弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一平安遷都一

平安時代は途方もなく長い。厳密にいえば、桓武帝が長岡京から平安京へと遷都したのが延暦十三年(794)のことで、平家が滅亡した元暦二年(1185)までの三百九十一年間が平安時代である。人類誕生から旧石器、新石器、縄文、弥生時代を除けば、神代から日本の有史以来もっとも長い時代である。或いは古墳時代飛鳥時代をひとつの時代とした場合に匹敵する。四百年も続いた平安時代は、雅であるが退屈であると云うイメージが強いせいか、歴史好きにも源氏物語の愛読者以外にはあまり人気がない。長過ぎるゆえに弛緩しているとか、戦国や幕末のように目紛しいドラマチックな展開がないと思われているようだが、全く違うと思う。確かに藤原道長が栄華を誇った頃は泰平であったが、それより他は平安初期も、中期も、末期も諸国で内乱が勃発しており実に激動である。そしてまた平安時代に今の世に連なる日本人が育まれて、気質、文化、言葉、文字が形成され、ほぼ完成したと言ってよいだろう。平安時代を雅で退屈な王朝国家の時代と考えるのは短略である。平安時代を多角的に見てこそ、日本と日本人が朧げに輪郭を現すのではないかと思う。

桓武帝は長岡京を捨て、平城京にも還都せずに、二つの大きな川に挟まれた、山城国葛野郡愛宕郡にまたがる広大なる盆地へ改めて遷都した。その準備は二年ほど前から始まり、延暦十二年(793)三月一日には桓武帝は新京の地へ巡幸されて、位置を定められた。そしてわずか一年の間に平安宮の中心部は完成したと云う。こうしたことはスピード感をもってせねば成せぬことであることを物語っている。もたもたしていたのでは首都移転などできないのは、現代をみれば明らかである。こういうところは専制君主たる桓武帝の面目躍如。天下泰平の礎石を置く者には、何よりも決断力と実行力とスピード感が不可欠なのは、歴史が示している。

この新しい都は平安京と呼称される。これまでの都は、主に地名から〇〇京とか〇〇宮と名付けられたが、平安京と名付けられたのは、唐の都長安にあやかったのは明らかで、唐かぶれした帝王らしい命名である。同時に平安京には永遠の平和を願う都であるという、桓武帝の切なる願いが込められていたとも云われる。桓武帝の成した二大事業は平安京への遷都と蝦夷討伐である。思えば桓武帝は専制君主でありながら、ブレーンにも恵まれていた。平安京造営には和気清麻呂が、蝦夷討伐には坂上田村麻呂がいた。この文武二大巨頭を巧みに使いこなしたのが桓武帝である。蝦夷討伐は、実は引き分けであったが、形ばかりは朝廷の面目と体裁を保つことに成功し、アテルイという蝦夷の族長の首をあげたことで、桓武帝の威信をとどろかすことができた。ひとえに田村麻呂の活躍に他ならず、勇猛かつ精錬な田村麻呂という人物があったからこそ、ひとまずこの時は戦後処理までうまく運んだのであった。

和気清麻呂宇佐八幡宮神託事件で歴史の表舞台に現れて、事件が原因で大隅国へ流されていたが、称徳女帝が崩御され、道鏡が失脚すると、都へと呼び戻された。豊前守に任ぜられ、その後、美作と故郷備前の国造に任命され、災害のたびに放置され続けた両国の疲弊を見て、ただちに治水事業を推進し、必要な土木工事や植林をてきぱきと行った。この功績が認めらて、桓武帝に招聘され、清麻呂は実務官僚としてのみならず、長岡京の造営の一翼を担っている。しかし前回書いたように長岡京に都としての不備が露呈しはじめると、清麻呂はすぐさま桓武帝に遷都を進言している。そして平安京造営が定まると、造営大夫に任ぜられ尽力した。和気清麻呂平安京造営の現場総監督となったのである。桓武帝と清麻呂は手を携えて夢の新京建設に邁進した。平安京の町割りがほぼ完成した延暦十五年(796)に従三位に叙せられ、ついには公卿に昇った。清麻呂延暦十八年(799)六十八歳で亡くなったが、藤原氏のように権力に執着したり、自らの栄華を誇ることも、他氏を排斥することもなかった。清廉潔白な政治家であり、それが称徳女帝や道鏡には疎まれ、新しい世を生みたい桓武帝には受け入れられたのである。皇統の断絶を救った清麻呂は各地に祀られている。京都御所の西にある護王神社和気清麻呂が祭神で、御所を西方からお護りしている。 元は清麻呂が開基の神護寺に祀られていたが、明治天皇の勅命により現在地へ遷宮された。 神託事件で称徳女帝の怒りをかった清麻呂が、南九州へ配流される際に、道鏡が放った刺客に襲われたが、突如三百頭の猪が現れて急場を救われたとの伝説から、狛犬の代わりに「狛猪」が置かれている。清麻呂は襲われた際に足を負傷したが、猪が去った後、足の傷も癒えたことと、猪突猛進に由来し、足腰に御利益があるとされ、境内は猪だらけである。 そういえば、東京の皇居平川門近くの御濠端にも和気清麻呂像が立っており、今でも皇居を守護している。

 平安京は当初、左京が洛陽城、右京が長安城と名付けられた。しかし右京の衰退と左京の発展に伴って洛陽が京都全体を指すようになる。内裏から南面して左、北面して右が今の京都の中心部である。時代がずっと降り、豊臣秀吉が当時の京都を取り囲む御土居を築いてからは、その内を「洛中」、外を「洛外」と呼ぶようになり、京へ入ることを上洛とか入洛と言うようになった。平安京の正面には羅城門が築かれ、王城の正門とされた。長安や洛陽の場合、城門から市街地をぐるりと囲む城壁が設けられたが、平安京にはそうした壁はなく、秀吉の御土居が唯一の壁であった。羅城門の周囲にわずかに壁はあったが、あくまで門を支える壁であったようだ。ゆえに羅城門は儀礼と装飾のための門であったといえよう。羅城門のその先は平安宮の大内裏まで一直線に幅八十四メートルもの朱雀大路が延びていた。平安京のメインストリートだ。平安京は坊条制で整備されて、碁盤の目のごとく整然たる街並が企画されたが、実は完璧な左右対称の碁盤の目はついに完成はしなかった。しかし、急ピッチの突貫工事で進めた割にはよくできた都であった。平安京は南北五二二四メートル、東西四四九四メートルの規模でスタートした。南都仏教との隔絶を旗印にした桓武帝は、平安京に既成仏教勢力の入京を禁じたが、仏教への帰依を完全に捨てたわけではなく、王城鎮護のためには大いに利用しようとした。唯一の寺院として羅城門の左右に東寺と西寺を建立したのはそのためである。その先には東市、西市が置かれ、少しずつ民も入京し、活気が出てきた。朱雀大路の北の突き当たりに朱雀門があり、手前に神の託宣を聞いたり、天気の卜占や雨乞いをおこなったとされる神泉苑が造営された。朱雀門より内が大内裏で、整然と天子のおわす場所は南面して平安京を支配した。大内裏は塀で囲われた平安宮で実に壮麗なものであった。朱雀門の先の応天門の内部が朝堂院で、ここが大内裏の中心であり、院内に巨大な大極殿が建てられた。内裏が炎上するたびに天皇の御所も点々としたが、平安王朝が始まってから、南北朝時代まに今の京都御所の位置に収るまでおよそ六百年間はこの場所が内裏であった。

 平安京は徐々に左京が繁栄してゆき、右京は衰退してゆく。すなわち洛陽城が栄え、長安城は滅びたのだ。理由は諸説あるが、近年の研究では、地勢的見地から右京衰退の真実がほぼ明らかになってきた。京都盆地は、北東から南西にゆるやかに傾斜している。高低差は五十メートル以上あり、一見すると平坦に見えるが、京都市内で自転車に乗ると北へ向かうとペダルが重く、南へ向くと軽くなる。平安京の南限である東寺の五重塔のてっぺんと金閣寺のあたりが同じ高さだと云う。もともと右京は紙屋川と桂川の氾濫原にあり、水はけの悪い湿地が多く、開拓が困難な地質であった。北西部の一部は宅地化されたが、左京に比べて住環境は極めて悪く、早くも平安後期には耕作地に変わっていった。今の洛中は完全に洛陽城内に収まっている。

現在も洛中の道路のほとんどは東西南北に直交しており、斜めに走る道は少ない。これは、平安京の都市区画が今もなお京都の街区画の基本を形成していることによる。 都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京と右京を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、隋や唐の洛陽城、長安城に倣うものである。また平安京の地の選定は、中国伝来の陰陽道を駆使して風水に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。これも諸説あるが、北の玄武が船岡山、東の青龍が鴨川、南の朱雀が巨椋池、西の白虎が山陰道という説がもっとも有名なパターン。このパターンが本当ならば、隋や唐や北京さえ凌ぐ鉄壁の四神相応の地であり、千年も続く都も神の見えざる手という人智を超越した力によって守護されていたと考えてしまうのも、私はそう見当外れとも思えないのである。

 平安初期の文化は、唐の影響を強く受けていた。桓武帝は中国皇帝に倣い、中国への志向が強く、当然と云えば当然である。桓武帝は廃嫡された弟の他戸親王に比べて母方の身分が低く、いつ潰されるか不安があった。そこで平城京からの離脱と、最新の文化と技術を唐からもたらすことによって、世を目眩し、それを実現供給できる者としての権威を高めることに腐心した。一方我々は平安時代というとすぐに国風文化を想像するが、これは平安中期の藤原時代になってから。そもそも文化の国風化は、奈良時代から垣間見えていたのだが、桓武帝の登場で国風化は薄らいで、後を継いだ平城天皇嵯峨天皇も父帝の意思を受け継ぎ唐文化に傾倒した。結果的に清和天皇の頃まで唐風文化が続いた。桓武朝では従来の日本に見られない中国仏教(天台密教真言密教)が伝教大師最澄弘法大師空海によってもたらされ、このあとの日本仏教の方向性を大きく規定づけることとなる。平安仏教の勃興である。桓武帝はことに最澄に帰依し、彼の拠点である比叡山平安京の鬼門封じとした。この頃空海は留学僧として唐にいたが、まもなく帰国し、桓武崩御後に、活躍するが、この先はまた次回に述べたい。いずれにしても最澄空海という双璧の巨人は我が国に仏教が伝来して以来始めて大胆に切り込んでゆくことになる。これ以降南都仏教は消滅こそしなかったが、少数派になった。今に続く日本仏教を鑑みると、平安仏教に始まるといえる。確かにこのあと鎌倉仏教が降って湧き出て迸るが、鎌倉仏教の祖師は皆比叡山で修学し、自己の仏道を求めて発心した。そして真言宗は今や多くの派があるが、すべては弘法大師を信仰し、真言密教の秘法によって鎮護国家と人々の救済を続けている。こうした仏教の影響を日本古来の信仰も受けて、本地垂迹という日本独自の宗教観があらわれて、神仏混淆が進み、陰陽道や加持祈祷が盛んになってゆくのも平安時代である。

私は度々、大和朝廷の時代は皇位継承は命懸けであったことを述べてきた。桓武帝が皇位についたのは、義母の皇后・井上内親王とその子の皇太子他戸親王を失脚させたゆえである。長岡京に遷ってからも、寵臣藤原種継が暗殺され、その罪を問われる形で実弟である皇太弟・早良親王は配流となるが、親王は無実を訴えながら食を断って絶命した。祟りを恐れた桓武帝は、早良親王崇道天皇追号して手厚く弔っている。奇しくも平安末に、日本一の祟り神と恐れられた崇徳院は、早良親王とよく似た境遇である。崇徳院の崇は崇道天皇からあやかって、鎮魂のためにとられたものではなかろうか。平安朝の始まりと終わりは皇統間の血腥い匂いが漂うが、やはり飛鳥や奈良朝からの命懸けの皇位継承は、形を変えながら、さらに暗く陰険なものとなって残っていた。武力で直接命を狙うではなく、権謀術数を張り巡らせ間接的に相手を追い込んで、排除するやり方である。天皇家皇位皇統争いのみならず、廟堂においても、藤原氏の他氏排斥など上下様々で見られる。それは香り高い、典雅な王朝国家の裏の顔ともいえ、日本人の特有の島国根性とか、村八分と云った閉鎖的で陰湿な性格は平安時代に培われたものだと私は思う。江戸時代の鎖国も、幕末の尊王攘夷の思想も始発点は平安時代であった。それを打ち破ろうとした平清盛織田信長の夢は道半ばで潰えている。この日本人の民族固有の思想と史観については、これからも折々に考察してまいりたい。

明治二年(1869)に明治天皇が東京へ行幸され、詔は下されずとも実質的には遷都に成ったことは、現代人の自然な考え方である。或いは都を新たに定めると意の奠都が正しいか。いずれにしても天皇の在す場所、すなわち其処が皇城の地であり、都なのである。平安京は千年の古都。産声をあげてから千七十五年もの間、日本の都であり続けた。