弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一王朝国家一

醍醐天皇の治世は三十四年続いた。これは平安時代でもっとも長い。父の宇多天皇と、醍醐天皇から一代おいて村上天皇と続くこの間は、摂関を置かずに天皇親政が行われた時代である。宇多天皇の治世を寛平の治、醍醐天皇の治世を延喜の治、村上天皇の治世を天暦の治と称し、後世で理想的な時代とされ聖代視された。逆に言えば藤原北家にとっては不遇の時代で、通算でおよそ六十年も摂関不在の時期があった。しかし現実は天皇親政が完全に機能したとは言い難く、中央集権には程遠い。理由としては地方政治の弛緩、治安の乱れにより律令制が破綻しかけており、天皇親政とは幻想であり、現実的な政治はできなかったと言って過言でないだろう。

延長八年(930)、醍醐天皇は四十六歳で崩御。その一週間前に東宮寛明親王が八歳で即位され朱雀天皇となられた。また稚い幼帝の誕生である。これを見届けるようにして、翌年、宇多法皇も六十五歳で崩御された。朱雀天皇を後見したのが摂政藤原忠平である。忠平は時平の弟で、兄の死後、表舞台に躍り出た。朱雀天皇の母穏子は忠平の妹で、時平や忠平が廟堂で活躍できたのは、この穏子の助力によるもの大であった。果たして国母となった穏子と摂政となった忠平は一致協力して政を主導してゆく。

ここで改めて和田秀松氏著『官職要解』より、摂政と関白について確認してみよう。

摂政とは「天下の政を摂行する」者の意である。単に「政を摂る」とも。~天子に代わって、万機の政をすべ掌る職である。摂は、摂行の意で、字書に、「総なり、兼なり、代なり」とかいてある。この職は、応神天皇がまだ幼年でいらせられたから、御母神功皇后が摂政なされたのが始めである。また、推古天皇の御代に、聖徳太子が摂政なされ、斉明天皇の御代に、中大兄皇子天智天皇)が摂政なされた類で、昔は、皇后、皇太子のほかはその例がなかった。ところが、清和天皇の御代に至って、天皇が御幼少でいらせられたから、外祖父藤原良房が摂政した。これが臣下で摂政した始めである。これからのちは、おのずから職名となって、藤原氏一門の職となったのである~

関白とは政を「関かり(あずかり)白す(もうす)、或いは関わり、白す」の意。

~天子を補佐し、百官を総べて、万機の政を行う職である~

この関白に最初に就任したのが、忠平の父藤原基経である。 忠平は基経の四男であったが、長兄時平亡き後、次男、三男を差し置いて藤原北家を継いだ。小一条太政大臣と呼ばれ、位人臣を極めたが、幼い頃から聡明で、兄よりも寛大な心の持ち主であり、ゆえに人臣掌握にも長けていた。とこれは藤原摂関家、殊に忠平流の正統史といえる『大鏡』にあることで、いささか脚色はあるだろうが、忠平は有職故実にも深く通じており、いずれにしろ野心的政治家の時平に比べたら、文人肌の温厚な人物であったことは事実であろう。さらに『大鏡』は、菅原道真の左遷は時平の讒言でされたことであり、その罪はすべて時平に向けられている。これにより時平流を封じ込めて、忠平流が廟堂をクリーンにしたかのように正当化した。『大鏡』も『栄花物語』もとにかく忠平を絶賛する。忠平は廟堂のトップに昇ってはゆくのだが、宇多法皇とも良好な関係を築き、他の公卿を気遣うことを忘れなかった。他氏排斥もせずに、敵を作らない和の政治を心がけた。よって忠平は時平に比べて、政治家としては無能であったとみる向きもある。国政改革に自ら乗り出すこともなく、このあと起こる大乱を主導的に鎮圧しようとはせず、難局に立ち向かう姿勢はあまりみえない。むしろ政治は部下の三善清行らに任せて、本人は宇多法皇とともに雅な平安王朝の貴族文化を創出することに腐心した感がある。忠平には歌の才があった。『百人一首』にも選ばれている。貞信公とあるのがそれで、貞信公は忠平の諡名である。同じ歌が『拾遺集』にもあってその詞書にはこう書かれている。

亭子院の大井川に御幸ありて、行幸もありぬべきところがなりと仰せ給ふに、このよし奏せむと申して

小倉山峯のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ

亭子院とは宇多法皇のことで、御幸(ごこう/みゆき)とは上皇法皇女院の外出のこと。天皇の外出は行幸と云う。宇多法皇が嵯峨の大堰川のあたりに紅葉狩りに御幸されたのは延喜七年九月十日のことで、これに供奉した忠平はこの時二十代後半。法皇はあまりにも美しい小倉山の紅葉を、醍醐天皇にもお見せしたいと仰せになった。忠平は法皇のお気持ちを天皇にお伝えしようと、此の歌を奉った。全山燃えるような紅葉に覆われた錦秋の嵯峨野と、それを息を呑んで見つめる王朝人の情景が、かほど実感として迫ってくる歌はない。忠平の歌には彼の生き様が凝縮されているように思う。

穏子を醍醐天皇中宮としたのは兄時平であった。時平には天皇家との外戚関係はなく摂関に就くことなく死んだ。が、妹の穏子を醍醐天皇中宮として入内せしめ、しっかりと布石を打っていた。これを忠平は利用したのである。醍醐天皇には多くの皇子がいたが、東宮立てられたのは穏子の生んだ皇子のみであり、摂関政治の礎はこの時に形を見せ始めた。

宇多法皇の寛平の治は、権門を抑制し、小農民を保護するという律令制への回帰を強く志向していたが、基本的には時平もこの方針を受け継ぎ、班田を励行する法令が発布されている。また延喜格式の編纂も律令制回帰を目的としたものであった。ただ、現実には百姓層の階層分化が著しく進んでおり、各地では有力な豪族がその土地と人を支配するようになっていた。律令制的な人別支配はもはや不可能な段階に至っていたのである。結果的に醍醐天皇の延喜の治は律令制復活とはならなかった。忠平の時代には律令制支配は完全に放棄されることとなり、新たな支配体制=王朝国家体制の構築が進展していった。具体的には個別人身支配を基とする体制から、土地課税を基とする体制へと政策転換したのである。このことは朱雀天皇の治世以降に班田収授が実施されていないことが示している。個人を課税対象として把握する個別人身支配において、偽籍や逃亡が頻発すると課税対象である個人を把握することはできなくなるが、土地課税原則のもとでは、土地の存在さえ把握していればそこを実質的に経営している富豪層から収取すべき租税を集めることができる。こうした考えが背景にあった。実際に租税収取を担当する地方の現場では、戸籍や計帳を基盤に置いた課税方式が後退し、土地に対する課税が積極的に行われ始めていた。それを国家体制においても採用したのである。ここに律令国家体制が終わり、土地課税を基本原則とする新たな支配体制、すなわち王朝国家体制が出現することとなった。土地課税を基本とする考えは平安時代初期からあったようで、藤原冬嗣以来の為政者は税収をもれなく期待できる土地課税体制への移行を常に目論んでいたふしがある。実現には百年近くかかったが。王朝国家体制は、大和王権の確立した律令制国家から鎌倉時代となる中世国家までの間、すなわち平安中期から末期までを云う。実はこれは政治によって主導的に移行したわけではないことは歴史が語っている。土地への課税が租税収取の基本とされるに当たり、租税体系の基礎とされたのが公田である。律令制における租税いわゆる租庸調は、個人に対して課せられていたが、新たな租税制度のもとでは公田に対して課税がなされた。公田は名田と呼ばれる租税収取の基礎単位へ編成され、現地の豪族が名田経営と租税納入を請け負うという体制が形成されていった。この体制こそが王朝国家の基盤を成す。これにより律令制の班田図は不要となり、新たに公田台帳となる基準国図が作成されるとともに、国司に検田権が付与されるようになった。これらは王朝国家体制の成立を示す指標と考えられている。 体制を確立するため、現地支配に当たる国司の権限は大幅に強化された。租税収取、軍事警察などの分野で中央政府から現地赴任筆頭国司への大幅な権限委譲が行われ、国内支配に大きな権限を有する国司、すなわち受領が出現することとなった。軍事力を有した受領は発言力も大きくなる。彼らは特に都から遠い東国を中心として、勢力を広げてゆく。桓武平氏清和源氏奥州藤原氏など、彼らの子孫が平安末から活躍する武士へと成長するのだ。 忠平政権はこの時代の社会的背景に適合した王朝国家体制を積極的に構築していった。この時期に後の中世社会の基礎となる要素が多数生まれている。まさに古代から中世への過渡期に当たるといえる。 

忠平時代を支えた三善清行も文章生から立身出世した人物で、父は淡路守三善氏吉である。根っからの文官で優秀な官僚であった。文章博士、大学頭、式部大輔となるが、道真の菅家閥と一線を画す、参議巨勢文雄に学び、道真台頭後は悉く道真閥と対立し、道真糾弾の急先鋒の一人となった人物である。時平の政治を補佐し、時平没後は忠平にも頼りとされ、ついには公卿となる。延喜十四年(914)絶頂の清行は、儒教的な徳治主義に基づく歴史観を背景とした「意見封事十二ヶ条」記し、廟堂の求めに応じる形で奏上した。崩壊しつつある律令制の実態を曝し、地方政治の改善を事細かく述べている。これは律令制国家継続のため国政を正すことを試みた最後の機会であった。むろんこれは忠平がバックにいたからできたことである。「意見封事十二ヶ条」はまことに画期的なものであったが、政治を総理する要の忠平にやる気が欠乏していたことが、朱雀天皇と清行の不運であった。法令はすばらしくともあまり良い方向には向わなかったのである。

朱雀天皇は延長元年(923)醍醐天皇の第十一皇子としてお生まれになった。三歳で立太子され、先に述べたとおり八歳で皇位を継承されたが、元来病弱であられた。女御煕子との間に昌子内親王をもうけられたが、皇子には恵まれず、同母弟の成明親王を皇太弟に立てられた。在位中は天災がしばしば起こり、厄病の流行もあって、律令制の崩壊により治世は乱れていた。頼みとするは摂政から関白となった叔父の忠平であったが、芳しい結果を見れないまま、朱雀天皇御自身も政治には関心が向われなくなっていったと思われる。そして朱雀天皇の御代に、朝廷を震撼させる事変が勃発する。王朝国家体制と朝廷の転覆を目論むその狼煙は、都を挟み東と西で同時多発的にあがった。承平・天慶の乱である。