弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一即位礼一

いよいよ来たる令和元年十月二十二日今上陛下の即位礼正殿の儀が行われ、十一月十四日から十五日には大嘗祭が行われる。しばし皇統史から離れて、今月と来月は即位礼と大嘗祭について少しばかり触れたい。

天皇の代があらたまると、御代の始めに「皇位に即く」に伴う種々の儀式が行われる。多くの儀式のうち、現在主だったものが、剣璽等承継の儀、即位後朝見の儀、即位礼正殿の儀、祝賀御列の儀、饗宴の儀、大嘗祭、そして伊勢神宮や歴代天皇陵への親謁の儀である。平成から令和へ代わってから、はじめの二つの儀式は今上陛下の即位後すぐに行われた。詳しくは前にも書いたので省くが、剣璽等承継の儀三種の神器と御璽国璽を継承し、即位後朝見の儀では新天皇として初めて国民に語りかけられた。そしてまもなく行われる即位礼正殿の儀が、即位の大礼の中心儀式で、諸外国の戴冠式即位式に当たる。天皇陛下剣璽を携えて、京都御所の紫宸殿より運ばれた「高御座(たかみくら)」に昇られ、皇后陛下も同じく「御帳台(みちょうだい)」に昇られる。高御座は天皇玉座であり、即位式のみに用いられる。現在の高御座は大正天皇の即位礼のために製作され、大正、昭和、平成の三代の天皇が昇られた。高御座は三層の黒漆継壇の上に、八角形の黒漆屋根を据え、天辺に大鳳凰、八角の角に小鳳凰、さらに鏡や螺鈿、金箔で細工がされている。美の極地とも云えるが、決して装飾過多でないところが、日本の天子の登壇する玉座に相応しい清楚さも湛えている。皇后さまの昇られる御帳台は紫宸殿では高御座の東に置かれており、形は高御座を同じだが、装飾を少し略し大きさも一回り小さい。平成の即位礼は京都御所ではなく、東京の皇居で行われることになり、過激派の攻撃に備えて、陸上自衛隊のヘリで空路を運ばれている。今回は陸路で運ばれて、すでに修復を終え、宮殿松の間で組み立てが始まっている。高御座に昇られた天皇陛下はお言葉を述べらて、新天皇として即位されたことを正式に内外に宣明される。参列者は皇族、三権の長、閣僚、宮内庁幹部、都道府県の代表、諸外国の元首や代表である。陛下よりお言葉を賜り、内閣総理大臣が寿詞を述べて、万歳を三唱する。即位礼正殿の儀は皇室の儀式典礼では最高の格式を有する。祝賀御列の儀は平成より始まり、皇居から赤坂御所までを両陛下はオープンカーでゆっくりとパレードされる。正殿の儀後に親しく国民の前にお出ましになり、祝福を受けられるのである。そのあと数日間、内外の賓客を招き饗宴が続く。大嘗祭は少し日を空けて行われる。令和も概ね平成を踏襲して行われるようだが、予算削減とか時代を考慮してとかで、若干簡素化される部分もあるらしい。これは少し残念なことで、こういう日本独自の伝統ある最高儀礼には、どんなに金を使ってもよいと私個人的には思っている。即位礼を盛大にやらずして、果たして日本の存在価値は保たれるのであろうか。

天皇天皇になるというよりも、天皇の位に即く、さらにくだけて言うと天皇の職を継ぐと言ったほうがよい。これは天孫降臨から初代神武天皇の即位までを正統化する意義もある。皇祖神天照大御神の神勅を携えた瓊瓊杵尊が、高天原から葦原の中つ国に降臨し瑞穂の国として統治することが眼目の一つである。さらには天孫の証であり、皇位を継承する者の証として三種の神器を賜うことで神聖なる権威を周知し主張した。天皇の祭祀では、何よりも五穀豊穣を祈願することを大切とした。ゆえに天皇の存在する根幹の意義である権威と祈りを、代替わりの度に大きく示して、演出する必要があった。神武天皇が橿原で即位されてから、古代の天皇は不明な部分が多いが、推古天皇あたりから天皇像の輪郭がはっきりとしてくる。そして持統天皇になって即位礼の最初の記録が正式に残されている。即位の礼大嘗祭については、その経緯を含めて様々な説がある。一説では大嘗祭を即位礼とする説もあるらしいが、少なくとも奈良時代以降は、皇位継承直後の一連の儀式を践祚の儀式、少し時をおいて、準備万端整ったところで即位礼と大嘗祭を執り行ってきた。ことに明治期に旧皇室典範が定まり、登極令が明治四十二年に制定されると明確なる規定ができた。登極令には践祚の儀即位の礼大嘗祭改元について定められている。特に大正、昭和の即位礼と大嘗祭を合わせて、大礼と云った。即位礼と大嘗祭を一続きに行い、大礼使と云う統括職が置かれた。一般には御大典と呼ばれる。

神武天皇は九州より破竹の勢いで東征してくるが、畿内に入って、熊野にて足止めされる。熊野近郊は、代々土着の神があって、熊野の神を崇拝する豪族たちは結束し、それは手強いものであった。先日私は熊野三山を巡拝したが、神仏混淆が色濃く残り、これまで訪ねたどんな場所よりも強烈なアニミズムを感じた。自然を畏怖し、崇敬する気持ちは、切り立つ山々、累々たる巨岩群、紺碧の空と海、そして那智の滝と深い森、そのすべてを神としたことからも察せられる。生と死や輪廻転生を熊野と云う場所が如実に示してくれている。神武東征以前からそれは大きな力であった。その力を神武天皇から始まる歴代天皇は利用した。逆に言えば、熊野を抑えなければ、統治はできなかったし、熊野もまた後の世を考えて、八咫烏を使いとして、神武軍を葦原の中つ国すなわち大和へと導くのである。以来、皇室と熊野は互いに持ちつ持たれつの関係でい続けた。

飛鳥時代に仏教が伝来し、何事も中国からの文化を尊び真似していた大和朝廷は、皇位継承の儀式も隋風、唐風の形式で行った。大仏開眼供養に見られるような華やかな雰囲気であったことが想像される。平城京大極殿玉座天皇は南面して、居並ぶ皇族、廷臣、神官、僧侶、文官武官を前に何事か述べられたのであろうか。しかし、この頃は皇位継承は命懸けであって、常に血腥い争いがあった時代。大極殿に座していても、決して心穏やかではなかったに違いない。

平安時代には即位礼は大儀、大嘗祭は大祀と呼ばれた。 日本の皇室の古式ゆかしい典礼儀礼は概ね平安時代に起因し育まれて、平安時代に完成したと言って良いだろう。それは唐風を脱却し、国風が萌芽して、育まれていった事と平行している。しかしながら即位礼だけは、何故かずっと唐風で行われ、何と孝明天皇まで代々踏襲されてきた。これは平安京へ遷都された桓武天皇の威光がまことに大いなるものであったことを示している。何処よりも先例を重んじた宮中においてはもっともなことで、即位礼と云う皇室最高の儀式を千年も紡いできたのである。

現代まで継承されている皇室の装束や、臣下の宮中での正装も、大方が平安時代に定まっている。日輪の光を表した天皇のみが着用する黄櫨染御袍や、女性皇族が身に纏う五衣、一般には十二単が代表的である。ちなみに皇太子のみが着用する黄丹袍は、さらに古く奈良時代には定まっていたとか。摂関全盛期になると、天皇は奉られてはいたが、皇位継承を実質的にも、経済的にも取り仕切ったのは藤原摂関家であった。ことに藤原道長と頼道親子が権勢を独占した時代は、即位礼は形ばかりのものであった。なんだか閉鎖的な密室で即位礼が行われたのではないかと想像するが、左にあらず。それこそ密室で行われていた政も儀式も、即位礼の日だけは、普段は雲の上、御簾の向こうの御所が庶民に公開され、ある程度自由に見物できたと云う。当日は相当に混雑し、儀式が中断しかけることもあったが、封建社会はただ民衆を押さえ込んでいただけとは限らないことがよくわかる一例である。ましてや天皇の即位礼のことであるから、驚嘆せざるを得ない。とはいえ道長や公卿らには、皇位継承が滞りなく行われたことを世に知らしめることさえ大々的にできればそれでよくて、即位礼や大嘗祭よりも践祚の儀式を重んじ、さらには誰が天皇となるのかがもっとも大事なことであった。    

平安末になると武家が台頭し、平清盛が実権を握ると、即位礼はさらに形式的になって、後に続く鎌倉幕府室町幕府江戸幕府も殆ど関心はなかった。七百年あまり続く武家政権の間、武家政権天皇に対する態度は変わることはなく、天皇は権威と崇拝のみの対象とされたのである。織田信長などは天皇を超越しようとしたし、秀吉は天皇家や公家に金品を献上しながら押さえつけ、家康は法によって束縛した。長い武家政権の時代、即位礼は行われてはいるが、簡素で慎ましい儀式であった。大嘗祭に至っては応仁の乱で荒廃しきった室町末期から戦国時代にかけては中断し、再興したのは江戸時代に入ってしばらくした貞享四年(1687)東山天皇によってで、御土御門天皇以来二百二十一年ぶりのことであった。

慶応三年(1867)一月九日、明治天皇践祚。即位礼は慶応四年(1867)八月二十七日、大嘗祭は十一月十七日に行われた。即位礼は京都御所で、大嘗祭は三年あまり後に東京の吹上御苑で行われた。即位礼と大嘗祭が別の場所で行われたのは、歴代天皇で唯一であろう。明治天皇が即位されたのは動乱の幕末、これほど日本が大きく変動した時代はなく、明治天皇も京都と東京を頻繁に往来されていて、致し方のないことであった。京都市民は大嘗祭が東京で行われることには危機感を抱き大反対したが、結局は時代の趨勢に逆らえなかった。しかし、この事に最も憂慮されたのが何おう明治天皇御自身で、即位礼と大嘗祭は京都で行うことが望ましいと云うお考えを示されている。これがきっかけとなり、明治二十二年(1889)二月十一日に大日本帝国憲法の発布とともに、旧皇室典範が制定され、その十一条に「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於て之ヲ行フ」と明記された。明治天皇記には、「大礼を重んじ祖宗の遺訓を奉じ、報本の意を明かにしたまふと共に、京都皇居保存の思召に出でたる」と書かれている。そして明治四十二年(1909)二月十一日には、皇室令第一号としして登極令が制定されて、即位礼と大嘗祭を続けて行うと定められた。続けて行えば京都へ二度も行幸せずにすむし、国民への負担も減り、費用も削減できるという理由であった。こうして明治天皇の御在位中に即位に関する制度は整えられていった。

大正天皇昭和天皇の大礼はこの明治の登極令を遵守して執り行われた。今回私もいろいろな資料を当たったが、大正、昭和の御大典は、実に大掛かりなもので、かつ絢爛たる皇室絵巻が展開されていることがよくわかった。おそらくこの二代の天皇の即位礼ほど、歴代天皇の誰よりも厳粛かつ大規模なものはなかったであろう。後にも先にも例のない一大スペクタクルなのである。ことに昭和天皇の大礼は写真や資料が豊富に残っており、その詳細がよくわかる。昭和の大礼は、大正天皇の諒闇(りょうあん/服喪のこと)が明けた昭和三年十一月に一連の儀式が盛大に挙行された。昭和天皇は宮城から東京駅まで馬車に乗られて、東京駅から御召列車で京都へ向われた。途中名古屋城離宮に御一泊し、京都駅から京都御所へと向われた昭和天皇は、近衛兵や陸軍兵に護衛されて、全長六百メートルもの大行列を組んで、それぞれの地を進まれた。この行列のことを鹵簿(ろぼ)云う。鹵簿とは儀仗警衛を備えた天皇皇后の行列のこと。鹵とは大楯のことで、天子の行幸の際、鹵で前進し、列の順序を帳簿に記したことから鹵簿と云われる。昭和天皇は鳳輦を戴いた特別御料儀装馬車侍従長とともに御乗車され、後に香淳皇后が専用の儀装馬車女官長とともに御乗車されて続かれた。鹵簿には伊藤博邦式部長官、一木喜徳郎宮内大臣賢所より移御された神鏡の形代を奉安した賢所御羽車、天皇旗、閑院宮同妃両殿下、秩父宮同妃両殿下、伏見宮同妃両殿下、牧野伸顕内大臣田中義一内閣総理大臣、 倉富勇三郎枢密院議長、近衛文麿大礼使長官らが供奉した。東京でも、名古屋でも、京都でも沿道には群衆が集まり、新天皇即位を寿いだ。鹵簿は東京と京都の往復や、伊勢神宮参拝でも仕立てられたのだが、その場所ごとに多くの馬と騎兵と馬車を用意したとことも凄いことである。いかに当時、即位の大礼が国家の一大事であったかが、その空前絶後の規模からして知れるのである。現上皇御夫妻の御成婚パレードや平成の即位パレード、今上両陛下の御成婚パレードもそれは盛況であったが、この昭和の大礼の時には及ばない。しかし付け加えるとすると、この大礼は天皇の権威を利用して、日露戦争以降の見当外れの富国強兵を突き進む日本が、国体の体裁を内外に誇示するパフォーマンスであったことも忘れてはなるまい。

京都御所に到着された昭和天皇の御心境やいかばかりであったであろう。数日してから、即位礼が挙行された。賢所大前の儀に始まり、中心となる即位礼紫宸殿の儀では、紫宸殿の高御座より昭和天皇勅語を述べられた。紫宸殿の前庭には色鮮やかな萬歳旗を筆頭に、日月旗や天皇を守護する幟旗が燦然と翻る中、太刀や弓楯を持った威儀物棒持者や、太鼓や鉦を奏する楽部が、左近桜と右近橘より両側に整然と居並ぶ。参列者は皇族、閣僚、陸海軍部首脳、大勲位以下の叙勲者、高位の華族、外国の代表や大使で、田中義一総理が寿詞を奏上し、紫宸殿と建礼門前に居並ぶ参列者全員で万歳三唱された。かくも盛大なる即位礼の四日後、京都御苑内に建立された大嘗宮で厳かに大嘗祭を執り行い、続いて大饗の儀、神宮への親謁と、四代前までの天皇陵へ参拝された。この形式は平成の即位礼でも、大嘗祭の期日以外はほぼ踏襲されていて、ことに晴れやかな即位礼正殿の儀の前庭の様子は、昭和天皇の時と同じであったと思う。その荘厳さと華やかさには、まだ中三の少年であった私を強く惹き付けた。

昭和六十四年一月七日。昭和が終わった日、私は中学一年の冬休みであった。あの日の記憶は鮮明に覚えている。何日も前から昭和天皇の御容態が逐一報道され、前夜にはいよいよご危篤である旨伝えられた。そして一月七日午前六時三十三分、昭和天皇崩御された。全メディアは一日中天皇崩御と新天皇践祚の報道ばかりで、皇室に関心を持ち始めていた私は、朝から晩までテレビの前から離れなかった。そして一ヶ月半後の平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬があった。冷たい雨の降りしきるモノクロ写真のような東京の街。弔砲が鳴り響き、「哀しみの極み」と云う葬送曲が吹奏される中、昭和天皇の葬列が皇居から葬場殿のある新宿御苑まで粛々と進む光景は、脳裏に焼き付いて離れない。

一方、平成二年十一月十二日、上皇陛下の即位の大礼は、晩秋の快晴の下で厳かに行われた。上皇さまは日本国憲法を遵守し、象徴天皇としての務めを果たすことを内外に宣明された。晴れやかな祝賀パレードや、連日に渡る饗宴が行われたが、両陛下の御成婚パレードを観たことがない私には、あれほど華やかな祝典を目の当たりにしたのは初めてのことで感動した。その世紀の大礼、令和の御大典がまもなく行われる。再びあの光景を拝見できることはまことに喜ばしい。今年最大最高の慶事を見逃してはならない。

「大礼は京都で」という意見は京都市民のみならず、未だに多くある。私も個人的にはやはり京都で行うべきであると思っている。即位礼は京都御所の紫宸殿で行い、大嘗祭京都御苑で行う。平成の時も意見は割れたらしいが、東京の方が警備もしやすく、外国の賓客を迎賓する施設もあるからとのことであった。しかし時代は流れて、京都にも迎賓館ができたし、警備のスキルも格段に向上した現在、これからの大礼は京都復古を真剣に検討してもよいのではないかと思う。祝賀御列の儀も京都から東京への岐路行えばよい。例えば、京都御所から堺町御門を出て烏丸通かさらに道幅の広い堀川通を京都駅までパレードし、そして東京へ戻られたら、東京駅から行幸通りを経て皇居外苑から内掘通りを周回しながら二重橋までをパレードすれば昭和天皇の御大典に勝るとも劣らぬ盛大さを期待できる。さらには、馬車でパレードすればなおさらよい。平成で馬車をとりやめたのもアスファルトは馬が足を滑らせる可能性があるからとも云われたが、これも現在の技術ではどうにかなるはずで、実際に駐日大使の信任状奉呈式は、東京駅から皇居まで各国大使を乗せた馬車が使われることが多いのである。「大礼は京都で」それは明治天皇の思し召しでもある。