に就任して十日あまりで急死してしまった。道兼も赤斑瘡に罹患していたのである。関白として何もしないまま亡くなった道兼は俗に「七日関白」と云う。それにしてもこの時の疫病蔓延は凄まじいもので、市中の大流行はむろんのこと、四位、五位の貴族も多く死亡した。廟堂でも、大納言の藤原朝光、藤原済時、そして左大臣源重信も亡くなった。長徳元年(955)の正月に十四人いた公卿は、同年のうちに八人が相次いで病死したのである。これによって残されたのは内大臣藤原伊周権大納言藤原道長であった。伊周二十二歳、道長三十歳。官位こそ伊周が上だが、一条天皇との関係では道長が叔父で、伊周は従兄であるから、外戚として力を発揮するには道長の方が上である。藤原北家の骨肉の争いは、兼通と兼家によって繰り広げられた第一幕に続き、ここに道長と伊周による第二幕が始まったのである。

一条天皇道長か伊周か迷われていた。ここで強力に道長を推したのが、国母で道長の姉の東三条院詮子であった。詮子は四歳下の道長とは幼少期より仲が良く、道長が公卿となってからも何かと後ろ楯となったきた。東三条院権大納言道長に内覧の宣旨を出すことを躊躇われていた天皇の寝所にまで赴いて、「次の政権は道長に」と涙ながらに説得したと『大鏡』にはある。一条天皇は「宮中の雑事、堀川大臣の例に准じて行なふべし」という内覧宣旨を出され、道長は内覧となった。六月には右大臣に昇進し、伊周を超えて廟堂の筆頭大臣になる。宣旨にある堀川大臣とは兼通のことで、かつて兼道はすぐに関白になったわけではなく、大納言、内大臣として内覧を勤めたと云う例を引き合いに出されたのである。道長はこの時の詮子への恩を忘れることなく、数年後に詮子の四十の宴を自邸の土御門邸で盛大に行っている。

が、これで伊周が引き下がるわけではなかった。『小右記』には「右大臣・内大臣が上座に於いて口論す。宛ら乱闘のごとし」と書かれており、公卿の控の間である陣座においてはさらに一触即発となって、互いに今にもつかみあいになりかねないような口論となったと云う。ついにその三日後、道長随身が、伊周の弟隆家の従者と七条大路で乱闘となり、殺害される事件が起きた。さらに、母方の祖父高階成忠邸に道長を呪詛する陰陽師がいて、これを企んだのが伊周であると噂された。そんな折、翌長徳二年(996)正月、花山院狙撃事件が起きたのである。この事件については、前にも書いたが、改めて述べると、伊周は故太政大臣藤原為光の娘のもとへ通っていたが、花山院も同じ娘に通っていると勘違いして、おどしてやろうと従者に矢を射かけさせたのである。むろん威嚇のためであったが、『栄花物語』には何と矢は花山院の御袖を射抜いてしまったとある。さらに『小右記』には、花山院と伊周、伊周の弟の隆家が為光邸で鉢合わせとなり、従者が乱闘となった。この時、院の御童子二人が殺害されて、首を持ち去られたとある。伊周の不敬不埒極まりない驕りに対して、道長は激怒しながらこの機を逃さなかった。検非違使に命じてこの事件を捜査させ、伊周は家宅捜索を受け、多くの兵を養っていることが判明、謀反の嫌疑をかけられた。これには伊周に弁解の余地はない。同年二月十一日、一条天皇より廟堂に対して、「伊周と隆家の罪名を勘へよ」との勅命が下った。しかし三月に東三条院の病気平癒のため大赦が行われ罪を減じられるかにみえたが、実は東三条院の病はまたしても伊周の呪詛によるものとの噂が流れ、伊周邸の床下から呪詛の形代が見つかったとも云われる。いささかでっち上げとも思えなくもないが、若い伊周はすっかり不貞腐れてしまったのであろう。それに伊周からすれば太閤道隆の正統な後継者たる自分に如何なる非があるものかと声高に主張したかったのではないか。もしそうならば確かに一理あって伊周が気の毒にも思える。が、さらに事態を悪くしたのが、伏見の法琳寺と云う大元帥法を行う寺院で伊周が自らのために同法を修したと云うことだ。これが伊周左遷の決定打となった。ちなみに大元帥法とは真言密教の大秘法で、大元帥明王を本尊としして、怨霊や逆臣の調伏を行い、国家の安泰を祈念する修法で、仁寿元年(851)以来、毎年正月に宮中において行われていた。この秘法は鎮護国家を祈るものであり、したがって天皇のおわす宮中でのみ行われ、臣下が修法することは禁じられていたのである。

四月二十四日、公卿が召集されて、道長天皇の午前において徐目を行い、伊周を大宰権帥に、隆家を出雲権守に左遷した。他に高階信順、道順も伊豆と淡路へ配流となっている。伊周は恭順しつつも憤慨し、中宮定子の御所に篭り、重病のため配流先へは行けないと最期の抵抗を見せたが、一条天皇は許さなかった。むろん道長の強い奏上があったゆえんもあろうが、母堂東三条院を呪詛していたことが、許せなかったのだと思う。もともと一条天皇中宮定子への愛情からか、その兄の伊周に期待し、摂関就任を希望もされていたが、この事件によって失望もされたのかもしれない。四日後、ついに中宮御所に捜索が入り、隆家は捕らえられ、伊周は逃走したが、逃げ切れぬとあきらめて西へ向った。その後も病と称していっこうに進まず、結局二人は赴任せずに播磨と但馬に留まって療養することが許されている。このことは定子の出家を鑑みてのことに違いない。定子は自らの御所が捜索を受けたことに悲嘆し、恥辱と思われて出家しているのである。伊周はどこまでも甘々であったのか、何とか再起を図ろうとしたのか、密かに上洛して、またもや中宮御所に隠れていたが、これもすぐに露見して、ついには大宰府に強制送還されている。この一連の事件を長徳の変と云う。このあと伊周は一年余りで都へ戻っては来るのだが、そのあたりはまたにしよう。

もしも道隆の存命中に定子が敦康親王を産んでいれば、まったく道長の出番は薄れたであろう。道隆の後を継いだ伊周が外戚として中関白家を率いたに違いない。しかし天は藤原道長へ強運を授けたのである。かくして道長は長徳二年(996)七月二十日、左大臣に昇進し、正二位に叙せられた。廟堂において位人臣を極め、ついに「一の人」となったのである。

多摩丘陵に棲む〜梅ヶ枝〜

週末は自宅近くの多摩丘陵を歩こう。『きつねくぼ緑地』は、バスで毎朝前を通るので気になっていた場所。散歩がてら入ってみた。鶴川街道沿いの入り口を入ると、空気が変わった。武蔵野の面影を多分に残す雑木林や竹林には、たしかに今も狐狸が棲む雰囲気が漂う。途中、池もあったりして、少々薄気味悪いところも私には好ましい。この日も誰もいない池の向こうの藪の中をしきりに何かが蠢いていたが、あれは狐か?狸か?野鳥か?それとも…。丘を登ってゆくと視界が開けた。冬枯れの広場は明るくて気持ちよく、早咲きの梅の香がしてくる。他にも多くの木々が植えられていて、四季折々楽しめそうだ。高台からは都心のビル群もよく見えた。広場の反対側には『旧白洲邸武相荘』があるが、行き来はできない。そう、此処は武相荘の裏山なのだ。昔は武相荘とは地続きで、きっと次郎さんや正子さんの散歩道であったと思う。ちなみに此処には昔、”お化けマンション”なる廃虚があった。昭和四十二年(1967)から大規模なマンション建設が始まったが、その土地が許可を得ずに造成されていたことが判明し、土地の所有権をめぐって裁判となり工事は中断。同時に建材が基準を満たしていないことも発覚、工事再開は不可能となった。結審まで現状を維持する必要があることから取り壊せず、外壁のない異様な姿のまま放棄された。これが”お化けマンション”と呼ばれるようになったのである。廃虚の独特のフォルムが絵になると、1970年代の特撮作品で、よく使われたそうだが、ついに平成三年(1991)取り壊されて、跡地に緑地が整備された。辿ってきた過程もどこかミステリアスな『きつねくぼ緑地』である。

水辺が近くに在ることは、暮らしを豊かにしてくれる。多摩は海からは少し離れているが、川や池沼は数多ある。水質も23区よりはるかに良い。自宅から至近にある『広袴公園』は、真光寺川の調整池が中心にあって、中洲には葦が生い茂り、水鳥や野鳥が羽を休めている。展望デッキからの眺めはとても開放感があって、深呼吸したくなる。園内には桜がたくさん植えてある。一昨日、確認してきたが、蕾は真っ赤になっていたから、もうまもなく盛りが来るだろう。

広袴公園を南へ少し登った丘に鎮座するこの広袴神明社は、このあたりの鎮守なのだろう。此処から1キロほど西へ離れた妙全院と云う寺が別当寺だとか。ささやかな社だが、さすがは神明社。御祭神は天照大御神。 参道、鳥居、拝殿、幣殿、本殿が太陽光線の一直線上に在る。私は赤い夕陽に導かれるように参道を昇っていった。

また別の日、梅が見頃になったと聴いたので『薬師池公園』出かけてみた。町田市では有名な大公園で、美しい池の眺めは「新東京百景」に選ばれている。西園にあるカフェ”44APARTMENT”で、遅めのランチ。カフェでは地産の食材を使った美味しい料理やスイーツをいただける。薬師池公園は、最近西園が整備された。多摩丘陵の真っ只中に在って、ちょっと洒落た雰囲気。地元野菜の直売所もあり、野菜の他にも地産の米、手作りのお菓子に、地元作家の器や工芸品も売っている。私も春野菜とコーヒカップを買った。つづら折りの芝生の丘や森はまだ冬枯れであったが、北欧の田舎を彷彿とさせる荒涼とした景色はむしろ開放感にあふれて、とても気持ちが良い。此処も私の散歩のレギュラーコース確定。

公園の一番高いところに在る『野津田薬師堂』は、薬師池の名の由来の御堂。正式には普光山福王寺と号す。創建は天平時代で、行基が開創したとされる。町田市でもっとも古い寺だ。もとはもっと北に在ったが、新田義貞の兵火によって焼失し当地へ移されたと云う。元弘の乱のことであろうか。今、北の地には薬師堂を管理する別当の華厳院と云う寺が在る。 脇侍に日光月光両菩薩と十二神将を従えて鎮座する本尊は、行基作と伝わる秘仏で、十二年に一度”寅年の春”に御開帳される。一年後の拝観が楽しみだ。総欅造の御堂は明治十六年(1883)の再建で、笠の様な大屋根は一見すると社殿を彷彿とさせる。神仏混淆の名残りであろうか。が、後姿はたしかに寺だった。

梅林には、250本もの紅梅白梅が植えられている。薬師池に近づくに連れ、風にのってほのかに梅の香が漂ってくる。早咲きの桜はすでに満開で、入り口で出迎えてくれた。この日はあいにく雨もよいの曇天であったが、満々と水を湛える薬師池のエメラルドグリーンがかえって映えて見える。すると池に架かる太鼓橋の向こうに、花の雲が現出した。梅林は聴きしに優る見事さで、これだけの数が一同に今を盛りと咲き誇る。木は若木ではなくどっしりとした老梅に見える。夢の様な光景に、しばし茫然と立ち尽くしていたが、やがてあたりに漂う芳しい香で我にかえった。薬師池は花の園。桜、牡丹、えびね、藤、花菖蒲、紫陽花、蓮、ダリア、菊、椿、そして錦秋の紅葉。折々楽しみである。梅は百花の魁と云われるが、そろそろ終い。ほころび始めた今年の桜を観に行かねば。春は重畳と連なる花の乱。 百花繚乱中、私とて居ても立っても居られない。春の胸中は業平の歌が常に駆け巡っている。

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

今年も春が来たことを寿ぎたい。

十年

あの日から十年の歳月が流れた。平成23年3月11日14時46分、私は東京中野、自宅近くの商店街で買い物をしていた。あの日は金曜日だったが、仕事は休みであった。携帯で九州の母に電話をかけながら、八百屋で野菜を見ていた時、店の窓がカタカタと鳴り始めた。地震だと思ったと同時に窓の音はカタカタからガタガタに変わって、グラっと縦に揺れたかと思うと、すぐさま横に大きく揺れ始めた。周囲の建物がおもちゃの様に揺れ動くのがはっきりとわかる。ずいぶんと長く揺れたように感じた。震源三陸沖で、マグニチュード9.0と云う我が国観測史上最大の地震であった。本震の最大震度は宮城県栗原市震度7岩手県宮城県福島県、栃木県、茨城県、千葉県、埼玉県の各地で震度6強や6弱が多発した。東北では震度4以上の揺れが190秒程度で、うち震度5強以上の揺れが40秒、5弱以上が70秒であったと云うから想像を絶する。東京の本震は最大震度5強で130秒間揺れ続けた。私には5分以上に感じたが、このあと立て続けに大きな余震があったせいかも知れない。私のそばには下校中の小学生の男の子がいて、恐怖で声も出ない様子。私は咄嗟においでといって、庇う様に道の真ん中に誘導した。地震中も母と電話をしながら私は「やばい、やばい」と連呼していた。そして電話は途切れてしまった。このあとしばらくは混線で通話不可となった。

揺れが収まってもすぐにまた大きな余震がやってきた。自宅へ戻ってからもずっと揺れていた。食器や本などが一部散乱していたが、東北ほどの大きな被害ではなかった。テレビをつけると震源三陸沖で、これから大津波が来ると喧伝している。窓をあけるとあちこちからけたたましくサイレンの音が響いてくる。私は近くで火災が起きていないのか心配になり、マンションの屋上へ上がってみた。幸い近所での火災は今のところ起きてはいない。マンションの屋上からは、都庁をはじめ西新宿の高層ビル群が一望できたが、目を凝らすと何棟かの高層ビルがゆっくり揺れているように見える。こちらも気が動転していたので、どのビルであったのかはっきり覚えてはいない。超高層ビルは耐震構造上あえて大きく揺れるように設計されているビルもあり、上に行けば行くほど揺れるそうである。おそらくあの時私が目撃したビルの大きな揺れもそのような構造のビルであったのだろう。

が、もっと驚いたのは、新宿上空に漂う不気味な雲であった。真っ黒だが、雨雲ではなく、事実そのあと雨は降っていないのだが、何か今起きていることは、この黒雲の仕業なのではないかと思うほど、気味の悪い雲であった。 部屋へ戻ってテレビを見ると、まさに今、大津波が東北沿岸に到達するという知らせであった。夕方以降、この大津波のあらゆる角度で撮影された映像が流れたが、私が生きてきた中で、もっとも衝撃的かつ恐怖に慄いた映像であった。高台で子供が泣き叫び、大人たちが震えている。そして翌日には福島第一原発が水蒸気爆発を起こしてしまい、世界の原発史上チェルノブイリに次ぐ最悪の事故となった。これは大震災が誘発したが、人災であった。これから日本はどうなるのか。このあとひと月ほど、私はそればかりを思った。私が物心ついてよりこのかた見た戦慄の映像が、日航機墜落事故阪神淡路大震災地下鉄サリン事件アメリ同時多発テロイラク戦争などで、いずれも心を抉るように鮮明に記憶する映像である。が、東日本大震災はそのどれよりも重く私にものしかかった。自分も震度5強と云う揺れを実体験したからゆえであろうか。

警察庁の発表では死者は1万5900人。未だ行方不明者は2525人に上る。震災関連死を含めると2万を超える方が亡くなった。原発を含めた東日本大震災の最大避難者はおよそ47万人で、未だに避難生活を強いられている方はなんと4万1000人もいる(いずれも令和3年2/26復興庁発表)。真の復興とは程遠いのが実状である。余震は数年にわたり続き、つい先月も大きな余震があったばかり。復興途上での災禍は物理的、経済的な損失以上に、修復中の人の精神力を削ぐ。

 私の人生において、東日本大震災の前と後では、あきらかに物事に対する見方、考え方、その後の行動というものが大きく変わった。あまりのショックで一年くらいは文章もかけなかった。しかし、私の体験など、東北の人々、ことに沿岸部で津波原発の被害に遭われた人々に比ぶべくもない。東日本大震災について私がここで事新たに語ることはない。それでも記憶を残し、節目の年だからではなく、せめて毎年「3.11」には思いださねばなるまい。あの日を生きた者の一人として後世に伝える義務があると思う。

二年前の夏、私は友人と陸前高田に行った。平泉に行く途中で、どうしても「奇跡の一本松」を見たかったのである。高田松原は跡形もなく、気仙中学校は目も当てられぬ姿。復興は遥か道半ば。しかし、美しい山海両方を持っている陸前高田雄大な眺めは、昔と変わらない。美しい陸前高田は一歩、一歩蘇りつつある。一帯は高い防潮堤や、堅牢な水門が築かれ、鎮魂の公園を国が整備しているが、それには少し違和感がないわけでもない。が、ここで暮らす人々には必要であり、もしも自分がここで暮らしているなら、それを切に望むであろう。松原も植林されて再生を図るらしい。自然に逆らうことなど、人間には不可能だが、出来うる限り受け入れながら、共生する道を模索することは、何も被災地に限ったことではない。ようやくここに来れた。しみじみとそう思った。帰り際、一本松に野の花を手向けた。

十年を経てもまったくの道半ばである。私たちは今、コロナ禍と云う新たな脅威の真っ只中にあって、この一年、人類はコロナに翻弄されてきた。ようやく立ち上がりかけていたのに、もう立ち上がれなくなった人もいるかも知れない。ワクチン開発がされて、日本でも接種が始まったが、私はコロナ禍を完全に脱却するにはこれまた十年かかるのではないかと思う。あくまで私見であり、まったくの素人の推測に過ぎないが。しかしワクチンができたといってすぐに収束するとは到底思えない。変異種も次々に現出し、ここまで世界中に広がってしまうと、収めることは容易ではないだろう。日本のみならず世界でもワクチンを打つのを躊躇う人もいるだろうし、そもそもワクチンとは何かと云う疑問が、今さら起こっていたりもする。

「さて、これからどう生きてゆくのか。」

東日本大震災から十年、そしてコロナ禍の今、私は毎日このことばかり考え続けている。死ぬまで問い続けることになるのかも知れない。しかし、自らに問い続け、少しでもより良い方向にゆくにはどうすべきか、それは個々の人生についても同じで、渡世とはその延長線上にあるのだ。思考し行動することは動物でもできる。では私たち人間はどうすればようのか。人間の罪は大きい。しかし、人間にできて動物にできないことがひとつだけある。それは律することだ。人間本位の考えを改め、環境を守り、整えながら生きてゆく。私たち人間は地球規模で物事を見据えることができる唯一の動物なのである。そこで一人ひとり、まずは日本人としてどう生きてゆくのか。昔の人々の智恵を拝借しながら、慎ましく安穏に生きてゆくためにどうすればよいか。今、この時ゆえに考えて生きたいと思う。

皇位継承一中関白家一

前回、平安時代摂関政治を代表する人物藤原道長がついに登場したが、少し話を戻そう。平安時代も此処からが山である。よって少し丁寧に紐解くことにする。そして道長がどのようにして政権を掌握し、また彼の栄華の頃がどんな時代であったかをしばらくは見てゆきたい。

前回述べたとおり、道長の父の右大臣藤原兼家は、花山天皇を出家に追い込み、外孫にあたる一条天皇を謀略を持って即位に導いた。一条天皇円融天皇の第一皇子として天元三年(980)にご誕生。母は兼家の娘詮子である。花山天皇東宮に立った時は五歳、そして践祚された時が七歳。天皇の外祖父となった兼家は待望の摂政となり、藤氏長者となる。これにより関白の藤原頼忠は辞任し、太政大臣となった。一ヶ月後、兼家は右大臣を辞したが、これには意図があった。兼家が右大臣のままでは議式などで最上位の席につけないのである。兼家の上席には太政大臣頼忠と左大臣源雅信がいた。そこで兼家は右大臣を辞することで太政官の機構を離れて、摂政として如何なく権力を行使することを考えたのである。これまで摂関は大臣の兼務という形が、このとき崩れたことになる。これまで摂関はほとんどが太政大臣となったが、兼家の場合は太政大臣のポストが空いていなかったため、あえて大臣の序列から離脱したのである。

兼家には「准三宮の詔」が下された。これは太皇太后、皇太后、皇后に待遇を準ずるの意で、さらには摂政は三公(太政大臣左大臣、右大臣)より重き職で、座を三公の上とする「一座宣旨」も下された。詔や宣旨は一条天皇の御名によって下されたが、むろん政務を代行した兼家本人が出したものである。兼家の摂政就任は、これ以後、摂関の地位に変化をもたらした。もともと摂関は大臣を本官とするポストであったのが、律令官職を超越した最高職の地位となったのである。また太政大臣と摂関が分離したことで、これまでは太政大臣は摂関のみであったのが、これ以後の太政大臣は実質的権力とは一致せず、長老や天皇外戚を処遇するために名誉職的な意味合いが強くなった。さらには摂関と藤氏長者は一体のものとなるなど、摂関の地位は太政官の政務から離れることによって飛躍的に高まったのである。これ兼家の豪腕によるところ大である。永延二年(988)春、兼家の還暦の宴が法性寺で開かれ、さらに秋には新造成った二条京極邸で盛大な饗宴が行われている。ここが兼家の絶頂であり、もはや並ぶ者なき藤原摂関家の天下を世に知らしめたのである。翌永祚元年(989)頼忠が没すると兼家は太政大臣に就いた。

そして兼家はあとに続く息子達や一族を、これまた強引な手法で昇進させてゆく。これには摂政の権限をフルに活用した。まず、一条天皇の即位直後に、詮子を皇太后に引き上げた。詮子は円融天皇の女御であるが皇后ではない。しかし一条天皇の生母であり国母となったことで皇太后となられた。さらに冷泉天皇第二皇子の居貞親王元服を、兼家の南院邸で行い、その日に立太子が相成った。後の三条天皇である。兼家は天皇と皇太子の外祖父となり、その権勢は磐石となった。

兼家の長男道隆は、一条天皇の即位前は非参議で従三位右近衛中将であったが、即位直後から異常なほど急激に昇進する。詮子が皇太后となった当日に、その兄弟と云うことで、参議を経ずに権中納言となり、皇太后宮大夫を兼ね、四日後には詮子が参内した賞として正三位、居貞親王立太子の際に中将を辞して、さらにその四日後に権大納言、二日後の一条天皇の即位礼において従二位、さらに五日後に正二位となっている。わずか一ヶ月の間に、これだけ昇進したのは例のないことである。四男の道兼は、花山天皇の蔵人で、前回述べたように花山天皇譲位の立役者であったが、一条天皇即位とともに蔵人頭従四位下、右中将、参議とこれもほぼ一ヶ月での昇進。さらに三ヶ月後に、従三位中納言、一週間後に正三位となっている。それまで昇進が抑えられてきた反動とも云えるが、それにしても前代未聞のスピード出世であった。

さて兼家五男の道長であるが、一条天皇即位直後に従五位上蔵人となり、正五位下少納言、左近衛少将従四位下と半年で進み、年が明けて、従四位上、九ヶ月後に左京大夫正四位下をとばして一挙に従三位となり、翌年正月、参議を経ずに権中納言に昇進した。道長、この時まだ二十三歳。先例もなき若さであった。兼家は息子達以外にも道隆の息子伊周など、孫の世代も積極的に昇進させており、あとの道筋を確かなものとすべく腐心した。兼家は内裏内の摂政の宿所である直盧で徐目や叙位を行った。廟堂の人事権を掌握することで、兼家は朝廷の最高権力者となったのである。しかし兼家は摂政として独裁者になったわけではなく、廟堂には太政官政務の励行を求めており、決して自分の周囲のみ優遇したわけではなかった。また人事や政については一条天皇の父円融院に奏上し承認を得ている。事実、円融院、摂政兼家、そして廟堂公卿による合意の上で政権運営をしたのである。息子たちもこの父のやり方を取り入れて、藤原摂関家は隆盛を迎えるのであった。永祚二年(990)、不遇を囲った前半生と我が世の春を謳歌した後半生に想いを馳せながら、藤原兼家は六十二歳で亡くなった。

摂関を継いだのは嫡男道隆で、氏長者も引き継いだ。兼家存命中に道隆の娘定子が入内し女御となった。兼家は摂政を辞して関白となるが、すぐに道隆に譲り、道隆は関白を辞して摂政となった。兼家亡き後、道隆はすぐさま定子の立后に動いて中宮とした。中宮とは、正式には太皇太后、皇太后、皇后の総称であるが、平安時代中頃からは皇后を中宮と呼ぶようになった。すなわち定子を皇后に立てたわけだが、実は皇后には頼忠の娘で円融院の后遵子がいて、これを皇太后に繰り上げようにも、皇太后には詮子がおり、太皇太后には冷泉天皇后の昌子内親王がいた。つまり后のポストは満席であったのだ。そこで道隆は遵子皇后はそのままにして、遵子に仕える役所の中宮職皇后宮職と改めて、定子に仕える役所を中宮職とした。後宮に四后が並び立つのは前代未聞の異常事態であったが、このあと道長がさらに凄いことをやってのけるのである。平安時代のこの頃、摂関の力が強くなればなるほど、朝廷には様々なる歪みが生じ始めていた。それでも強引に事を推進したのが藤原北家の面々であり、権力への執着心は凄まじいものを感じる。

正暦二年(991)、円融院が崩御された。皇太后詮子は落飾され東三条院となられたが、これが女院号の嚆矢である。女院太上天皇の例に倣い院分受領と云う受領の推挙権が与えられた。こうして円融院の権威をも引き継いだ東三条院は、一条天皇の国母として、また道隆や道兼の妹として、道長の姉として摂関家を支えた。東三条院の発言力は絶大で、しばしば政に口添えをしたと云う。それを藤原実資は『小右記』において非難している。こうして道隆は自らの近親である一条天皇の妻と母の権威を、制度的に高めることで権力基盤を固めたのである。一条天皇が十四歳になると摂政を辞して再び関白になり、五年間は権力を独占した。道隆は一家の官位も引き上げ、次男伊周にはことに目をかけて、わずか二十一歳にして内大臣に据えている。これまた前代未聞の若さで、この時に権大納言であった叔父道長を抜いてしまい、これ以後、道長と伊周の対立が始まったのである。道隆を「中関白」と云い、道隆一家を「中関白家」と云う。この呼称のいわれは諸説あるが、次に長期政権を握る道長の「御堂流」までの中継ぎの関白の意ではないかと云う説を私も採りたい。 中関白家の栄華は、定子のサロンの中心にいた女房清少納言の『枕草子』にも多く記されている。しかしそれは道隆が四十三歳で亡くなるまでであった。道隆の死は流行り病の麻疹とも云われるが、実際は持病の糖尿病であったと云う。『大鏡』にも「御酒のみだれさせ給」と記されているが、道隆はかなりの大酒飲みで、酒癖も悪く、半ばアルコール中毒であったとも云われる。長徳元年(995)三月、死期を覚った道隆は、伊周を後継とし、関白職を代行させるよう一条天皇に奏上したが、ついに天皇は許されなかった。伊周には才能はあったようだが、いかんせん人望が薄くて、祖父や父ほど廟堂においての権力基盤はなかった。これを見抜かれた十六歳の一条天皇は英邁であられたと思う。

多摩丘陵に棲む〜物を持たぬ暮らし〜

引越しにあたり、私はずいぶん断捨離をした。もうこれでもかと云うくらいに捨てた。新しい場所では、蔵書と茶道具以外はほとんど要らないと云う勢いで捨ててみたけれども、まだけっこうある。引越しは暮らしを見直すには実に有効かつ最大の手段である。掃き出しても吐き出しても、まあこんなに要らないモノ、使っていないモノがあるのだと痛感した。毎月断捨離をしている友人からはこう教わった。モノを持ちすぎたり、捨て切れずにいれば、心身も詰まり、良い暮らしはできず、生き方や仕事にまで影響する。身軽になることは思考を巡らせ、冷静に行動できるようになる。人間も動物も食べて、必要な栄養分を吸収し、不要な物は排出する。実によくできたこの当たり前のサイクルを人の暮らしでも定期的に行うことは、自らを律して、人生においても贅肉を削ぎ落とす効果があると友人は言うが、実践してみると、なるほどそんな気がしてくる。 コロナが落ち着いたら母を呼んで同居する予定であるが、母は昔から断捨離の鬼。それは歳をとるごとに高まってゆき、今ではほとんどモノを持たない暮らしをしている。私も母や友人に肖って、引越しを機にこれから毎月断捨離を実践することを決意した。

私は一年中方々の寺、神社を訪ね歩く。そこには信仰心はあまりない。信仰心よりも歴史的な背景に興味があって、史跡に直に触れてみたい気持ちに駆られて寺社へ行く。そして日本の原風景が残る寺や神社の周りには自然も町も、私の好きな匂いが溢れている。風の音を聴き、鳥の歌を携えて歩く。そんな豊かな自然が同居する場所は、都会の喧騒を忘れさせてくれる。美味い空気を存分に吸い込み浄化されてゆく。一方で町中の寺社はその場の発する風情、情緒にノスタルジーを感じ、そうした門前町には古い歴史と信仰する現代人の暮らしが混在していて、極めて人間臭いが、それがたまらなく面白い。ゆえに私は私の好奇心を埋めながら、心身を癒すために寺社へ向かった。今まではそうであった。が、スピリチュアルに生きている例の友人に言わせれば、「神社仏閣を参詣する前に、まずは自分自身をすっきりとしてから行くべきである」と。そうでなければ、「神仏は何しに来たの?」と思われるのではないかと。むろん、神や仏は尊大で慈悲深く参詣者を迎えてくださるに違いない。どんな人も受け入れてくださるだろう。しかし、それでいいのだろうかとも、私自身長く考えてきたことだった。信仰心もなく闇雲に寺社を訪ねて、神仏に対する冒涜とまでは思わなくとも、少々恐縮していたことは事実である。熱心にお参りされる方を目の当たりにすると、表敬訪問的に手を合わせている自分は偽善者であるとも思ったりすることもある。一方で、寺社を訪ねるのにあまり深く考えずとも良いと楽観的にも思うのである。私の寺社詣では漫然としてきていて、昔ほど心を揺さぶられなくなってきたことは、半ば飽和状態になりつつあったのかも知れない。

そこで聴いたのが「かの友人」の一言。これは効いた。自分自身がすっきりせずに、整えもしないで、寺社を詣でたところで、何も感じないのは当然で、お参りしても何も得られない。今日この頃思っていたことであったから、一条の確かな光の道標が見えてきた。私の心身の余計なモノを捨て去りながら、まっさらな気持ちで、私は暮らしてゆきたい。新居に定めた多摩丘陵は、それを実現するに格好の場所であると思う。