弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一悪左府頼長一

強力な院政を布かれた白河院は、平安時代の終幕を彩る多くのキャストを輩出された。主役となるのは鳥羽天皇崇徳天皇、そして平清盛である。平清盛については後でまた改めて触れるが、白河院落胤であるとの噂が絶えず、今もって賛否が分かれる。白河院時代、国政も天皇家の家政もすべては院の手中にあって誰一人として進言する者とていなかった。保安元年(1120)、白河院は関白藤原忠実の内覧を停止して謹慎を命じた。内覧とは、天皇に奉じる文書に先に目を通す権限を持つ役職で、摂政関白など高官の者のみに許される慣習であった。それを停止したと云うことは、事実上、関白の罷免である。代わって、忠実の嫡男忠通が関白になった。白河院は忠実を罷免することで、鳥羽天皇服従を要求した。藤原摂関家は、白河院の前に完全に屈服したのである。これまでは基本的に前任者によって決定されてきた摂関の任命権が、院によって掌握されたのである。皇位継承者の決定権のみならず、摂関や廟堂のあらゆる人事権を手中に収めた院の権力の大きさを思い知らされる。 藤原氏の全盛時代を築いた道長、頼通からわずか四代でなぜ摂関家はこれほどまでに落ちぶれたか。それは頼通が五十一年もの長きにわたり摂関の座にあり、あまりに長過ぎたことで、天皇家との外戚関係が切れてしまうと云う事態を招いてしまったことによる。藤原氏は代々、自分の娘を入内せしめ、誕生した皇子に皇位を継承させてきた。外戚として、藤原摂関家氏長者天皇の後見人になることが摂関政治の基盤である。ところが外戚関係を失った藤原氏は拠り所を失い、自動的にまわってきた摂関の座に就けなくなってしまった。そう云う意味で藤原氏の権力は、外戚となれるかどうかと云う偶然性に左右される、極めて不安定なものであった。白河院はそれを見知っておられたのである。

保安四年(1123)、白河院は顕仁親王東宮とされ、即日皇位に就けた。崇徳天皇である。わずか五歳での即位は、鳥羽天皇が即位された御年と同じである。鳥羽天皇はこの時二十歳。御意志の伺いもなく強制的に退位させられた鳥羽天皇からすれば、白河院への反感と敗北感は凄まじいものがあられたに違いない。が、例の三不如意以外は何一つとして思い通りにならぬことはなかった白河院も、ついに大治四年(1129)七十七歳で崩御された。天皇として十四年、上皇法皇)として四十三年、合わせて五十七年と云う長き渡り、専制的に権力の座にあったのは、我が国史白河院より他はいない。摂政関白や武家政権のように間接的に権力を長期間維持した例はあるが、一人の人物がその一番高みからたった一人で、これほど長期間、独裁した例はない。

白河院崩御され、ようやく表舞台へと出てこられた鳥羽院は、三年後の長承元年(1132)、忠実に再び内覧の院宣を与えられた。罷免から実に十二年、忠実は政界に復帰したのである。そしてかつて白河院に握りつぶされた娘泰子の入内を改めて実行するのであった。上皇の后として入内した泰子は、異例のことながら皇后とされ、忠実に報いたのである。忠実はこの縁談を進めたことで、政界の影響力を回復することに成功した。さらに忠実は地方の豪族と連携し、荘園の新規開発、拡大にも乗り出した。荘園の拡大はしばしば紛争を引き起こす原因となってため、忠実は当時、力を蓄えつつあった武士を召し抱えて、管理を任せた。道長の時代には、藤原摂関家は廟堂のほとんどすべての人事権を握っていたため、富も自然に摂関家に集まってきたが、この時代の人事権は院に移っており、忠実としては、荘園を集積して、さらにそれを守る武士団を軍圧勢力として集めて、物量的な面で藤原氏の力を高めようとしたのである。

鳥羽院は第一の近臣である藤原顕季の孫娘得子(後の美福門院)を寵愛していた。白河院御存命中は一応の体裁が保たれていた鳥羽院と待賢門院璋子の間は、いよいよ破綻の道を歩み始める。母待賢門院の面目を傷つけられた崇徳天皇はこの事に激怒された云う。鳥羽院を省みず、得子の一族や関係者の官位を止め、領地を没収された。白河院亡き今、待賢門院が崇徳天皇を頼りとしたのは当然であるが、崇徳天皇もまた白河院と母の権威こそが、御自身の正統性を主張する最大の手段であった。

が、いまや権勢は鳥羽院にあった。保延五年(1139)、得子との間に生まれた体仁親王をすぐに東宮とされ、白河院が決定した崇徳天皇の系統を、鳥羽院の直系に復されようとされたのである。そして二年後の永治元年(1141)、かつて御自身が白河院に強奪されたと同じく、二十三歳の崇徳天皇に退位を迫り体仁親王を即位させた。近衛天皇の誕生である。退位を迫ったと言っても、やり方は白河院に比べてわりあい融和的であった。鳥羽院はなるべく事を荒立てずに、崇徳天皇に継母得子と近衛天皇を容認させようとされた。鳥羽院は健康不安の中で出家され、政務をとらない姿勢をあきらかにして、同時に崇徳天皇に譲位を勧め、表向きは崇徳天皇院政を布く体制となるよう示唆した。崇徳天皇もこの融和的な対応には密かに期待されたに違いない。ところが、藤原忠通の子で、比叡山に登り後に天台座主となった慈円が著した『愚管抄』には、上皇となられた崇徳院が後に体仁親王立太子した際の宣命を確認されると、崇徳天皇の「皇太子」ではなく、「皇太弟」となっていたことに気づかれたが、これは後の祭りであった。通例、皇位を退いた天皇は、新帝の父として院政を布くことになるが、近衛天皇が皇太弟として即位したのであれば、崇徳院は新帝の兄と云うことになり、院政はこれまでどおり、近衛天皇の父である鳥羽院が続けることになるのである。これによって、そもそも「叔父子」と疎まれていた崇徳院も、鳥羽院に対して大いなる不満を募らせることになるのである。国母の座を手にした美服門院得子は、待賢門院璋子の追い落としに成功し、後宮を支配した。待賢門院は失意の中、久安元年(1145)八月薨去された。鳥羽院は本当は璋子を愛されていたが、白河院への不信と嫉妬から、あえて璋子を遠ざけられていたと思われる。璋子の臨終を看取られ、号泣されたと云うのがその証であろう。

鳥羽院白河院とは違う政治路線をとられた。白河院は先代の後三条天皇以来進めていた荘園整理を積極的に推進することで、藤原摂関家をはじめとする大貴族の力を抑え、公領の収益を安定させていった。しかし鳥羽院はむしろ摂関家との協調路線をとってゆかれる。その結果、白河院時代に重用され、勢力を伸ばしつつあった院近臣や受領などの中・下級貴族たちが政界への進出を抑制される事態を招いたのである。時代が変わってきたと思い始めていた中・下級貴族たちにとっては、不信と不満がたまったに違いない。

さて一度は引退した藤原忠実が再び政界で存在感を増していったことで、摂関家にも新たな軋轢が生じた。忠実にはすでに関白の位にある嫡男の忠通がいたが、謹慎期間中に生まれた頼長と云う、もう一人の息子がいた。頼長は幼い頃から利発で勉強熱心であり、年を経てから生まれたため、忠実は頼長を溺愛した。そして政界に返り咲くと、兄の忠通に代えて頼長に摂関家を継がせようと考えるようになる。そもそも忠実は、白河院によって関白の座を追われ、強制的に嫡男忠通に交替させれたと云う経緯があった。それが前例になって摂関の座は院の意志によって決定されることになったのである。これを何としても元に戻したかったが、鳥羽院とて今や白河院に劣らぬほどの専制君主になられており、忠実が頼長へ摂関の移譲を働きかけるも、これを撥ね付けられている。ここで忠実の思うとおりに事を許せば、自らの権勢は揺らぐのであるから当然であろう。そもそもが当初忠通は、後継者に恵まれておらずやむを得ず頼長を養子としていたのだが、後に実子基実が生まれると、当然後継にしたいと望んだ。これが余計に忠実の不信を買ったことも原因ではあった。忠実の働きかけもあって、頼長は廟堂では一息で内大臣まで進む。この時には左右大臣が不在であり、頼長が公卿筆頭たる一上となった。そしてついに久安五年(1159)、左大臣に昇進する。これに喜んだ忠実だが、ここで満足はしない。忠実の摂関家復権への執念まことに凄まじく、久安六年(1150)ついに奥の手にでる。この年の正月、近衛天皇元服され、頼長の養女多子が入内し女御となった。ところが二月になると、忠通は藤原伊通の娘呈子を養女に迎え、鳥羽院に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上したのである。呈子は美福門院の養女であり、忠通は美福門院と連携し、何とか忠実と頼長を抑え込もうとした。鳥羽院はこれには深く関わらないように努められ、多子を皇后、呈子を中宮とすることで収めようとされたが、摂関家の何度目かの骨肉の争いはもはや修復不可能となっていた。そして九月、忠実は忠通の住まう摂関家正邸である東三条殿や土御門邸を接収したのである。さらに藤氏氏長者の証とされる「朱器台盤」も取り上げて、これを頼長に授けた。頼長の日記『台記』によれば、「摂政は天子が授けるところ、我これを奪うを得ず。氏長者は我授けるところ、勅宣にあらず」とある。忠実は藤原氏の長であることを示す氏長者の権限を忠通から取り上げ、頼長に与えたのである。頼長は養父である忠通に対しての憚りもあったが、忠実は許さず、関白の座を弟に譲ることを拒否した忠通と親子の縁を切ってしまった。氏長者とは一族の最高位の者が就任するもので、氏神を崇敬し、一族の祭祀を司り、一族の者を従五位下の暗いに推挙する権限を有していた。律令制においては五位以上が貴族と呼ばれ、多くの特権を持つようになるため、推挙権を持つ氏長者は絶大な影響力があった。その一族の長が併せ持った氏長者と摂関の職とが分裂すると云うのは前代未聞であり、藤原摂関家始まって以来の不祥事であった。

こうして氏長者となり内覧にも任命された頼長は、摂関政治の全盛を築いた道長の政治を理想とし、綱紀粛正に取り組むことになる。その厳格さたるや並大抵ではなく、行事に遅刻してきた貴族の屋敷を燃やしてしまうほどであった。余りに強引かつ、急激なるやり方に恐怖と不満を覚えた人々は、いつしか頼長のことを「悪左府」と呼ぶようになる。左府とは左大臣のことだが、この場合の「悪」は単に悪いだけの意味にあらず、恐怖とか畏怖の意味も含まれていたと云う。

内覧・左大臣の地位に驕った頼長は、得子の従兄弟で鳥羽院の寵臣であった藤原家成邸を通行した折、腹心の随身武官、秦公春に命じて邸内に乱入させ狼藉に及ぶという大事件を起こした。この暴発に鳥羽院は激怒され、頼長を疎まれ始めた。この暴発の背景には、頼長周辺の男色関係のもつれがあったとされる。暴行に及んだ秦公春は頼長の男色仲間であり、さらにこの事件の背景には、少し前に家成の従者が頼長の従者を凌辱したことへの恨みがあり、頼長はその従者とも男色関係にあったと云われる。しかも頼長は家成の子の隆季、成親とも男色関係にあり、その接触の様子を日記に記している。この当時は平安時代を通してもっとも男色が盛んな頃で、退廃的な世を象徴するかのように乱れた事もあったと聞く。男色は一面において権力者に取り入り官職や地位をめぐる打算、他面においては侮蔑と憎しみの代償行為とも思われる。もちろん、男色の流行は頼長一人の問題ではない。現代の常識で判断するのは困難であろう。男色は摂関時代と比較して院政時代の政治史の特徴というべきほど、当時の宮廷全体に広がり、裏の政治史として重要な一面を成した。院政期においては男性自身も自己の肉体を酷使して権力の座を目指すようになっていたのである。頼長が「悪左府」とまで称された所以はここにもあるように思う。

ところで、忠実が忠通より氏長者を取り上げるにあたり、武力行使を命じた接収部隊の中心は八幡太郎義家の孫源為義であった。白河院時代は源氏は活躍の場を与えられず、一方で重用された平氏にどんどん先を越されていた。それを知っていた忠実は、源氏を子飼いにして利用したのである。摂関家の代替わり問題と骨肉の紛争において、軍事力が行使されたのはこの時が初めてである。武士を巻き込んだ内乱の時代がすぐそこに迫りつつあった。

多摩丘陵に棲む〜禅寺丸と王禅寺〜

都心から多摩丘陵へ越してから、一番困ったのは和菓子屋が少ないことだ。茶を点ててお供の和菓子は欠かせない。仕事帰りに都内の菓子屋で購入して帰ることが多いが、このあたりにも和菓子屋はなくはない。京都や東京の老舗や有名店も良いが、地域密着の和菓子屋は素朴でまた良いものだ。小田急柿生駅に本店を構えている和菓子屋”禅寺丸本舗。この店を見つけてからは半ば常連なりつつある。こちらの代表的な銘菓が”禅寺丸最中”である。柿を模った秋らしい菓子で、中には甘さ控えめの美味しい餡が詰まっている。小豆、白餡どちらもいける。

”禅寺丸”とは、日本古来の甘柿の品種の名で、川崎市麻生区にある”王禅寺”と云う古刹にその原木がある。甘味が強く滋味豊かな禅寺丸は、江戸にも出荷され、秋の味覚として人気だった。当初は”王禅寺丸”と呼ばれていたが、元禄の頃、江戸の市で”王”の一字が略されるようになったそうだ。目黒にある”柿の木坂”はこの禅寺丸を江戸へ運搬する道筋であったため、その名を得たとか。今でも近隣には多くの子孫樹が散在し、多摩丘陵の秋を彩っている。柿生と云う地名もむろん禅寺丸に由来してのものだ。

先日、”禅寺丸”の原木を拝みたくなって、数年ぶりに王禅寺に参詣した。都内に棲んでいる時は、ここまで来るのもけっこう遠かったが、今は私の家からわりあい至近にあり、散歩がてらにお参りできる。王禅寺の周囲は住宅街であるが、参道に入ると鬱蒼たる雑木林の長い杣道で、古池があり、反対側は梅林になっている。梅の時節にも訪れたことがあるが、境内はむせかえるほどの梅香に包まれていた。やがて古びた石段の上に山門が現れ、さらに高い場所に観音堂が在る。本堂はこの右手に在って、猫が二匹ひなたぼっこをしていた。

王禅寺は、延喜二十一年(921)の建立で、開山は高野山三代目の無空上人で、土地の豪族の庇護を受け、往時は三十六箇寺の末寺を擁し、”関東の高野山”と呼ばれた名刹である。寺領は町田から調布のあたりにまで及んでいたと云う。かつては大きな茅葺だった本堂は建て替えられ、瓦葺になっても、この寺の威厳は少しも失われてはいない。紅葉には少し早かったが、佇まいからして、やはり歴史を感じる良い寺だと思う。観光客などいない知る人ぞ知る寺であるが、多摩丘陵にある寺の中でも稀に見る大寺院である。星宿山蓮華王院と号するが、”星の宿る山”とはなんと美しい山号であろう。王禅寺のあたりは”寺家ふるさと村”があるなど、新宿や川崎や横浜の市街地から電車で1時間とかからないのに、自然の森や丘陵が多分に残っており、空気も澄んでいるため、夜は星を数えられる。たしかに星宿る寺に違いない。十一月になり、よく晴れたはりつめた夜、多摩丘陵では瞬く星がたくさん見える。

皇位継承一待賢門院璋子一

平安朝最強の専制君主となられた白河院は、その揺るぎない権勢における実害を身内にまで及ぼされ、さらには平安朝の終焉を導くきっかけを御自ら作られてしまわれる。堀河天皇崩御されて五歳で皇位を継がれた鳥羽天皇は、祖父白河院の薫陶は受けたが、いくつになられてもその強大かつ隠然たる祖父の傘下を抜け出すことは叶わなかった。常に白河院の裁断を仰ぎ、院の目を気にしながら、政も御所での暮らしもまことに窮屈この上ないものであった。むろん後宮白河院が意のままに操っていた。鳥羽天皇中宮となられたのが待賢門院璋子で、白河院が娶せた。待賢門院璋子は、父が藤原北家閑院流権大納言藤原公実、母が左中弁藤原隆方の娘光子である。閑院流は御堂流全盛の折は公卿ではあったが、摂関は望むべくもなかった。公実は御堂流に翳りが見え始めると鳥羽天皇の外舅である自分こそ相応しいと若年の藤原忠実に代わり摂関の地位を欲した。が、大臣も経験していない一公卿に過ぎない公実が摂関になることはさすがに無理があると源俊明が諫めたと云う。そして公実の野心はついに叶うことはなかった。公実は鳥羽天皇の即位直後に死去している。しかし野望はその子らに引き継がれていった。それは妻の光子が堀河天皇鳥羽天皇の乳母であったことが大きな助力となったことは想像に難くはない。後に次男実行は太政大臣、五男実能は左大臣、そして末娘の璋子は鳥羽天皇中宮となる。さらにこの栄華を反映してか、実行は三条家、三男で権中納言通季は西園寺家、実能は徳大寺家を興している。いずれも璋子が中宮となり、白河院の絶大なる寵愛を受けながら、後に崇徳、後白河と二人の天皇の母となる璋子の権勢によるものであると拝察する。

白河院崩御されるまで治天の君であられたが、晩年は異様なお振る舞いも多々あられた。その最たるものが璋子への情愛であろう。母の光子が鳥羽天皇の乳母ととして禁中に仕えていたため、璋子は生まれてすぐに白河院の寵妃祇園女御の養女となり、院の御所で暮らすようになる。白河院は孫のように可愛がられた。権力を掌握された白河院も「天下三不如意」と称されたのが、山法師(叡山とその僧兵)、鴨川の水、双六の賽である。この三つは白河院とて思うとおりにはできないことであったと云うことだが、事実そうであった。叡山は強訴と称して度々朝廷に逆らう気配を見せ、鴨川もよく氾濫した。時代の終焉に訪れる不吉な出来事、例えば天変地異や飢饉、そして武士階級の台頭の萌芽など、時勢混沌とした中、権力は白河院の手中にまだあった。しかし、相当な精神の持ち主でなければ、耐久も困難であったと思う。その中でこの頃に白河院が最大の生き甲斐とされたのが、璋子であった。才色兼備な理想の女性に仕立てあげようと心を尽くされた。白河院は心から璋子を愛しておられ、ちょうど『源氏物語』の光源氏が紫の上を育てるようにして璋子を愛しまれた。そして璋子が少しずつ大人びてくると、白河院はついに手をつけられたのである。時に璋子は十三歳、白河院は六十歳。相思相愛の関係となられ、鳥羽天皇中宮となったあともその関係は続いていた。白河院は孫の鳥羽天皇の御代ではさらに強力な院政を敷かれたが、璋子の中宮冊立をその重石とされたのである。

かくして白河院の地位は確固たるものとなったが、鳥羽天皇はまだ幼く元来病弱であられたことが、自らの皇統を継承すると云う課題はいぜんとして白河院の手に負わされていた。老狂とも云える白河院によって王権内部には新たな矛盾ができてしまった。白河院鳥羽天皇と璋子、二人の少年、少女を王権構成の要とされた。璋子は当初は摂政忠実の子忠通に嫁がせようとした。しかし自らがあまりも璋子を溺愛するようになったため、摂関家へ手放すのが惜しくなり、自らの手元すなわち禁中に留めおくことにした。もっとも摂関家の側にも日次を理由として婚儀を遅らせてきたと云うが、これは院と璋子の噂を耳にして遠慮したのかもしれない。これには白河院が嫌悪感を示しながらも、黙殺されているところをみても推察できる。結局、璋子は鳥羽天皇に入内し中宮となられた。二人の間に誕生された第一皇子顕仁親王である。が、実際の父は白河院であると云うのが定説である。このあと鳥羽天皇を継がれて崇徳天皇として即位されるが、鳥羽天皇は系譜上は息子である崇徳天皇を、「子でありながら、同時に祖父白河院の実子である」とされ、「叔父子」と呼ばれ疎まれたと云う。ここにも平安王朝が終わる火種がひとつ生まれていたのである。このことは次回以降さらに詳しくみてゆこう。さらに問題を複雑にしたのは、同時期に摂政となっていた藤原忠実の娘泰子を鳥羽天皇の妃に迎える話が出たことである。『愚管抄』にもその記述があるが、実はこれは誤りで、実際には白河院御自身が泰子を欲されたのではないかという歴史家の見方もある。前にも少し触れたが、後年、この泰子を鳥羽天皇が妃にしたいと白河院の意向を聞かずに忠実に打診したことが露見し、白河院は激怒され、忠実は罷免されるのである。余談であるが、白河院が忠実を鳥羽天皇の摂政に就けたのも、外戚関係がないからで、政のすべては院の意向によって決定するという形を見せ付けるためでもあった。ここから摂政関白は公家の最高職でありながら、実権が低下してゆくのである。それは目に見えて明らかであったから、白河院崩御の後は忠実や忠通は復権に向けてあの手この手で執念を燃やすことになる。が、今は、まだ白河院の絶頂であった。

鳥羽天皇中宮となった待賢門院璋子の人生はまさに波乱万丈であった。平安末を代表する女性として建礼門院徳子と双璧とも云えよう。鳥羽天皇とは二歳年長であり、天皇にとっては祖父の愛妾とわかっていながらも、聡明で美しい璋子へ終生憧れて惹かれておられたに違いない。大らかで何事にも動じない、まさに完璧な貴族の女性であった。後に、崇徳天皇後白河天皇の御代は国母として後宮に君臨する璋子に、ある種の嫉妬心もあった。鳥羽天皇とはそのようなお人であった。それは幼少期より陰謀渦巻く歪みきった禁中においてお育ちになれば当然であった。しかし、専制君主白河院後宮トップの祇園女御の大きな傘の下でぬくぬくと、またのびのびと成長した璋子はまさに天真爛漫なところが備わっており、それは誰をも惹きつけた。白河院鳥羽天皇のみならず、璋子は禁中において多くの男性と関係を持ったとも云われている。その一人がかの西行法師であった。

西行は俗名を佐藤義清と云う。僧名が円位で、西行とは号である。元永元年(1118)佐藤康清の嫡男に生まれ、十八歳で左兵衛尉となった。そして鳥羽天皇崇徳天皇に譲位されて院の御所に御入りになると、鳥羽院北面の武士として仕えるようになる。北面とは、院の御所を警固するために白河院政時代に設けられた制度で、院の御所の北面に近衛兵として詰めていた。北面の武士は弓馬の道に優れ、眉目秀麗で、詩歌管弦にも通じたものであることを条件とした。時には院の枕席に侍ることもあったと云う。西行北面の武士を勤めると同時に、璋子ともゆかりのある徳大寺家の家人も勤めていた。どこかで自由奔放に振舞う璋子を見かけることもあったのかもしれない。若い佐藤義清は璋子に一目惚れし、生涯をかけてただ一人の女性として愛した。いつのことかは知らないが、たった一夜、璋子と義清は結ばれた。ここから義清は恋と云う病に冒された。璋子に求愛し続けたが、遊びであった璋子には無碍にされた。恋に苦しみ抜いた挙句についに出家に至る一因であるとも云われている。『源平盛衰記』にはこうある。

さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐ある上臈女房を思懸け進らせたりけるを、あこぎの浦ぞと云う仰を蒙りて、思ひ切り、官位は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み栄えは秋の夜の月西へ准へて、有為の世の契を逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。

申すも恐ある上臈女房こそ璋子のことなのであろう。恋焦がれる義清に璋子はある古歌を贈っている。

伊勢の海あこぎが浦に引く網も たびかさなれば人もこそ知れ

伊勢のあこぎの浦は伊勢神宮へ捧げる神饌の漁場で、殺生禁断の海であるが、そこで夜な夜な網を引いていた漁師が、密漁が発覚して海へ沈められたという逸話が元にある歌だ。璋子はこの歌に自らと義清を重ねて、しつこく誘ってくる義清に、逢瀬が重なれば、やがて人の噂になると諭されたのである。

義清の出家の原因は親友の佐藤載康の急死であるとも云われるが、この事に無常観を感じつつ、人生の儚さを思い、道ならぬ、叶わぬ恋の虚しさが大きく影響したことは間違いない事実であろう。その因は待賢門院璋子なのである。私もこれを支持している。義清には妻子があったが、あるとき叶わぬ恋に心身疲労困憊となった義清は、前後不覚に陥り、帰宅するとじゃれ縋る幼い愛娘を縁の下に蹴り落とし、世捨て人となった。出家し西行となってからも、待賢門院璋子の面影は西行の瞼の奥に死ぬまで残っていた。それこそが稀代の数寄者であり、遁世者の先駆けであり、平安王朝のみならず、史上最高の大歌人西行が誕生するきっかけであった。ここに恋に破れて涙を呑んだ西行の歌をいくつか挙げたい。

面影の忘らるまじき別かな 名残を人の月にとどめて

弓張の月にはづれて見し影の 優しかりしはいつか忘れん

数ならぬ心の咎になし果てじ 知らせてこそは身をも恨みめ

青葉さへみれば心のとまるかな 散りにし花の名残を思へば

待賢門院璋子への想念が、西行の歌作の原動力であったことはたしかであると私は思っている。

 

 

 

 

 

なおすけの古寺巡礼 鎌倉瑞泉寺

今年の初夏、久しぶり鎌倉へ出かけた。鎌倉には何度行ったかわからないが、まだ見ぬ寺がある。瑞泉寺もそのひとつである。鎌倉駅北鎌倉駅周辺、長谷や海岸沿いの寺はほとんど訪ねているが、まだ見ぬ寺はそれらとは逆の鎌倉の奥地にある。鎌倉では谷のことを「谷=やつ」とか「谷戸=やと」と呼ぶ。鎌倉を三方から取り巻いている低い丘陵が、町中に支脈を伸ばして作り出すこれらの谷が五十余りもあるとか。この三方を囲む丘陵は、いざという時に外敵の侵入を防いだが、平時は物資の運搬に苦労した。源頼朝が幕府を開いてから鎌倉は”もののふの都”として機能的に整備されていった。往時の鎌倉は京都に次ぐ大都市であり、道路や建物を造るための資材や日常の生活物資の量は相当なものであった。そこで戦時に敵の来襲を防ぎ、平時に交通の要路として機能するよう工夫されたのが切通と呼ばれる開削道だ。とくに、名越切通、朝比奈切通巨福呂坂亀ヶ谷坂、仮粧坂、大仏切通極楽寺切通を「鎌倉七口」、「鎌倉七切通」と呼ばれている。中には今も往時の雰囲気を遺している場所もある。今は谷を埋めるように住宅が増えたが、かつてはこうした谷の奥に寺が建立された。狭い谷を削り、その土砂で傾斜地を埋めて、平地を作った。こうして紅葉ヶ谷、広町谷、扇ヶ谷などに、今も情趣ある寺が点在している。鎌倉の寺社は谷を抜きにしては語れないのである。

瑞泉寺は紅葉ヶ谷の最奥に在る。 鎌倉駅からバスで鎌倉宮まで行き、あとは歩く。ついでにと言っては甚だ不謹慎であるが、せっかくなので鎌倉宮にも参拝した。白亜の鳥居が初夏の空と緑に映えて美しい。鎌倉宮の祭神は後醍醐帝の皇子大塔宮護良親王。ゆえに”大塔宮”と通称される。後醍醐帝には多くの皇子がいたが、護良親王は他の皇子と比べて母の地位が低かったため、皇位継承レースから脱落し出家した。比叡山へ昇り、若くして天台座主になったが、父帝が挙兵すると還俗し、”建武の新政”で倒幕の功労者として征夷大将軍になるが、独断的な暴走や、野心的な企みが発覚し、後に父帝や足利尊氏と対立し幽閉された。社殿の背後に親王が押し込められたと伝わる土牢がある。幽閉されてから一年後、護良親王は二十八歳で殺害された。鎌倉宮南朝が正統な皇統であると裁断された明治帝の勅命によって、明治二年(1869)に創建された。南朝と云えば悲運の皇子ばかりだが、護良親王の悲劇が始まりであったと云える。その怨霊も後々まで恐れられたに相違ない。傍らには、吉野で親王の身代わりとなって壮絶な死を遂げた忠臣村上義光も祀られており、今も親王に付き従っている。境内はまことに静謐な浄域なのに、何かが蠢くような、ただならぬ気配が漂っている。鎌倉の中心部からは少し離れているため、ふだんは参詣者もまばら。爽やかな陽射しを受けても、どこか儚げな雰囲気の社である。

大塔宮から瑞泉寺までは歩いて20分弱だろうか。途中、左手に急にひらけた場所があるが、此処が往時鎌倉一の壮麗な伽藍が立ち並んでいた永福寺跡である。弟義経を追い込み、奥州藤原氏を滅ぼして、奥州平定に成功した頼朝は、中尊寺毛越寺など、平泉の諸寺の荘厳さに感嘆し、この戦で亡くなった敵味方の霊を弔うとともに、鎌倉幕府の威光を示すため、永福寺と云う大寺院の建立に着手した。源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立した。一つ目は鶴岡八幡宮(もとは神仏混淆の神宮寺であった)、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺である。現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで勝長寿院永福寺は焼失してしまった。頼朝は中尊寺の二階大堂(大長寿院)のすばらしさに心をうたれ、それを模して建てたのである。二階の御堂があった為「二階堂」と呼ばれた。御堂は左右対称に配置され、二階堂を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が配され、東を正面にした全長が南北230mの大伽藍であった。また、前面には、南北200m以上の池が作られていた。永福寺は応永十二年(1405)に焼失し、基壇のみが遺跡となっているが、このような山あいによくぞこれだけの大伽藍を建てたものだ、と感心した。同時に、遺っていればさぞかしと思いやられる。今は二階堂という地名がその名残を伝えている。

永福寺跡からは五分ほどで瑞泉寺門前に達するが、本堂まではさらに五分ほど、木々に覆われた昼なお暗き参道を進む。苔むした石段の先に、やがて慎ましい山門が見えてくる。山門をくぐると涼やかな緑蔭が境内を包み、こんな奥まで歩いて来た疲れを癒してくれる。 釈迦如来を本尊する本堂は昭和後期の再建であるが、端正な姿がまことに凛々しい御堂である。私には鎌倉でもっとも美しい御堂だと思う。質朴な建築が多い鎌倉で、この優美さは異彩を放っている。茶室も閑雅な佇まいで良い。瑞泉寺は庭の美しい寺だが、あまり創りすぎていないところが好ましい。 一方で御堂の裏には荒々しい岩肌が剥き出しの崖が聳えている。その岩盤を巧みに削り、天女洞、池、中島、滝などが配された池泉回遊式になっている。かつては草木に埋もれていたが、昭和四十四年(1969)に発掘された。植え込みや石組を省いた簡素な庭は、鎌倉末期の庭園遺構として貴重なもので、名勝となっている。崖の上には徧界一覧亭と云う修行場があるが、一般の立ち入りは許されない。 創建は嘉暦二年(1327)。この地を禅院相応の勝地とした夢窓疎石が開山である。夢窓疎石南北朝時代に日本の臨済禅の道筋を強固にした巨人である。政治的な辣腕も奮った高僧だが、稀代の作庭家でもあった。開山や中興した天龍寺西芳寺恵林寺、永保寺など名だたる寺の庭を手がけている。此処もそのひとつだ。瑞泉寺と云えば梅。盛りの頃は全山が梅の香りに包まれ、鎌倉に春の訪れを告げる。むろん一年中花が絶えず、この日は残こんの躑躅、盛りの紫陽花、そして桔梗が可憐に咲いていた。鎌倉の最奥とも云える紅葉ヶ谷に在って、ふだんの瑞泉寺には観光客もほとんどおらず、まことに静かにお参りできた。こういう寺が鎌倉にはまだ隠れている。

皇位継承一白河院政一

平安貴族の長藤原氏藤原氏による藤原氏のための政治は終焉を迎えた。期せずして新たに権力を掌握し強固な実権を握ったのが白河天皇であった。ことに譲位されて上皇となられてからの権勢欲は凄まじいもので、およそ四百年も続いた平安時代において白河院ほどの専制君主はいなかったであろう。いうまでもないが院政とは、天皇の位を退いた太上天皇上皇(院)が、天皇家の事実上の主であり、「治天の君」として、天皇を後見し国政を主導する政治体制のことである。この場合臣下に権力はなかった。院政を敷いて確固たるものとしたのも白河院であり、白河院が藤原時代を終わらせ、ひいては平安時代の終焉を招くことになるのである。平安末期はここから始まる。

白河天皇は天喜元年(1053)後三条天皇の第一皇子として御誕生、母は権中納言藤原公成の娘茂子である。先に述べたとおり、すでに父帝の御代から藤原摂関家を抑制した政は始まっており、院政の下地も後三条天皇が道筋をつけられてはいた。その父帝は志半ばで崩御されたが、父帝の遺志は白河天皇に着実に宿っていた。事実父帝の行われた親政による荘園整理事業を継続して取り組まれ、摂関の力を削ぐことに注力されている。しかし、父帝が白河天皇の次は異母弟の実仁親王を皇太弟と定めたことには不満を持たれていたに違いない。後三条天皇が若くして白河天皇皇位を譲られたのは、実仁親王立太子を目指していたからだとも云われるのだ。白河天皇の生母茂子は、関白藤原頼通の異母弟藤原能信の養女であるため、藤原摂関家とは外戚関係となる。一方の実仁親王の生母は三条源氏源基平の娘源基子で、摂関家とは外戚関係がないのである。これが摂関家の弱体化を画策していた後三条天皇の狙いであった。こうなると白河天皇実仁親王即位までの中継ぎで終わる可能性が高くなる。白河天皇がこれに危機意識を持たれなかったはずはあるまい。ところが、広徳三年(1086)、実仁親王は疱瘡を患い十五歳の若さで夭逝してしまう。これを機と見た白河天皇は電光石火の行動を起こされる。わが子の善仁親王東宮に立てて、その日のうちに譲位、善仁親王は八歳で堀河天皇となられた。いつの世も権力者は強運と実力兼備しているものだが、白河院もその例に漏れない。そしてその運を逃さずに最大限に活かすことができるのが、権力者なのである。加えて藤原摂関家の内紛(頼通家と教通家による権力闘争)によって、摂関政治の体制が大きく揺らいだことにより、白河天皇は父帝時代から垣間見えていた天皇親政を推進することができた。そして前九年の役後三年の役など、各地での世情不安から、白河院が強力な専制君主になられたのは必然であったと思う。

白河院は院御所にて政治を行われた。院御所では上皇女院に関する家政が執行されていたは、白河院は院御所に近臣や公卿を参集させ、国政の問題を審議し、白河院の決済によって諸問題の解決を図るというシステムを確立する。この時をもって院政が開始された。藤原氏摂関政治は、摂政・関白の職にある藤原氏が、天皇を上に戴くことで権力を行使するシステムであった。国政に関わる審議は、院御所ではなく内裏の陣座で公卿らによって行われていた。この政治はあくまで天皇を奉じて藤原氏が政を代行するシステムである。しかし院政においては、天皇の位にいた上皇はその権威も加わり、今上天皇の上に立つことが可能である。摂関政治天皇の承認を必要としたが、上皇は自らの意思によって政務を執行できるのである。白河院は自らの立場を巧みに利用し権力を掌握されたのである。

白河院は頼通の子藤原師実を堀河幼帝の摂政に就ける。師実は後に関白となったが、実際、後見したのは白河院であった。むろん当初は自らの直系に皇位を継承させようということも譲位の大きな目的でもあった。そして摂関の弱体化は進めようとされたが、潰してしまうことは避けられている。師実のあとは子の藤原師通が継いで関白となった。師通は十六歳になった堀河天皇と新たな政治を試みようとし、白河院を遠ざけようとした。『今鏡』には「今上天皇にお仕えするのが当然なのに、院御所の門前に車が止まるというようなことがあってよいのか」と言ったとある。ゆえか堀河天皇の御代、白河院政はまだ段階的であり、完全なる院政とは云えなかった。白河院は人事権は握ってはいたが、師実、師通親子とは両校な関係を構築しており、政はある程度任せていた。白河院は後見の引き際と考えられていたかもしれない。さらにはこの時、溺愛されていた第一皇女媞子内親王薨去された。失意の白河院は二日後に出家され法皇となられたが、政への意欲まで失ってしまわれたのである。よく学問し、詩歌管弦に優れ、容姿端麗であったと云われる師通は、気性もまっすぐで、度量も大きく、清廉潔白な賢人を人材登用して政をおこなったため、天下もまるく治まっていた。しかしこの師通も三十八歳で突如病死してしまう。承徳3年(1099年)六月のことで、後は嫡男の藤原忠実が継いだが、この時若干二十二歳で権大納言にすぎず、堀河天皇を輔弼することはできなかった。天皇白河院に政の相談をせざるを得なかったのである。摂関家最期の大物であった師通以降、摂関家が廟堂において権威こそあれ、政を主導することは二度となかった。師通の死で摂関政治が完全に終わったと云えよう。白河院政はこの師通の死後、本格的に軌道に乗る。

堀河天皇について少々。幼帝となられ、皇位にあられること二十二年、おそらくは何ひとつとして御自身の思うとおりにはならなかったであろう。それはこのあとの崇徳天皇にも同じようなことが云えるが、堀河天皇は偉大なる父君を尊敬し、恐れておられたに違いない。ことに師通を失ってからは、発言力はほとんどなかったと云ってよい。長治二年(1105)、忠実がようやく関白に任じられるも、師通ほどの力はなく、完全に白河院の言いなりであった。天皇にも関白にも権限はなく、執政はあくまで白河院が行った。堀河天皇は温厚仁慈なお人柄で、和歌管弦に長じ、特に笙や笛は一流であられた。が、こうした篤実な人は貴賎男女を問わず薄命なもので、嘉祥二年(1107)七月十九日、二十九歳の若さで崩御された。遺された御製は日本人として共感せずにはいられない美しい御歌ばかりである。

千歳まで折りて見るべき桜花 梢はるかに咲きそめにけり

敷島や高円山の雲間より ひかりさしそふ弓はりの月

後を継がれたのは堀河天皇の忘れ形見の皇子宗仁親王で、五歳で即位された鳥羽天皇である。鳥羽天皇の母は大納言藤原実季の娘藤苡子であるが、この生母が鳥羽天皇誕生後まもなく逝去したため、宗仁親王白河院の手元で養育され、わずか生後七ヶ月で立太子された。白河院院宣により鳥羽天皇を即位させ、さらにその摂政に鳥羽天皇外戚関係のない忠実を任じた。満天下に皇位継承は院の意志によって決定されると示されたのである。摂関家は完全に院の風下に立つことになった。余談であるが、これより数年前、内覧となっていた忠実は、源義親の濫行や、東大寺僧侶の赤袈裟着用問題を解決できず、無能の烙印を押されてしまう。さらには、白河院が忠実の叔父である興福寺別当覚信への不信から解任しようとされた際に、執り成そうとしたことが院の怒りを買い、政への関与を拒絶されている。こうした経緯からか、忠実は摂関家を”道長時代の栄華をもう一度”と云う一念を生涯抱き続ける。が、この後も鳥羽天皇の御代になって、天皇から娘の泰子を妃にしたいと持ちかけられ、天皇外戚関係を結ぶ好機と捉えた忠実はこれを受諾した。このことが再び白河院の激しい怒りを買うことになり、忠実は失脚してしまうのである。白河院存命中はずっと睨まれ続け、ついに廟堂への復帰は叶わなかった。

院中で実権を握る白河院は摂関や公卿という上達部を遠ざけて、有能で従順な中下級の貴族を重用するようになり、このうち武士階級の平氏や源氏も少しずつ登用されるようになる。これが平安貴族と院政をやがて崩壊へ導くことになるとは、この時の白河院は夢にも思ってはいなかったであろう。あるいはそれを見据えて行動されていたのであろうか。多年側近に仕えた藤原宗忠は、その日記『中右記』に白河院の治政をこう評している。

法皇は天下の政をとること五十七年、意にまかせ、法にかかわらず除目、叙位を行った。その威権は四海に満ち、廉価これに帰服した。理非は果断、賞罰は分明、愛悪は掲焉、貧富の差別も顕著で、男女殊寵が多かったので、天下の品秩が破れ、上下衆人も心力に堪えなかった。」と。白河院の専横は苛烈を極めていったことを如実に表した文である。

武蔵御嶽神社

浅田次郎さんの小説に『神坐す山の物語』と云う作品がある。武州青梅に座す”御岳山”にまつわる奇々怪々な説話の短編集で、数ある浅田作品で私が一番好きな本だ。母方が武蔵御嶽神社の神官の家柄と云う浅田さんは、少年時代にしばしば御岳山に登り、宿坊に起居したとか。その頃に体験した話や、伝え聴いた話は小説と実話の境目を渡るが如く神秘性を帯びている。時に戦慄を覚えつつ、私はこの小説を読んで、予てより御岳山に興味津々たる思いを抱き、この春、山を目指した。

青梅線青梅駅を過ぎると、多摩川の渓谷に沿って走る。あたかも山懐に入ってゆくようだ。この風景は実に良い。都心から約2時間、東京とは思えぬ雄大な眺めである。御嶽駅からは、バスでケーブルカーの滝本駅まで行き、ケーブルカーで関東一と云う22度の急勾配を831メートルまで一気に登る。その先はさらに歩いて926メートルの山頂の社へと参る。春闌でも山上はさすがに寒かったが、残んの山桜を存分に楽しめた。山並のはるか東方には都心のビル群もかすかに遠望される。たしかに此処も東京都なのであるが、やはり此処は東京の奥座敷で、奥多摩の入り口であり、檜原村と並ぶ幽邃の境である。

しばらく山の際を歩いて行くと、両側に大きな宿坊が次々と現れる。相州大山でも見たが、御岳山にも古くから”講”があって、”御師”と呼ばれる神職者が参詣者の登山から祈祷、宿坊の世話などを代々続けている。中には茅葺屋根の大きな宿坊もあって、近頃は茶店や食事処となっている坊もある。

それにしても静かだ。コロナ禍のこととて高尾山や大山に比べて観光客やハイカーも少ない。私が登ったのは山シーズンが始まるより少し前であったが、都心から遠い所以もあろう。ぐるりと螺旋状の参道を廻りきると、立派な随身門が現れ、ここより330段余りの石段を登りきれば、天空の神殿が待っていた。此処で振り返れば、快晴の日は絶景を拝めるそうだが、薄曇りのこの日は春霞も立って、視界良好ではなかった。それでも重畳と続く峰々の稜線は墨絵の様に美しく、刻々と表情を変える山の空に引き込まれそうになった。

武蔵御嶽神社の創建は崇神天皇の御代とも、景行天皇の御代とも云われているが、定かではないと云う。山は”御岳”と書くが、神社や駅は”御嶽”と書く。ちなみに信濃御嶽山とは信仰も無関係で、信濃は”おんたけ”読むが、こちらは”みたけ”と呼ぶ。

御岳山は古代から神々が棲まう山として崇められ、修験道の霊山であった。主祭神は櫛眞智命だが、これは蔵王権現のことで、天平時代に諸国行脚中の行基蔵王権現を安置したとされ、本地垂迹の原型を色濃く留めている。吉野、大峯、富士、白山、出羽三山、筑波、戸隠、大山、高尾山などだいだい何処も修験道の聖地は同じような型が見られる。御岳山には元は大國主、少彦名命が祀られたのが起源で、後に安閑天皇も合祀された。安閑天皇は、継体天皇の後を継がれて66歳で第27代天皇となられたが、古墳時代後期とはいえ、不明な部分も多い。私も多くを知らないが、神仏混淆では蔵王権現と同一視されたため、明治の神仏分離以降、蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多いと聞く。この神社もそうした経緯があったのだろう。蔵王権現は鎌倉武士に信仰されたが、ことに当社を厚く崇敬した畠山重成は武具や太刀を奉納している。宝物館には国宝の甲冑や重文の太刀が蔵されているが、坂東武士にとっては武神と崇められ、徳川幕府も江戸の西の護りとして、南面の社殿を東面に改めている。

社殿の裏には多くの摂末社が並び壮観である。奥宮の遥拝所もあるが、此処より拝む奥宮は鉛筆の先の様に秀麗なる円錐形の山容で、いかにも神山と云う崇高な姿である。遥拝所から奥宮までは徒歩で40分ほどだと云うが、この日はもう夕方近かったので私は断念した。奥宮に祀られているのは日本武尊で、此の山に武具を納めたと云う伝説が”武蔵”の国名の由来とも云われている。

武蔵御嶽山神社の眷属は大口眞神と云う狗神で、”おいぬ様”と通称されている。武蔵御嶽神社と云えばこのおいぬ様が有名で、肖って愛犬の健康祈願に参詣する者も多い。犬同伴で参拝可能で、大型犬でもケーブルカーに乗れる。社伝によれば、おいぬ様はニホンオオカミのことらしい。昔、日本武尊が東征の折、この山中で迷った。するとどこからともなく白狼が現れて先導を務めたと云う。日本武尊は白狼に御岳山に留まり、魔物を退治し、山を守護せよと命じた。ゆえに当社は狛犬と獅子ではなく、狛犬と狼なのである。境内の至る所でおいぬ様を見かけたが、中でも拝殿前の巨大なおいぬ様は実に迫力がある。長崎の平和祈念像を手がけた北村西望氏が奉納したものだそう。狛犬と対であたりを睥睨する圧倒的な姿に、魔物は恐縮し一目散に退散するであろう。現代東京もこんなに強そうなおいぬ様に、西の空より守られているのだ。

現在の社殿は、元禄十三年(1700)、犬公方綱吉の寄進によるものと云うのも頷ける。江戸中期以降においぬ様は魔除け盗難避けの神として、庶民に信仰された。犬好きの私もかつて飼っていた何匹かの愛犬を想い、絵馬に供養文を書いて、おいぬ様の御札を授かってきた。今、私の寝室で番犬として護ってくださっている。

皇位継承一前九年•後三年の役一

藤原頼道が関白を降りた翌年、治暦四年(1068)後冷泉天皇崩御された。後冷泉天皇に皇子はおられず、異母弟の皇太弟尊仁親王践祚後三条天皇として三十五歳で即位された。頼道の後は弟の教通が関白を七十三歳と云う高齢で継いだ。しかし、天皇との外戚関係はなく、加えて頼道、教通の娘は誰も皇子を産んでいなかった。後三条天皇の父は後朱雀天皇だが、母は三条天皇の皇女禎子内親王である。藤原氏の娘ではなく、皇族の女性を生母とする天皇は、宇多天皇以来百七十年ぶりのことであった。『愚管抄』には後三条天皇が「外戚関係のない摂関家など何ほどでもない」と豪語されたとある。外戚の威権から解放された後三条天皇大江匡房ら学識者を側近として重用され、脱藤原摂関家を目指して積極的に親政を推進される。もっとも天皇も側近たちも摂関家を敵視していたわけではない。が、親政が始まると摂関家の影響力に翳りが見え始めたのは否めない。後三条天皇は多くの治績をあげられたが、中でも荘園整理事業と公定枡の制定は有名だ。ことに荘園の整理には力を入れられ、太政官に記録荘園券契所を設置し、専従の役人を置いて、荘園整理の徹底を図られたのである。当時、全国に荘園が広がり、国司による徴税が滞り国家財政に支障をきたすようになっていた。そのため後三条天皇は「延久の荘園整理令」を発せられ、天皇の代替わりごとに荘園を整理して、新たな荘園の設置を制限し、違法性のある荘園は停止して公領として回復させた。こうした政策は、膨大な荘園を手に入れることで権勢を築いた摂関家の首根っこを抑える効果があった。この政策は後世その性格を変えながらも再三復活し、あたかも天皇親政を象徴する事業とみなされるに至った。さらには皇室経済の強化を図り、各地に勅旨田を設定、後三条院勅旨田の名で後世まで伝えられた。もっともこれらの政策は後朱雀、後冷泉天皇の御代から始まっており、後三条天皇は父帝と兄帝の意思を継がれて、摂関家の力が弱まってきた背景を見計らい、総仕上げをなされたのである。そして、いまひとつが十年前に焼失した大内裏の再建事業で、その中心たる大極殿後三条天皇の御代に落成した。

摂関家の隆盛も斜陽となってきた。藤原道長は生前、摂関を頼道から弟の教通へ、教通から頼道の子へと云う継承を望んでいた。頼道は父の遺言どおり教通へ関白を譲り、その際に息子師実への継承を含ませておいた。しかし、教通は自らの息子の信長へ継がせたい気持ちが次第に大きくなってゆく。当然であろう。しかし思わく通りとはいかず、頼道が八十三歳で死去すると、翌年には教通も八十歳で死去。関白は予定通り師実が引き継いだ。

後三条天皇の親政は順調に思われたが、御在位はわずか四年半のことで、三十九歳で退位され、二十歳の東宮貞仁親王に譲位された。これが白河天皇である。上皇となられた後三条院は、ただちに院庁を開かれ、院司と呼ばれる職員が任命された。院庁は上皇の家政を執り行うものだが、後三条院は白河天皇を後見して国政を主導する考えがあったとも云われる。摂関家を抑制して政治を進めようとされた、この時を院政の始まりとする説もあるのだが、後三条院は譲位されて半年もたたぬうちに崩御されたため、真意は定かではない。一方で、後三条院は摂関家に対して反感はもたれたが、親政を強行されたとは云えず、政治体制としては後朱雀、後冷泉のそれを受け継いだに過ぎないとの説もある。むしろ摂関家の力を弱めたのは摂関家内部の対立であって、たまたま後三条天皇の御代にそれが明るみとなった。いずれにしても時代の節目、変わり目であったことは違いなく、いよいよ平安時代が末期へと入るのである。

藤原道長が世を去った頃からその序章は始まり、動乱の始まりを象徴するかのような出来事が、東国を舞台に勃発した。上総、下総一帯を支配下に置く平忠常が反乱を企て、安房守を焼き殺した。朝廷は追討使を派遣、内乱は数年続いた。甲斐守源頼信がようやくこれを鎮めたが、火種は東国各地に残っていた。かつて平将門が起こした内乱の火種は百年以上経っても燻っていた。さらにこれより四半世紀のち、今度はみちのくを舞台に大乱が起きる。かつて蝦夷から大和朝廷に帰順した俘囚の長安倍氏は、侵攻を繰り返しながら再び奥州の支配権を拡大していった。

話を少々遡る。律令制が整い始めた頃より、奥州は畿内勢力の憧れの地であった。権力者は広大で肥沃な大地を求めて、みちのくの原住民を蝦夷と蔑称し、極めて強引なる手法で侵略した。しかし蝦夷大和朝廷の想像以上に強かった。桓武天皇坂上田村麻呂に派兵を命じ、阿弖流爲率いる蝦夷をようやく平定したが、平定までには二十年もかかっている。阿弖流爲は身柄を拘束されて平安京へ護送され、田村麻呂の助命嘆願も虚しく処刑された。そもそも完全なる武力鎮圧ではなく、和睦であった。朝廷は実より名を、蝦夷は名より実を取ったのである。蝦夷の強さを思い知った朝廷は、その後は静観していた。が、平安後期になると土着の豪族安倍氏がみちのくの独立を画策し、北上川流域に防御壁や城砦を築いた。安倍氏は朝廷への貢祖をせず、いよいよ事態を看過できなくなった朝廷は、ついに安倍氏討伐のために陸奥藤原登任を大将とし、軍勢を差し向けるが、安倍氏の軍勢は朝廷軍を圧倒、登任は更迭され、代わって源頼義陸奥守に任じられた。頼義は武勇の誉れ高く、安倍頼時は恭順したが、すぐさま軍門に下るというわけにはいかず、膠着状態が続いた。頼義は刺客に襲われたが、これが頼時の息子貞任の仕業であると讒言され、頼義は貞任を引渡すよう求めたが、頼時はこれを拒否、ここに再戦となり安倍氏は滅亡した。これが奥州十二年合戦の前半戦、すなわち前九年の役である。この乱は十年近くも続いたが、実際の合戦は一年にも満たない。

安倍氏は倒されたが、その後も小競り合いは各地であって、鎮火せぬまま燻り続けた。散々に抵抗された上、朝廷はみちのくを完全に支配下に治めることはできずにいた。その様な大乱世に藤原清衡が生まれた。辛い幼少期を過ごしてきた清衡の心中には、朝廷に対する遺恨と警戒が、強く植え付けられたであろう。しかしこの経験は清衡を強く育んだ。清衡の父経清は国司として陸奥に下向した。出自は藤原秀郷の傍流の坂東武士であるらしい。よって中央政権の藤原氏とはまったくの別流である。経清は安倍氏から妻を娶り、天喜四年(1056)、嫡男清衡が生まれた。父は前九年の役では源氏に反旗を翻したため、処刑されたが、母が源氏に味方をした出羽国清原武貞と再婚したため、七歳の清衡は助命されたのである。安倍氏から奥州の覇者は清原氏に代わった。

しかし、今度は清原一族で骨肉の争いが始まる。後三年の役である。清原武貞には正妻との間に真衡という嫡男がいて、武貞亡き後家督を継いだ。また清衡には異父兄弟の家衡もいた。この頃、源義家陸奥守になった。真衡はかねてより不仲であった叔父の吉彦秀武を討つべく義家に願い出た。許しを得ると出羽へと出陣した矢先、吉彦と気脈を通じていた清衡と家衡兄弟は、真衡の拠点を襲撃した。しかし、用心深い真衡は事前に察知し、守りを強化、義家の援軍もあって、クーデターは失敗した。清衡はこれまでかと思ったが、なんと真衡が急死してしまう。私の推測に過ぎないが、ここまで話が出来すぎているのも、或いは清衡と義家は結託して、真衡を暗殺したのではあるまいか。いずれにしろ義家はこれ以上の争いを避けるべく裁定し、清衡と家衡に陸奥の六郡を与えたが、今度は家衡がこの裁定を不服とし、清衡を憎むようになる。ついに清衡の館を襲い妻子を惨殺したが、清衡は危機一髪で逃げ延びて、義家に助けを求めた。こうして清衡と家衡の兄弟で戦い、最終的には兵糧攻めに成功した清衡と義家に軍配が上がるのである。これが後三年の役である。終結後、清衡は清原の名を棄て、父経清の姓である藤原に帰することにした。ここに奥州藤原氏が始まるのである。

このあと奥州藤原氏の栄華は、基衡、秀衡と三代百年に渡り続き、その都平泉は、京都に匹敵する大都市として中央と一線を画す。奥州藤原氏は仏法を敬い平泉を中心に仏国土を創造した。その燦然たる名残は中尊寺毛越寺に見られる。おくのほそ道をゆく芭蕉も平泉を訪れた。

夏草や兵どもが夢の跡