弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの平成古寺巡礼 洛東散策(二)

かつて六波羅のあたりは、京の葬送の地への入り口であった。京にはいくつかの葬送の地があったが、墓所として有名なところは北の蓮台野、西の化野、東の鳥辺野の三所である。六波羅は鳥辺野へ通じる入り口である。平安京が確立されてから、町外れのこの辺りがそうなったのだが、貴人でない者は墓が建てられるわけでもなく、野ざらしにされ、鴨の河原には野辺送りままならぬ人々や、無縁仏が転がっていたと云う。疫病が蔓延したり、飢饉となるとその数は増える一方で、河原が死体の山となることも度々あった。げにおぞましき光景は、地獄そのものであった。一見、風雅な王朝の都も、よくよく見ればこんな有様であったのだ。腐乱した死体からは異臭が漂い、橋を渡る人は鼻をつまんで走ったと云う。鳥辺野は三大墓所でも、もっとも町から近く、多くの人々が埋葬されてきた。その入り口の六波羅は、冥府の入り口故に人々はあまり寄りつかないような場所だった。

なき跡を誰としらねど鳥べ山 をのをのすごきつかの夕暮

西行は鳥辺野をこう詠んだが、「をのをのすごきつか」とは、相当の土饅頭が累々とあったものと思われる。六波羅蜜寺のあたりを轆轤町と云うが、元は髑髏町と呼んだのを、寛永期の京都所司代板倉宗重が、轆轤町に改めたのである。平安末期に後白河院平清盛が登場すると、彼らの本拠地となり屋敷ができ、寺社が建立された。寂しい都はずれは、平安の終わりに日本の中心へと一変したのである。六波羅は六原とも書く。平家の根城となってから、六波羅蜜寺はさらに隆盛した。平家から源氏の御世となっても、鎌倉幕府はこの地を接収して、都の監視のために六波羅探題を置いている。

六波羅蜜寺は、天暦五年(951)、空也上人によって開創された。西国第十七番の札所である。梵語六波羅の波羅は彼岸を意味し理想の世界のことで、波羅蜜とは到彼岸、すなわち理想の世界へ達することであると云う。しかし、それは容易なことではなく、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つの修行を果たすことで、到彼岸が出来るとされる。到彼岸への道を同行し、現実世界の苦しみから救わんと願いを立てているほとけが、観世音菩薩だ。六波羅蜜寺の本尊も十一面観世音菩薩である。空也上人は醍醐帝の第二皇子に生まれながら、若くして世を厭いほとけに帰依、尾張国分寺にて出家した。その後は諸国遍歴をしながら、経典、教義を独自に極め、念仏を唱え、生かされていることに歓喜踊躍することを自ら実践した。空也上人の踊躍念仏は、いつも名もなき民の中にあり伝道された。空也上人はいつしか市の聖と呼ばれるようになる。空也上人は念仏の祖とも云われ、一遍上人法然上人、親鸞聖人ら鎌倉仏教の浄土系の祖にも尊崇されている。寺の宝物庫には一見に値する凄い仏像や彫像がある。中でも有名な空也上人と、平清盛はとてつもない存在感であった。空也上人立像は、胸に金鼓を下げ、右手には撞木、左手には鹿の角杖をついて、左足を一歩前に踏み出している。一度見たら忘れえぬ恍惚とした表情の口からは、六体の阿弥陀仏が現れ、まさに今、「南無阿弥陀仏」を唱えている瞬間の空也上人がいる。もはや僧ではなく、菩薩そのものに見える。空也上人という市の聖を、これほどまでに上手く表現した彫像はない。今昔物語集巻二十九には、「阿弥陀ノ聖ト云フ事シテ行く法師」の話があり、「鹿ノ角ヲ付タル杖ヲ、尻ニハ金ヲ札ニシタルヲ突テ、金鼓ヲタタキテ、万ノ所ニ阿弥陀仏ヲ勧メ」廻ったとあるが、この法師は空也その人であろう。一方で平清盛坐像は、さすがの貫禄が備わる。経巻を手にしているが、平家納経であろうか。入道相国となってからの清盛は、傲慢にも映るが、この彫像からはそれは感じない。悟り澄ました表情で、視線は遠くなのか近くなのか定かではないところが、仏者の目である。自分の亡き後の平家の命運をすべて見通しているかのような、哀しみと諦めが混在している。縋るべきは、ほとけのみであると思っていたとしたら、この坐像の平清盛ほど、彼らしい姿はないだろう。

六波羅蜜寺から目と鼻の先に六道珍皇寺がある。この寺はもとは東寺の末寺で、現在は臨済宗建仁寺派の寺だが、禅宗寺院の印象は薄い。魔界迷宮の多い京都でも、随一のミステリアスな場所で、寺のくせに薄気味悪いところが良い。私は九年ほど前の盆の入りの夕暮れ、この辺りを彷徨いた。ちょうど迎え火の頃合で、残照わずかの六波羅は、何ともいえない怪しい雰囲気が満ちていた。ピタリと逢う魔が時に六波羅に迷い込んだのだ。此の世と彼の世の境目がなくなりそうな気配が漂う六波羅界隈。こんな時には平家の残り香もまだ存分にしてくる。六波羅蜜寺には咽ぶほどに香煙が燻り、灯籠や蝋燭で本堂が真っ赤に照り映えている。六道珍皇寺は薄明かりの灯籠がポツポツと灯り、精霊迎えに来た人々が列をなしていた。応対する寺の人は、闇の中に上半身のみがぼうっと浮かび上がって見えるのが、幻の様に妖しくて、狐につままれたような気がした。精霊迎えとは六道参りともいい平安時代から行われている。盆の前の八月七日から十日の間に、祖先の霊を家に迎える風習で、日本中でだいたい似たようなことを行う。京都ではその中心がここであり、御魂は六道の辻であるこの寺を必ず通ると信じられているのだ。精霊迎えは、まず山門の傍で高野槙を買う。昔から精霊は槇の葉に宿ると信じられているからだ。次に水塔婆に亡き人の戒名や俗名を書いて、鐘楼で迎え鐘を打つ。水塔婆を線香で清めて、高野槙で水回向をして納めるのだという。

言うまでもなく精霊送りは、京都の送り火の総代ともいえる五山の送り火があり、また各々の家でも送り火をするのだろう。六道珍皇寺六道の辻と呼ばれ、この辺りが鳥辺野の入口であったことに由来する。六道は仏教において衆生が輪廻転生するという天、人、畜生、修羅、餓鬼、地獄の六つの世界。生まれてきて死ぬまでの業によって次の転生先が変わるとされる。仏陀は輪廻転生は苦であり、ここから解脱することが目的であると説いた。輪廻転生の辻=交差点が、京都においてはこの場所とされたのである。平安貴族の小野篁は半ば伝説的な人物だが、この寺の井戸から冥界との行き来をしたと云われている。その井戸は今も本堂の奥に口を開けているが、昼間でも何となく気味が悪い。閻魔堂には閻魔大王小野篁弘法大師が並んで祀られている。篁は日中は優秀な官吏として、夜には冥界へ赴き閻魔大王の補佐をしたと云う。篁の木像は超人的な妖気を湛えていて、面を合わせたら動けなくかもしれないと思い、私は思わず目を逸らした。篁の墓は何故か紫式部と隣り合わせて、ここからずっと北へ離れた紫野の堀川通り沿いに在るが、平安の魔人と魔女のような両人が、同じ場所で眠っているのも因縁めいているし、京都人の畏怖と洒落が感じられる。何度も書いてきたとおり私は伝説、伝承を完全に否定はしない。寧ろ近頃は、伝説を信じたいとさえ思っている。生きている此の世や、科学こそが夢幻の虚構であって、彼の世や伝説こそが真実なのではないか。我々はあちらの手の上で踊らされているだけではなかろうか。

現在の鳥辺野にも広大な墓地が広がっている。西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の西大谷墓地と、その少し東に京都市営の清水山墓地がある。西大谷墓地には親鸞聖人の廟所があって大谷本廟と云う。大谷本廟は通称西大谷と呼ばれる。私も生家の菩提寺本願寺派の寺で、本山がお西さんになるが、今は宗派に拘ることなく寺廻りをしている。寧ろ若い頃は、敢えて真宗寺院を避けていた。真宗寺院は門徒以外は寄せ付けない閉鎖的な印象を拭えなかった。美しい仏像や建築に魅惑されていた私には、あまり関心が湧かなかったのである。菩提寺の付属幼稚園に通い、朝な夕なに念仏の歌を唄い、真宗にどっぷりと浸ってきたことが、大人になるにつれ重苦しい枷になっていた。真宗寺院は念仏の道場として始まったところが多く、門徒のための道場であり、集会所であり、公会堂であり、観光寺院ではない。浅はかな私はそこに惹かれなかった。が、歳を経て最近は少し思い直している。懐かしい念仏、お経、歌が響く場所。私にとって真宗寺院は安らぎの場になりつつある。気負わず、ごく自然に、仏心に近づき、何にも考えずにひたすらにお参りできる。ことに西本願寺本願寺派の寺では、ホッとするところがある。西本願寺は私の母船のようなものである。ここ大谷本廟もまた然り。訪れる人はほとんどが門徒であろう。親鸞聖人の御廟は真っ直ぐに西方極楽浄土を向いている。御廟に護られて、いや親鸞に導かれるように背後に広がる大谷墓地。ここへ来れば目に見えぬ極楽往生への繋がりを誰もが感ずることができるだろう。大谷本廟親鸞御廟であるが、立派な門や本堂があって、京都でなければかなり大きな寺である。京の町にはこのくらいの規模の寺は無数にある。参道の池には美しい石橋が架けられてい、周囲の楓との調和はさすがに京都の寺らしい。

弘長二年(1263)十一月二十八日、親鸞聖人は九十歳で大往生、鳥辺山南辺の御荼毘所で火葬されて、遺骨は鳥辺野北辺の大谷に納められた。この御荼毘所が大谷本廟である。文永九年(1272)、末娘の覚信尼により、遺骨を吉水の北に改葬されて、新たに廟堂を建立した。現在の知恩院の山門の北に位置する崇泰院付近とされる。この廟堂は後に大谷本願寺と呼ばれ、蓮如上人時代の寛正の法難により破却されたが、関ヶ原の戦いで勝利し、実権を握った徳川家康により、本願寺が東西に二分され、慶長八年(1603)現在地に移転し、この地を大谷と呼ぶようになった。一方、東本願寺の大谷祖廟は、吉水の近くにあって、こちらもやはり親鸞聖人の廟所となっている。次に私はその大谷祖廟へと向かった。

酷暑でも高台寺のあたりは観光客で溢れかえっている。少し時間があるので霊山の坂本龍馬中岡慎太郎の墓参りをする。霊山観音を通り過ぎ、霊山護国神社まで急坂を登るが、この暑さを登るのは一苦労だった。霊山歴史館ではちょうど西郷隆盛展をやっている。ここからさらに山を登る。東山連峰は突如として隆起するところが多いので、登るには気合が必要だ。息を切らせてようやく辿り着いたら、展望が開けて、京都市中を見渡すことができた。霊山墓地はずいぶんと高台にある。ここからの眺めは絶景で、西山から愛宕の高嶺までよく見えたが、空には嵐の後の鈍色の雲が、まるで龍の様に鋭く尖って蟠踞している。霊山墓地には木戸孝允高杉晋作久坂玄瑞大村益次郎梅田雲浜ら維新の志士たちが所狭しと埋葬され、皆、京都市中を睥睨するかの様に眠っている。その最前列の真ん中に坂本龍馬中岡慎太郎は並んで眠っている。墓には鳥居まであったが、彼らは嬉しくはあるまい。ここから二十一世紀の京都を、日本を、世界をどんな気持ちで見ているのか。彼らの思い描いた目標のいくつかは達成されたであろう。が、彼らの愛した日本人は消えかけているであろう。喜びと憂いとが同居しているのではなかろうか。

霊山墓地を降りて、再び高台寺の門前を通り、寺の前から円山公園に抜ける。円山公園の手前に東大谷と呼ばれる大谷祖廟がある。ここが東本願寺すなわち大谷派親鸞聖人廟所である。西大谷に劣らぬ立派な 門は背後の山の緑に映え、大きな本堂からは門徒が集い賛美歌の様に美しいメロディの声明が聴こえてくる。境内は美々しく整えられており、良い按配で草花が植えてある。本堂前にはミストシャワーが完備してあり涼風が吹き抜けている。汗だくで歩いてきたので、あたかも極楽に達したような心持ちになった。親鸞聖人の御廟は本堂の真上にあり、西大谷と同じく真っ直ぐ西方を向いている。聖地から発せられるパワーは確かにあるが、それはこちらを威圧するパワーではなく、和やかなものである。親鸞聖人入滅から長い時間をかけて、醸成された浄土真宗の専修念仏はしっかりと根を張った。東西の大谷御廟へ来るとそれを実感する。

大谷祖廟を北に出てすぐの裏手に、長楽寺という建礼門院ゆかりの寺がある。ここへも長年来たかったが、ようやく機会が訪れた。建礼門院徳子は、平清盛二位尼時子の間に生まれた。外戚として宮中を掌握したい清盛は、徳子を入内せしめ、高倉帝の中宮と為した。見事に徳子は安徳帝を生み、清盛は感涙したが、その喜びも束の間に高倉帝と清盛は相次いで世を去ってしまう。建礼門院となってからの徳子は、まさに階段を転げ落ちるかの如くで、平家は安徳帝を奉じて西海へと落ち、壇之浦にて墜えたのである。安徳帝は壇之浦で二位尼に抱き抱えられて、神器の剣とともに波の下へと旅立たれた。建礼門院もすぐに後を追うも、沈みきれずに源氏方に引き揚げられ、無残にも京へと護送された。この時の女院の気持ちほど、察するに余りあることはない。最愛の息子と平家一門を喪い、悲しみや憎しみなど湧く気力すらなかったのではあるまいか。女院が落飾されたのが、ここ長楽寺であると云う。平家物語の灌頂巻「女院御出家」にはこうある。

かくて女院は、文治元年五月一日の日、御髪落させ給ひけり。御戒の師には、長楽寺の阿證坊上人印誓とぞ聞えし。御布施には、先帝の御直衣なり。

出家にあたり御布施にするものが何にもなく、仕方なく安徳帝の御衣を、仏前に垂れ下げる幡に縫いて御布施とされたのである。建礼門院は平家の絶頂から没落までをつぶさに見た。平家をただ一身で象徴するかのような生涯である。平家物語の大原御幸で、寂光院を訪ねてきた後白河院に、女院は、自分は生きながらにして六道のすべてを見たと言う。寺には幼い安徳帝の御影が伝わるが、独楽を廻して遊ぶあどけない姿は見る者の涙を誘う。二十九歳で出家された建礼門院の御影は、源氏の目を欺くためか全体に墨が塗られてある。放心してぼんやりと浮かぶ建礼門院は憐れであるが、我が子と平家の菩提をただ一人で弔う覚悟はできたのかもしれない。

長楽寺は延暦二十四年(805)、桓武帝の勅命で伝教大師によって開かれた。大師が自ら彫ったとされる本尊の准胝観音像は、天皇の御即位のときのみ御開帳される秘仏である。来年は三十年ぶりに御開帳されるわけだ。当初は叡山の別院で、往時は円山公園一帯のほとんどが寺域であったが、大谷御廟建設時に江戸幕府の命により境内地を割かれ、明治以降に円山公園になった。室町時代の至徳二年(1385)、時宗の国阿上人が入り、以来時宗の寺になる。江戸後期には衰微しており、文化年間に浄土宗西山派に改宗。明治二年(1870)に、再び時宗遊行派になった。

折からの豪雨の後で、長楽寺への緩やかな参道は、山からの水が川のように流れ落ちてくる。歩けないほどでもないので、なんとか山門まで辿り着いたが、人気はなく、蟬しぐれと滴る水音のみが、森閑とした境内を包んでいる。全山が鬱蒼たる森に覆われており、まことに幽邃の境といった感。目の前が円山公園で、祇園の喧騒から歩いてわずか十分少々とは思えない。急な石段の上に本堂と鐘楼があり、その先に建礼門院の供養塔、そのうしろに平安の滝が清洌な音を響かせて落ちている。庫裏、茶室、小さな池を眺められる拝観所、寺宝を収める収蔵庫があるが、いずれもささやかな佇まいだ。収蔵庫には一遍上人像をはじめ、歴代の遊行上人の木造が収めらており一見の価値があるが、やはりこの寺は建礼門院の面影が色濃い。栄枯盛衰のすべてを見尽くした女院の悲哀が、そこはかとなく漂っている。