弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一摂関始動と寛平の治一

摂関の歴史は平安時代に始まり、明治維新まで続くが、平安時代は摂政と関白と云う、公家臣下の最高職を巡って数々の権謀術数が図られ、ついに権門と呼ばれて権力を独占し、日本史上もっとも華麗に活躍した時代である。同時に王朝文化を築いた立役者は、何よりもそのパトロンと成り得た藤原氏一門に他ならないのである。日本の歴史、文化を鑑みるにつき、これは極めて重要なことである。中国文化への憧れから自然と脱皮し、国風文化が花開いたのも平安時代。後ろ盾にはむろん藤原摂関家がいた。藤原氏は影に日向に、このあと千年も日本史の中枢にいることになる。

ともあれこうして藤原北家による為政者としての世襲体制が一応は完成した。藤原基経陽成天皇を後見し、実質的に自らが天下に号令する。あとは簡単であると思っていた。しかし陽成天皇は成長するにつれ粗暴になり、奇行も目立つようになる。ついに基経は摂政の辞表を出して出仕しなくなった。これに公卿ら も同調し、一年余りも朝廷は混迷し、政治的空白が生まれてしまった。その矢先陽成天皇が乳母子を手打ちにするという事件が起こる。ここで基経が動いた 。天皇の廃位を決断し公卿らを取りまとめ、表向きは病と称してついに陽成天皇は退位された。御年わずか十七歳である。この事は愚管抄にも書かれており、 信憑性は高い。この後、八十二歳の長寿を全うされるが、何とも長い長い余生である。常人であればおかしくなるところだが・・・。

 後を継がれた光孝天皇は、仁明天皇の第三皇子時康親王で、元慶八年(884)、御年五十五歳で即位された。これは平安王朝では最年長である。この年、仁和と改元された。光孝天皇はいかにもピンチヒッターとしてのご即位であった。当初はまさか御自身が皇位に就かれるとは夢にも思われておらず、固辞されたが、皇族と公卿全員が三種の神器を持参して強く即位を要請したため、ようやく了承された。光孝天皇はさすがに年を重ねて、これまで数限りない宮中の陰謀、謀略を眺めてこられたからか、良識ある穏やかな帝であった。 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ 百人一首にも挙げられているこの歌は、光孝天皇が詠まれた。光孝天皇は廟堂に再び戻った基経ともたいへん良好な関係で、天皇は基経を立てながら事実頼りとされた。この時基経は実質的な関白であり、関白の始まりとも云われる。しかし、この穏和な帝は仁和三年(887)即位よりわずか三年あまりで崩御される。

光孝天皇は、ピンチヒッターであることをよく自覚されておられたようだ。次の天皇陽成天皇の同母弟の貞保親王嫡流に皇統が戻ることを望まれて、皇太子を立てなかった。子女をことごとく臣籍降下させていることからも、いらぬ争い事は御免被りたかったに違いない。そこには筋道を違えずと云う御人柄も偲ばれる。が、世はそうキレイには運ばない。継がれたのは宇多天皇である。宇多天皇光孝天皇の第七皇子で、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘班子。定省王と称したが、例の臣籍降下により源氏姓を賜り源定省となった。陽成天皇に侍従として仕えたが、父帝の容態芳しからず折、藤原基経は、帝の内意は皇位を継ぐべきは源定省であるとして、ただち擁立に動き、瞬時に廟堂もこれを全面的に支持するべく取りまとめた。この裏では基経の妹で後宮を牛耳る尚待藤原淑子の働きもあったとされる。こうして基経に推挙された源定省は、仁和三年(887)八月二十五日に親王、翌二十六日に立太子、同日父帝崩御により践祚、十一月十七日に二十一歳で第五十九代天皇として即位された。同日に立太子践祚が行われるなど異例中の異例であり、そもそも臣籍降下した皇子が皇位を継承することも稀で、これが初めてのことであった。

宇多天皇は基経の功に報いるべく、「万機巨細皆基経に関白(あずかりもう)させる」旨の詔を発した。これは政のすべてはまず基経を通してから奏上するようにという意味である。天皇に代わって関白が政務を総覧する。先にのべたように、実際は陽成や光孝天皇の時代にすでに始まってはいたが、「関白」と云う言葉が使用されたのはこの時が始まりである。しかしここでひと悶着が起こる。当時、このような詔を受けた場合、謙譲の美徳を表すために、三度辞退を表明する慣わしがあった。極めて東アジアらしい、いや日本ならではの慣習である。基経も型どおりに上奏文を提出し、関白辞退を申し出たが、これに宇多天皇も型どおり、改めて就任を依頼した。その勅答の文章を起案したのが、文章博士橘広相と藤原広世で、その文章に含まれる「よろしく阿衡の任をもって卿の任となすべし」という文言が問題を引き起こした。「阿衡(あこう)」とは、中国の古典に由来する役職名で、殷の宰相の官名である。しかし、この阿衡には特に定まった職掌はなく、名誉職との意味合いも含まれていた。これを家司で文人として有力なブレーンである藤原佐世から聞いた基経は、名誉職では政治をみれないといって、引き篭もってしまい、朝廷に出仕しなくなった。これにより若い宇多天皇を奉戴する廟堂は政治が停滞、実に馬鹿馬鹿しいことだが、何とそんな状態が一年にも及んだ。これを「阿衡の紛議」と云う。が、実はこの引き篭もりこそが基経の策略の一端ともとれるのである。

焦燥の宇多天皇はあらゆる手立てを尽くして、基経が機嫌を直して出仕してくれるように努められたが、基経はいっこうに出てこない。ついには阿衡の文言を使用したことは本意ではなかったとされて勅答を撤回され、広相を解官した。だがこれは宇多天皇の御本意ではなく、日記には「朕ついに志を得ず、枉げて大臣の請に随う、濁世の事かくのごとし」、「朕、これを傷むこと、日に深し」と嘆息されている。本来宇多天皇は自らを皇位に就けてくれた基経に対して好意的であられたし、基経も天皇に対して敵視することはなかったはずが、なぜこうなったのか。それは阿衡の紛議に発展はしたが、実際は藤原北家の専横をよく思わない橘広相ら他勢力の謀を、未然に察知した基経の意趣返しであったと思われる。さらには関白と云う職がこれを契機に名誉職とならないよう、政治の実権を握る最高職であることを明確に世に示す狙いもあったであろう。関白の権威と権力を磐石にするために、基経はあえて一芝居打ったのである。事実、この紛議を口実に、勅答を草案した橘広相を追求し、影響力を弱めることに成功した。橘広相は当時学者官人として名を馳せており、娘の義子を宇多天皇の女御として入内させ、三人の皇子をもうけるなど、着々と廟堂での基盤を固めていた。これに最高権力者の基経が警戒しないわけがない。広相もまた、目の上のたんこぶである基経の追い落としを企図してもおかしくはない。しかし影響力を多少削いでも、いずれ三人の皇子の誰かが皇位を継承すれば、外戚となる広相は基経にとって大いなる脅威である。基経はこの段階ではまだ外戚ではなかった。基経はあくまでも橘広相流罪を求め、以前として職務復帰をしなかった。これに動いたのが 当時讃岐の国守であった菅原道真であった。

基経と親交のあった道真は、基経に手紙を送り基経の徳を称え、橘広相を弁護し、この紛議は藤原氏の将来に悲しむべきものと諌めている。ここでようやく基経は折れて、一年ぶりに朝廷に出仕、宇多天皇のもとに娘の温子を入内させて、天皇と和解した。これにより関白基経の権力が固まったのである。とはいえ、阿衡の紛議を機に、宇多天皇と基経のあいだには大きな溝ができたことは当然であろう。事実、天下の大政は天皇ではなく、藤原氏のものであると云う印象が強まり、廟堂は基経を中心に政が行われた。

寛平三年(891)正月、初代関白藤原基経死去。基経の後は嫡男時平が継いだが、いまだ若年にて、ここにようやく宇多天皇の親政が始まる。時平は若干二十一歳で参議になったばかり。一方、菅原道真に期待を寄せた宇多天皇は、基経亡き後、道真を讃岐国より呼び戻された。道真は四十七歳で蔵人頭に抜擢される。むろん藤原氏抑制のためである。ここから道真は飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進する。蔵人頭就任から二年後に参議となり、二年後に時平と並び従三位中納言となり、さらに二年後の寛平九年(897)に権大納言に昇進した。そしてさらに二年後の昌泰二年(899)、成長した藤原時平左大臣に就任し、宇多天皇と時平の仲立ちとなり、同時に政の後見をしながら、手広く実務を取り仕切っていた菅原道真が右大臣に昇進、廟堂の頂点に立ったのである。こうすることで宇多天皇はこの二人をうまく抑え込みながら親政をすすめようとされた。結果、このあと四十年間も摂関が置かれていないので、宇多天皇の目的はひとまず達成されたといえよう。権門藤原氏以外の人間、いわゆる寒門である道真が右大臣に就任するのは極めて異例であったが、この先の話しは次回記そう。

宇多天皇は意気盛んであられた。もともと英明であられたが、菅原道真藤原保則らすぐれた文人派官人を積極登用し、廟堂に新風を吹き込まれたのである。基経が敷こうとした摂関政治のレールはここでいったん途切れかけることになる。それほどに宇多天皇の活力と政治力は大きくなっていた。子女も多く設けられ、後に臣籍降下され源氏姓を賜り彼らは「宇多源氏」と称された。宇多天皇は在位中に綱紀粛正、民政に努められ、文運を興された。その治世は「寛平の治」と呼ばれる。

天皇は深く仏教に帰依されて、厚く真言密教を敬われていた。それは父帝光孝天皇の影響でもあった。「仁和の帝」と呼ばれた父帝は、仁和二年(886)に当時小松と呼ばれていた御室の地に伽藍建立の勅命を下された。が、翌年崩御されたため、宇多天皇がこの伽藍造営を見届けることになった。仁和四年(888)八月、落慶供養が行われ、仁和寺と称される。以来、仁和寺宇多天皇の後半生において、重要な場所となる。仁和寺とはまことに柔らかな響きであり、王朝の雅を感じさせる。京都には門跡寺院が多くあるが、仁和寺はその筆頭として高い寺格を誇ってきた。私も仁和寺が好きで、何度も訪ねている。広い境内はいつ行ってものびのびとした開放感に包まれるが、柔和な気品が随所に鏤められているのは、千年の昔から少し変わってはいないと思う。

ここで宇多天皇は「もう政治に口出ししない」と仰せになり、十三歳の東宮敦仁親王に譲位され出家、仁和寺に入られた。そして上皇ではなく法皇と敬称される。法皇となった天皇宇多天皇が初例である。この後実に三十五年、宇多法皇仁和寺に住されながら、煩わしい政務から逃れて、空海東密を究められ、真言密教の発展に尽くされた。そして和歌や文学に親しまれた。法皇の住された僧坊は「御室御所」と称される。三十一歳の宇多天皇がなぜ突然出家されたのかはいまいち明らかではないが、嵯峨天皇大覚寺に嵯峨御所を営まれた顰に倣い、表向きは隠居とみせながらも、あくまで政治も文化もその中心のサロンは御室に置き、権謀渦巻く廟堂の中枢を離れたほうが、何かとやりやすかったのではないかと思う。事実、政治に口を出さないと言われながらも、譲位された醍醐天皇を補佐し、知識人を御室御所に招いて議論したり、歌会を催された。この頃、御室仁和寺は政治、宗教、文化の中心であった。