弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 大山詣

今年は遠出を控えている。緊急事態宣言以降、宣言が解除されてからも私は都内から出てはいない。昨秋始めた西国巡礼はおろか、好きな寺社参詣にも行かず、茶会も軒並み中止となり、東京でじっとしている。もう少し落ち着いたらと自分にいい聞かせながら、悶々としつつも、まだしばらくは遠い旅には出ない気がする。しかし発見もまた多い。代わりに都内のホテルに泊まってゆっくりする。私にとって旅は日常からの逃避でもあるのだが、東京にいてもホテルに行くだけで大きな気分転換になる。何かひとつ出来なくなれば、また別の何かを見つけられる。人はそうしたものだが、中には見つけられず混迷する人、次に向かうことが諸々の事情で困難な人もいることだろう。でも、ほんの少しアンテナを高くしてみると良い。本当の未知は意外と近くにあるものだ。こういう時こそ、近場の行き忘れた場所、空白地帯を歩いてみる良い機会であると思う。

私はかねてより気になっていた大山とその周囲を歩いてみることにした。ここで云う大山とは神奈川県の伊勢原市にある標高1252メートルの山のことだ。丹沢山地の東端にあたる。円錐型の美しい山容は、いかにも神山の風格を備えており、古くから信仰の山であった。ほとんど独立峰ともいえる大山は、東名高速小田急線の車窓からもすぐそれとわかる。冬の晴れた日、東京からも国立や府中の多摩川縁に登れば、富士山と重なるようにして神々しい大山を拝むことができる。私はいつも遠目に眺めながら、いつか登らねばならぬと思いつつ、ようやく宿願果たした。

「大山」と呼ばれる山は方々にあるが、全国的には鳥取県の大山(だいせん)が著名である。神奈川の大山は山頂に大山祇神を祀ったためにそう呼ばれるが、大山祇神はかつては「石尊大権現」とも呼ばれていた。大山の山頂には巨大な磐座があって御神体とされる。此処に阿夫利神社の本社(上社)があり、中腹に阿夫利神社下社とさらに少し下に大山寺が建っている。大山は別名を「阿夫利(あふり)山」或いは「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社は雨乞いの神ともされ、農民の信仰を集めた。徳川時代になると殊に鳶や火消からも厚い崇敬を受けて、講が組まれて、大山詣は隆盛した。

新宿から小田急線で伊勢原駅まで行って、そこから山麓のケーブル駅まではバスが出ている。小田急ではケーブルまで乗れるフリーパスが販売されているため利用しやすい。バスを降りると石段に沿って土産物や食堂、今も営業する宿坊が立ち並んでいる。ここは通称「こま参道」と呼ばれ、なかなか良い風情。私も名物の豆腐田楽と山菜そばをいただいた。こま参道から脇道へちょっと入った左手に茶湯寺がある。茶の湯に関わりがあるのかと思ったが、左にあらず。寺の案内によれば、死者の霊を百一日の茶湯で供養するそうで、供養に行くと必ず死者に似た人に会えると云う。その思いを込めた石仏が多い。

登りはケーブルカーを利用した。二十五度の勾配を六分ほどかけて中腹の下社まで登る。途中、大山寺駅があるが、このあたりから遥か南東に相模湾が見えてくる。私は一気に下社まで登った。視界はさらに開け、此処では思わず誰もが歓声あげずにはいられないだろう。なるほど噂に違わぬすばらしい眺めだ。境内からは伊勢原、平塚、横浜、そして江ノ島が手に取るように見え、相模湾が驚くほど近く、遠く伊豆大島まで見はるかす。憂さも晴れる絶景である。大山は関八州の展望台とも称される。私もその眺めを堪能した。この日は風の強い日であったゆえに春霞は立たずに遠くまで見渡すこと叶った。

大山阿夫利神社の創建年は不明だが、古くから庶民に信仰された。徳川時代に大山講が盛んに組まれ、鳶職の人々が信仰したのも、木に対する信仰からに違いない。実際に大山詣の際には巨大な木太刀を担いで登り、奉納してきた。登山の前には必ず滝に打たれて精進潔斎をしたと云う。滝は現在も枯れずに、禊の大滝や良弁滝と呼ばれて登山口に幾筋も落ちている。大山詣は歌舞伎や浮世絵にも度々登場し、江戸の人口が百万を超えた頃には、年間二十万人も参詣した。江戸から手形不要で来れたため、大山詣をして、帰りに江ノ島や鎌倉に寄る小旅行が流行った。江戸から大山までは徒で、速い者でちょうど一日がかりの行程。夜明け前に出立すれば、日の暮れる前には大山に着いて数多ある宿坊に逗留できた。もっと速く到着する者もいただろうし、途中の宿場に寄りながら、ゆっくりと旅を満喫する者もいた。江戸も中期以降になると、手軽に行ける行楽地として人気を集め、鎌倉、江ノ島と大山を周遊する旅だけではなく、富士山、伊勢参り善光寺詣り、さらには西国巡礼や坂東三十三箇所巡りとセットで廻る者もあった。

さすがに関東では聞こえた神社らしく社殿も境内の佇まいも風格がある。参拝をすませ本殿の奥に湧く御神水をいただく。阿夫利神社には名水が湧いていることは知っていた。古の人々もいただいた大山阿夫利神社の御神水。此度の参拝はその御神水をいただいて、茶を点てようと思いたってのこと。龍口から落つる御神水は、蒼く冷たく澄んでいる。茶はふわっと点つ。いつも思うがなぜこうも自然の水はまろやかなのか。天然の濾過装置はとても人智には及ばない。

下社から山頂の上社までが本格的な登山道になる。むろん上社こそが阿夫利神社の本宮であるから、ぜひとも参拝したいのだが、登りは下社から一時間半はかかると聞いた。よく調べもせずにやって来た私が愚かであった。今回は装備もあまく、時間も足りず登頂は断念。山は容易に人を寄せ付けない。心がけから真摯に登山に向き合わねば、跳ね返される。上社へ登るのは断念したが、下社から少し降ったところにある大山寺に向かう。歩きでいったん下山したが、この道もなかなかの急峻さで、大岩がゴロゴロと転がる中を脚を踏み外さぬよう慎重に下る。登りはかなりキツそうである。

大山の山中山麓には寺社が多い。いずれも大山を神山として、まるで聖地を取り巻くように点在する。山中に蹲る大山寺は、東大寺や近江の寺々と関わり深い良弁が開基とされる古刹で、修験者や大山講にも信仰を集める。いかにも坂東らしい武骨な本堂には、古い不動明王が奉安されており、阿夫利神社下社の明るく賑やかなイメージとは対照的に、大山寺は静謐に大山信仰が守られているといった感じがする。言わばこの山中においても陰と陽が区別されているのだ。大山には至るところ滝行や水垢離をした滝があると書いたが、愛宕滝や良弁滝はもともとは修験者の行場であった。

日が西へ傾く頃、大山寺から再び中腹の下社までケーブルカーで登って、今度は下社の表参道とは反対側へ山を降りる。この辺りは有名なハイキングコースで、途中の見晴台と云う絶景を堪能できる場所までは、ひっきりなしにハイカーとすれ違う。見晴台までは登りはあるが、緩やかなコースであるためさほどキツくはない。私は見晴台からさらに降って、日向薬師を目指した。明るかった道が次第に木々に覆われてきて、ひとり歩きが心細くなってきた。ちょうど峠のあたりに勝五郎地蔵と呼ばれる大きな地蔵さまが建っていて、その先から九十九曲と云う文字通り九十九折の急峻な山道がある。このあたりからまったく山らしくなって、木々はますます生茂り、昼間でも少々薄気味悪い。勝五郎地蔵は嘉永六年(1853)に地元の石工天野勝五郎が彫像したものとかで、人の大きさほどもあるため、少しびっくりするが、この先の九十九曲を注意せよとでも仰せのようであった。

下社や大山寺でちょっとゆっくりし過ぎたようで、日向薬師の閉門時間(17時)が迫っていた。私は一気に九十九曲を降りる。むろん脚元は慎重に。が、やはり九十九曲と呼ばれるだけあって、行けども行けども麓に辿りつかない。ふと、遥か上から女性のハイカーが一人降りてくる。早い。私はちょっと怖くなって、スピードをあげる。転んだら仕方ない。あとから来る女性は、どんどん迫ってきてるようだ。こんなところで追いつかれたくないし、こちらは男一人、万一何かあって、あらぬ疑念が生じられても実に困る。そんな思いもよぎって私は急いだ。ようやく舗装された道が見えてきて、他の三人組のハイカーが前方に見えてきた。私はちょっとほっとして、後ろを振り返ると、なんとあとから来た女性は私のすぐ後ろにいるではないか。私はギョッとして立ち止まり、先を譲った。女性はマスクにサングラスまでしていたが、見るところ年配のようだ。とてつもなく俊足のおばさんである。おばさんは私と前を行く三人を追い越すと、風のようにさらに降っていって、あっという間に見えなくなった。あれはなんだったのだろうか。天狗の様なおばさんであった。はたまた役行者の化身であったか。山では不思議な事があると云う。

日向薬師へ 舗装された道も長かった。ひたすら下りなので脚は前に出るが、脚裏は痛い。やがて平坦になってくると、石雲寺、浄発願寺と立派な寺が現れる。美々しい境内はちょうど花が見頃であった。殊に渋田川沿いの枝垂れ桜が浄発願寺の三重塔と重なる風景は美しく、しばらく眺めていたかったが、私は日向薬師へ急いだ。平坦になった道に安堵していたが、甘かった。最後の最後に急な登りが待っていたのである。もはや間に合わないかとヤキモキしながら、懸命に登ることおよそ十分。なんとか閉門間際の日向薬師に滑り込むことができた。こうした山寺へは生半可な気持ちでは参詣できない。毎度の戒めである。せめてこのくらいの戒めは、私のような者でも課せられねばならない。

日向薬師はこのあたりではもっとも古く、もっとも有名な寺である。迫力ある大きな茅葺の本堂と、美しい薬師仏を一度拝んでみたかった。時間がなくて宝物館の仏像群は拝観叶わなかったが、ここまで来れたことが嬉しく、御仏の導きに感謝した。本堂前の広い庭の池からは冬眠から目覚めたばかりの蛙が、大山に春を告げるようにしきりに鳴いている。日向薬師霊亀二年(716)、行基が開創したと寺伝にある。日向山霊山寺と呼ばれ、往時は山内に十二坊を持つ大寺であった。霊山寺はのちに廃仏毀釈で廃れてしまい、唯一残った宝城坊が、霊山寺を引き継いだ。これが今の寺で、広く日向薬師として知られるようになった。いずれ古い寺に相違ないが、大山信仰とも深く結びついており、それはすなわち修験道と関わりある神仏混淆と、アニミズムを具現化したような寺であったことは、宝城坊と呼ばれることが物語っている。 たった一日で、大山のすべてを知ることはできなかったが、おいしい空気と清らかな水で、私は春の一日を充分に満喫した。