弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一践祚一

明日、令和に改元される。新元号漢籍ではなく、万葉集を典拠としたのは個人的にはまことに好ましい。天皇陛下上皇陛下となられ、皇太子殿下が新天皇陛下となられる。上皇とは太上天皇の略称で、天皇の位を譲られると、先帝は上皇となられた。上皇の御座所は仙洞御所と呼ばれる。仙洞御所については前に書いた(2017/6/24)ので詳しくは省くが、仙洞とはすなわち仙人の住む洞穴のことで、統治者として君臨した者は、その地位を退いた後、仙人の如く隠棲するのが理想とされた中国の故事に因む。仙人に見立てられたのは、新帝の相談役として、時に智慧や経験を授ける事を求められたからであろうが、周知のとおり、昔の上皇たちは、隠然たる力を如何なく発揮され、譲位後は院政を敷かれた。寧ろ上皇となられると、玉体としての大きな枷が外れて、何事につけて自由に振る舞われた。上皇は出家なさると法皇と称され、日本仏教界においても一定の影響力を誇示された。白河院後白河院が、叡山や興福寺の山法師から、デモを起こされても、直接攻撃を受けなかったのも頷ける。後水尾天皇は、身体を悪くして灸を据えることを望まれたが、廷臣からは玉体を傷つけることは憚られるとして反対されたため、明正天皇に譲位され、治療を受けられた。と、これはあくまでも口実で、本当は朝廷の押し込めを図ろうとする徳川幕府に対する抵抗であったに違いない。

歴代の皇位継承のシーンで、もっとも苛烈を極めたのは大和朝廷南北朝時代であろう。南北朝については後に述べたいと思うので、まずは大和朝廷皇位継承をさらってみる。聖徳太子亡き後、推古天皇もほどなく崩御されたが、崩御直前まで皇嗣は定まっていなかった。廷臣は聖徳太子の子山背大兄王を推す派と、敏達天皇の子で押坂彦人大兄皇子の子田村皇子を推す派に分かれたが、山背大兄王は田村皇子より若年であったため、田村皇子を皇嗣に立てられた。この頃、崇仏派の蘇我氏の台頭が著しく、蘇我蝦夷が意見を取りまとめたが、山背大兄王の母は蘇我馬子の娘刀自古郎女で、山背大兄王蝦夷の従兄弟に当たり、反蘇我氏との対立を避けるため、蝦夷は敢えて田村皇子を推挙したとも云われる。蘇我蝦夷はその辺りの気遣いができる人物であったし、未だ聖徳太子の威光は強く、和は尊ばれていた。舒明天皇には中大兄皇子大海人皇子がいたが、未だ幼少のため、舒明崩御の後、皇位の空白を埋めるように皇后が践祚し、皇極女帝となる。上古より皇族間の極めて入り組んだ、いや入り乱れた近親相姦の影響で、皇位継承はますます複雑化してゆく。これを尻目に蘇我氏は増長し、邪魔になった斑鳩宮の山背大兄王を滅ぼすという暴挙に出た。蘇我蝦夷、入鹿親子の権勢は揺るぎないものとなりつつあった。いつしか蘇我氏皇位を狙っているとさえ噂され、事実当人たちも満更でなかったに違いない。そして皇極天皇四年(645)七月十日、飛鳥板蓋宮で乙巳の変が起きた。事変の首謀者は中大兄皇子中臣鎌足で、専横の蘇我氏排斥に成功し、同時に豪族の力を削ぎ、朝廷に権力が集中すべく大化改新が始まる。まさに目の前にてこの大事件を目撃した皇極女帝は失意され、自分の後を中大兄皇子にと考えたが、中大兄は辞退し、結局は異母弟の軽皇子へ譲位された。これが史上初の天皇譲位と云われる。こんな血腥い譲位であったため、軽皇子も始めは固辞されて、古人大兄皇子を推挙するが、古人大兄が蘇我氏の血を引くため、中大兄らに拒絶され、やむなく皇位を継承されて孝徳天皇となられた。こうなってくるとまるで押し付けられた感が強く、もはや天皇となること自体が迷惑な事で、誰しもが身の危険を避けた。武闘派の中大兄ですら固辞したのだから、孝徳天皇の心中は如何許りであったか察するに余りある。が、中大兄が固辞したのは、事変の熱りを冷ましたかったからに他ならず、実権は中大兄にあり、これを鎌足が補弼した。

孝徳天皇は飛鳥より人心を一新して難波宮に遷都されたが、折り合いのつかぬ状態となった中大兄は母たる先帝皇極や公卿百官を引き連れて、飛鳥へ戻ってしまい、一人残された孝徳天皇は恨みを飲んで病死された。ここでもワンクッション起きたかったのか、中大兄は母に再登板を乞い願い、先帝皇極は重祚して斉明天皇となられた。中大兄皇子は自らが天皇となるには、盤石の態勢を欲し、緩急織り交ぜた絶妙の政治センスで、したたかに根を張っていったのである。それには命が懸かっていたわけで、これまでの経緯をよく見ていたからだろう。斉明天皇時代に皇太子となり実権を握りながらも、母帝亡き後もすぐに皇位を継承せず、しばらくは皇太子のまま政務を摂った。正式ではないが実質的に摂政である。もう中大兄の前に政敵はいなかったが、大きな理由として白村江の戦いがあったからであろう。重祚された母を或いは神功皇后に重ねて、武運を肖ったのではなかろうか。しかし結局、白村江は敗戦となり、飛鳥から近江大津京に遷都してからようやく、中大兄皇子天智天皇として即位された。天智天皇の御代から文字通り大和朝廷が発足したと言えよう。大和朝廷はその過程から血腥く始まったが、歴代天皇で名実ともにはっきりとした専制君主となられた最初の天皇天智天皇であった。

今ではあまり聞かれなくなったが、新しい天皇皇位を継承することを践祚(せんそ)と云う。践祚とはすなわち即位でもあるが、古くから使われている言葉は践祚であって、正確には践祚が空白なく天皇の位を継承することで、即位はそれを内外に明らかにして、即位の大礼を執行うことによる意と私は解釈する。践祚の意味は、「宝祚を践む」ことで、宝祚とは皇位のことである。歴代天皇は、先帝が崩御されるか、譲位されると、直ちに践祚の式をあげた。践祚の式は即位礼や大嘗祭までの即位の礼の一環の儀式で、新天皇が最初に臨まれる儀式である。践祚の式では賢所の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀、剣璽渡御の儀践祚朝見の儀を行う。賢所は皇室の祖たる天照大御神を祀る神殿のことで、現在は皇居内の宮中三殿賢所皇霊殿、神殿)の中心に在る。まずは賢所皇位継承を奉告され、次いで皇祖を祀る皇霊殿と、八百万の神々を祀る神殿に奉告する。そして、剣璽渡御の儀により皇位の証たる三種の神器を継受され、践祚朝見の儀で、関白以下の公卿廷臣を召された。

神宮外苑聖徳記念絵画館は、明治天皇の御一代記を絵画にして展示している。ここに展示されている絵画は、日本人ならば誰しも一度は目にしたことがある有名な絵ばかりで、ことに大政奉還、王政復古、五箇条の御誓文西郷隆盛勝海舟江戸開城談判、廃藩置県岩倉使節団の欧米派遣、憲法発布式などはよく知られている。一枚一枚が縦およそ三メートル、横およそ二メートルもあり、明治天皇の前半生四十枚が日本画、後半生四十枚が西洋画の技法で描かれている。合計八十枚の巨大絵画は圧巻で、幕末明治に関心ある人は感激するであろう。これらの絵画の中に、「践祚」という絵があり、明治天皇践祚の式の様子が描かれている。十四歳で皇位を継承された明治天皇は、この時は未だ髪を角髪(みずら)に結い、紅顔の美少年として描かれているが、眼光は鋭く、時代を切り開く君主たるに相応しい凛々しきお姿である。私には践祚という言葉を聴くと、幼い頃から見てきたこの絵を思い出す。若き天皇の前には、侍従が恭しくかしずいている。御前には神器らしき漆箱のような物が置かれているが、剣璽渡御の儀もしくは践祚朝見の儀の様子で、朝見であればかしずいているのは、最後の関白二条斉敬であろうか。余談だが、神宮外苑は旧青山練兵場で、ここで明治天皇大喪の礼が挙行された。聖徳記念絵画館は葬場殿の跡に建っている。外観は花崗岩、内部は化石も見つかる大理石で造られた美しい建物は、外苑のシンボルであり、銀杏並木の先に浮かぶ姿は誰でも知っているだろうが、中に入ったことのある人は意外に少ない。私はここが好きで何度も訪れているが、中には明治天皇の愛馬金華山号の剥製もあり、在りし日の明治大帝と日本史上もっとも激動の時代であった幕末から明治という時をを大いに偲ぶことができる。

さて、昭和から平成にかけての践祚から三種の神器の継承、朝見の儀までを、当時中学一年であった私の見た記憶で、振り返ってみよう。昭和六十四年一月七日の明け方臨時ニュースが放送された。宮内庁の藤森長官が「天皇陛下には、本日午前六時三十三分、吹上御所において、崩御遊ばされました 謹んで哀悼の意を表します」と発表した。ニュースは同時に、「皇太子明仁親王殿下がただちに皇位を継承され、第百二十五代天皇に即位されました」と報じた。その後、竹下首相による内閣総理大臣謹話があって、小渕官房長官による新元号「平成」が発表された。午後からは宮殿松の間で、剣璽等承継の儀が執り行われた。これがかつての剣璽渡御の儀である。あの日、松の間で儀式に参列したのは男子皇族他、周りはすべて男性であった。当時、剣璽等承継の儀は男性しか立ち会いを許されていなかったが、此度は女性閣僚の参列もあると聴く。しかし此度も皇族は男子のみに限られるらしい。三種の神器とは八咫鏡草薙剣八尺瓊勾玉である。天照大御神から天孫瓊瓊杵命に授けられ、孫の神武天皇から代々へ承継されたとされる。八咫鏡は伊勢の内宮に奉安されており、形代と云う複製が宮中三殿賢所に奉安されている。あとの二種のうち草薙剣熱田神宮に奉安されその形代と、八尺瓊勾玉天皇陛下のお側近く御所の剣璽の間に奉安されている。また剣璽等承継の儀では、天皇の印たる御璽と国の印たる国璽も受け継がれる。御璽や国璽は、天皇が国事行為として行う法律や条約の公文書に署名される際や、勲記授与で押印される。天皇にはその存在の証として、代々三種の神器が伝承されてきた。また皇嗣には壺切御剣(ツボキリノミツルギ)と云う太刀が受け継がれている。平成元年一月九日には、即位後朝見の儀が宮殿松の間で行われた。皇族や三権の長が参列したが、これがかつての践祚朝見の儀にあたる。テレビ中継されて、今上陛下は日本国憲法を守り、我が国の国運の進展、世界平和、福祉の増進を希望され、象徴天皇としての務め果たす旨の意のお言葉を述べられた。明日、令和元年五月一日、松の間において、剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀が行われる。私は再びその時に遭遇するが、平成生まれの皆さん、古えより続くこれからの御即位の儀式をとくと御覧あれ。

先ほど、皇居では憲政史上初の退位礼正殿の儀が行われた。今上陛下の最後のお言葉を胸に刻む。本当に平成はあと数時間で終わるのだ。誠に感慨深い。この感覚は年の瀬の様でまったくそうではない。今を生きる二十一世紀の日本人が、初めて経験する気持ち。この言い様のない不可思議な気持ちを当世の人々と共有している。またこの気持ちは当世の人にしかわかるまい。昭和から平成は天皇崩御と云う暗いムードの中であって、粛々と淡々と経過したが、此度はまったく違う。何せ二百二年ぶりの譲位による践祚であり、世は平成が終わる寂しさと、令和が始まる奉祝の高揚感とが混在した、まさに独特の雰囲気である。昭和から平成を覚えていない人や、まったく知らない平成生まれの皆さんは如何に思っているのだろうか。私とて、これから上皇天皇を戴く時代が始まるかと思うと、様々な想いが胸中を去来し、年甲斐もなく興奮している。今夜は眠れそうもない。