弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 黒石寺

今夏、平泉を訪ねた折、以前から気になっていた古刹を訪れる機会を得た。奥州市水沢にある黒石寺である。仏国土平泉のあたりには名刹古刹が多いが、中でも群を抜いて古いのが黒石寺で、天平元年(729)行基による開山とか。中尊寺よりも三百年も昔で、みちのくで一番古い寺との説もある。これほど古い寺が、あまり出しゃばらずに、ひっそりと在ることに私は好感と興味があった。平泉から北上川を超えて、車で三十分ほどだ。この日も快晴である。北上川は青くきらきらと輝いて、稲田を潤しながら、大河らしく雄渾に流れてゆく。

黒石寺はひっそりと在ると書いたが、真冬に行われる蘇民祭のおかげで、近頃は有名になった。蘇民祭は東北地方に多いらしい。黒石寺の蘇民祭も千年続く伝統の裸祭りで、蘇民将来信仰に基づいている。主旨は厄災除去、五穀豊穣の祈願である。

北海より南方に旅をしていた武塔神が人間に化身し、貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)と裕福な巨丹(こたん)という二人の兄弟に一夜の宿を求めた。弟はこれを拒み、兄は快く旅人を泊めて貧しいながらもてなした。それから数年後、妻子を得た蘇民将来の所に再び武塔神が現れ、自分の正体がスサノオノミコトであることを明かすと、茅の茎で作った輪を身に付け「我は蘇民将来の子孫である」と唱えれば、子々孫々まで無病息災が約束されるであろうと告げた。この逸話を基に平安時代中期には蘇民祭の原形が出来上がったと云われる。京都の祇園祭で授けられる粽にもいくつかの山鉾町には蘇民将来の札が貼られているし、夏越の祓えの茅の輪くぐりでは、「蘇民将来子孫也」と真言する慣しである。武塔神の正体も地域により様々で、黒石寺においては薬師如来であったとされる。

蘇民祭旧正月七日から八日にかけて行われる。寒風吹き荒び、時に雪の舞い散る中、祭に参加する男衆は褌一丁で集まってくる。男衆は一週間前から肉魚や臭いの強い食べ物を避けて、精進潔斎する。午後十時、男衆は寺の前を流れる瑠璃壺川で身を清める。何せ極寒であるから、氷が張っていることもあり、まさに身を切る冷たさだが、男衆は水を頭からかぶって一心不乱に穢れを落とす。瑠璃壺とは薬師瑠璃光如来の薬壺のことだ。清めが済むと男たちは角灯を手に「ジャッソー、ジョイヤサー」と掛け声をあげながら、薬師堂と妙見堂を三度巡拝する。そういえばこの格好の銅像が寺の麓の参道入り口に建っていて、黒石寺への道しるべになっていた。十一時半頃から、護摩行が始まる。今度は火の粉を浴びて身を清め、山内節と云う民謡を皆で唄う。明けて午前二時、住職が蘇民袋を携えて薬師堂に入堂し、護摩を焚く。午前四時から数え年七歳の男児二人が麻衣を纏い、鬼面を逆さに背負って大人に背負われて入堂する。住職は外陣から曼荼羅米を撒き、鬼子は護摩台で燃え盛る松明の周りを三度巡る。ここからが祭のクライマックスで、蘇民袋争奪戦が始まる。蘇民袋には、蘇民将来の護符でヌルデの枝を五角形にした小間木が五升詰められていて、これを若者が奪い合う。小間木には、五角形の面に蘇民、将来、子孫、門戸、也と書かれていて、この小間木を持っていると厄災を免れると云われる。堂内は裸の男衆で溢れ、吐く息は湯気になって立ち昇り、蒸せ返るほどの熱気に包まれる。男たちは揉みくちゃになりがら、やがて堂外へなだれ出て、時にはあられも無い格好となって蘇民袋を奪い合う。最後に蘇民袋の首にいちばん近い部分を持っていた者が取主となり、取主の住まいの方角で、その年は東西どちらの土地が豊作となるかが決まる。この蘇民袋には麻で作られており、袋の綴じ口から太く長い紐が結われている。一説では阿弖流爲の首を模しているとも云われる。そう言われるとそう見えなくもない。彼らが必死で奪おうとしているのは、朝廷に連れ去られ、敢えなく処刑されたみちのくの英雄の首なのであり、その遺恨は千年以上代々伝播されて、この祭の荒々しさに表現されているのかもしれない。岩手では念仏が禁止された時代、隠し念仏と云うことが密かに行われた。蘇民祭も表向きは蘇民将来信仰を謳うが、真の目的は阿弖流爲の首を奪還して供養する慰霊祭であるのかもしれない。いまだ謎の多い祭である。この奇祭のため東京や遠くから参加しに来る人もいるとか。祭りの日は、普段の静けさからは想像もつかないほどの盛り上がりで、黒石寺最大の行事である。

行基が開基かどうか知らないが、黒石寺は初め東光山薬師寺と称していた。延暦年間の蝦夷征伐による兵火で伽藍は焼失。大同二年(807)に蝦夷討伐軍を率いた征夷大将軍坂上田村麻呂が飛騨より工匠を招いて再興し、さらに嘉承二年(849)、例によって慈覚大師円仁が中興したと云う。もとは修験の寺であり、胆沢城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺でもあった。往時、四十八もの堂宇を構えていたと云うが、それは些か誇張にしても、一帯には多くの寺跡があり、さすがにみちのく一の古寺らしい大伽藍があったことは確かであろう。田村麻呂の庇護はすなわち朝廷にも庇護されたわけで、寺は朝廷の支配の出先機関ともされた。おそらく黒石寺も一時はそうした役割を担わされていたのだろう。

坂上田村麻呂は豪胆かつ清廉潔白で、思いやりもあると云う武人の鏡で、多くの武勇伝が残っている。司馬遼太郎は、田村麻呂を日本史上最初の名将であると評している。蝦夷の族長阿弖流爲はわすが二千ほどの軍勢で、延べ十万もの朝廷軍と二十年以上も戦った。一向に蝦夷を討伐できない朝廷は、副将であった田村麻呂を将軍に据え期待した。田村麻呂は前線基地を多賀城から、さらに北上したこのあたりに移して、胆沢城と云う要塞を築いた。胆沢城は阿弖流爲らを追い込むに充分な機能を果たし、ついに通算三十八年にも及んだ蝦夷と大和の戦いを平定する。田村麻呂の名声が高まるのも当然であろう。田村麻呂は阿弖流爲とその軍師母礼を捕縛したが、丁重に護送して、桓武帝に助命嘆願を願い出た。それは公卿の猛反対を受けて、帝には聞き入れてはもらえなかったが、田村麻呂の人柄が偲ばれる。みちのくからの長い道中、田村麻呂は阿弖流爲や母礼と大いに語らい、蝦夷の想いや暮らしなど、実状を知ったに違いない。そして彼らを蝦夷と蔑称し、まるで野蛮なケダモノ扱いをして滅さんとする朝廷と、その軍を率いた自らを恥じた。蝦夷は彼の地で静かに暮らしたいだけなのであった。田村麻呂は阿弖流爲らを救えなかった自責の念と、蝦夷討伐で亡くなった多くの人々の冥福を祈り、各地に寺を建立した。激戦地となった胆沢から程近い黒石寺を再興したのも、阿弖流爲らを慰霊する決意であった。

慈覚大師は東北の名だたる寺の開山や中興に関わっており、半ば伝説的な部分も多いのだが、火のないところに煙は立たぬはずで、これだけ多くの足跡が残されているところをみれば、やはり何度もみちのくへやってきたのではないか。私はそう信じてみたい。そもそも円仁のふるさとは、坂東下野であるから、決して不思議なことではないのである。境内の右裏手に聳えるのが大師山で、円仁はこの山で坐禅をし修行したと伝わる。この大師山と山麓の境内は黒々とした蛇紋岩に覆われており、円仁は寺名を黒石寺と改めた。

今も黒石寺の周囲の景観は素晴らしい。大師山や妙見山に抱かれてしっとりと寺は鎮まっている。蝉時雨の空はどこまでも蒼く、木々も緑あざやか。伽藍は本堂、妙見堂、本尊の薬師如来を祀る収蔵庫、他に土塀が瀟酒な鐘楼と庫裏があるだけで、まことに慎ましい。面白いことに本堂の前にスマートな狛犬が鎮座して睥睨しているが、神仏混淆の名残であろう。案内を乞うと、昨年就任されたばかりの若き御住職が本堂と収蔵庫を案内してくださる。はじめに収蔵庫でご本尊にお参りさせていただく。桂の一木造りで、貞観四年(862)の墨書があるそうだ。奈良や京都の仏像に比べて、いかにもみちのくの作らしい雄々しさだが、そのお顔は怒りと哀しみの両方を湛えているように見える。この土地を強制支配した朝廷へ対しての蝦夷の怒りと哀しみを宿し、同時に争う人間すべてに対しての怒りと哀しみである。そんなことを思いながら私は流れる汗も拭わずに、一心に薬師如来と対座した。本堂内の多聞天は田村麻呂が崇拝した毘沙門天で、田村麻呂自身がその化身とも呼ばれた。この多聞天像には田村麻呂の魂が乗り移っているように感じた。薬師如来、日光月光菩薩十二神将、四天王、黒石寺の彫像はすべてが下半身はどっしりなのに、上半身は細身で、顔は現代人好みの小顔である。七頭身から九頭身はありそうだ。狛犬もそうだった。もしかすると蝦夷とはこうした体軀であったのか、だとすれば大和とはまったく別の民族であったのかも知れない。もしくはこうした体軀への憧れがあったのか。そういえば東北の仏像は概ね似た体軀をしているから、北の人々の信仰の対象の姿を今に示しているとも言えよう。それにしても立派な仏像群には感心したが、何よりもこの寺の放つ質朴で清純な色に惹かれてしまった。千数百年も歴史ある寺なのに、厳めしさなど微塵もない。みちのくの寺ならではの優しい仏縁が、黒石寺にはある。

まだ日は高いので、ついでにもう一寺伺うことにした。黒石寺からさらに先へ三キロほど奥へ分け入ると、亭々と聳える杉の大木の向こうに突然、巨大な茅葺の御堂が現れる。ここが奥の正法寺と通称される曹洞禅院である。正法寺南北朝時代の貞和四年(1348)に無底良韶禅師が開創した。これが東北地方初の曹洞宗寺院、正法寺の始まりである。無底禅師は、師である峨山韶碩禅師から、開祖道元禅師が中国から持ち帰ってきた袈裟を授けられた。俄山禅師には多くの弟子がいたが、これを授けるということは峨山門派を無底良韶が継承を意味した。正法寺は出羽奥州両国における曹洞禅の拠点として、永平寺總持寺に次ぐ第三の本寺として、住職は崇光天皇から紫衣の着用を許されている。正法寺が建つのはかつては黒石寺の奥之院があった場所とも云われ、古くから聖地であった所に無底禅師は禅の修行道場を建てたのである。

黒石寺の奥之院と呼ばれる場所らしく蛇紋岩の無骨な石段を攀じ登り、惣門を潜ると、真正面にかの大きな法堂。近くで見ればひとしおその大きさに驚嘆する。この法堂は仙台藩による造営で、江戸時代後期に再建された。入母屋造で、正面幅三十メートル、奥行き二十一メートル、高さ二十六メートルと日本一の茅葺屋根の御堂である。境内には熊野権現が勧請されており、此処にも神仏混淆が生き残っている。みちのくの曹洞宗本山として、往時は多くの末寺を擁した。現在も七十三の末寺があり、修行中の雲水が六人いるが、焼け落ちた仏殿は再建されず、昔の様に活気に満ちているわけではない。さらには数年前、先輩の雲水による後輩の雲水に対する暴力事件がニュースにもなったせいか、この日も訪れる人はまばらで閑散としていた。永平寺總持寺の活気には遠く及ばないが、私にはかえってこの静けさが、北の山奥にいることを実感し、曹洞禅の真髄に触れる思いがした。一番高い場所にある開山堂からは広い境内が一望できる。此処からの眺めは素晴らしい。曹洞禅院らしく質実剛健な堂宇は他も茅葺で、簡素な佇まいだが、昔話に出てくる日本の山寺に来た感じする。境内には深山の気が充満している。応対してくだされた雲水さんは、皆愛想がよく、とても優しかった。