弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一骨肉相食む摂関家一

安和の変の五ヶ月後、冷泉天皇東宮守平親王に譲位された。冷泉天皇はこのあと四十年もの余生を過ごされ、病弱で狂気であったことが嘘のように長生きをされた。一条天皇の御代、藤原道長の全盛期まで生き抜かれ、寛弘八年(1011)六十二歳で崩御された。守平親王践祚され、円融天皇として即位されたが、十一歳と年少であられたため、引き続いて藤原実頼が摂政となって後見した。が、実質は廟堂では藤原師輔の子、藤原伊尹の時代が始まって、それに続いて師輔の子の兄弟間の権力闘争にも突入していた。平安時代を通しても、かつてこれほど陰湿かつ権謀術数が乱舞した時代はあるまい。この時をもって、平安時代末まで続いてゆく藤原摂関家支配のための同族間による権力闘争のきっかけになる時であった。

円融天皇は天徳三年(959)に御誕生。村上天皇の第五皇子で、母君は中宮安子。安子は師輔の娘である。前述のとおり、藤原摂関家の他氏排斥による謀略で、本来ならば兄宮の為平親王冷泉天皇の皇太弟になるはずが、源高明の娘を妻とされたことで皇位継承レースから外されたのである。藤原摂関家としては、紅顔可憐の守平親王ならば御し易く、摂政として権勢を奮えるのだから当然であろう。高齢の実頼が死去すると、伊尹が摂政に就任した。円融天皇は外伯父の伊尹の言われるままに振る舞われた。そして伊尹の推挙によって、早くも冷泉天皇の第一皇子の師貞親王がわずか二歳で皇太子に立てられた。師貞親王は次の花山天皇である。前述したとおり実頼には実権はなく、形ばかりの摂政であったが、伊尹は外戚として力を発揮しようとした。藤原伊尹は右大臣藤原師輔の嫡男に生まれ、妹安子が村上天皇中宮になったことで、その皇子二代の後見となり得た。しかし、父が死去した時はまだ蔵人頭で、二人の弟兼通、兼家も未だ少納言にとどまっていた。村上天皇の強い意向で伊尹は参議となり、弟たちを相次いで蔵人頭に推挙し、師輔の死で一時衰退しかけた九条流(師輔の血流をこう呼んだ)の地盤を固めることに成功した。そしてついに摂政となるのだが、その矢先、天禄三年(972)に伊尹は四十九歳であっけなく他界した。このあと藤原北家は熾烈な同族間での権力闘争を繰り広げることになる。

伊尹の二人の弟の兼通と兼家の二人は四歳違い。成年に達する頃より不仲となり、長兄伊尹が存命中は、伊尹の仲裁で渋々従うこともあったが、自らが家族を設けるとその関係は修復不能になった。伊尹が亡くなった時、兼通は権中納言なのに対し、弟の兼家は大納言になっていた。同母兄弟間での官位の逆転は異例であると云う。この逆転の官位が二人にとって大きなしこりであり、不仲の決定打となったことは間違いない。兼通の出世が滞った原因は諸説あるが、六男正光が排斥した源高明の娘を妻としていたことが、藤原北家全体から敬遠されたゆえもあると云う。事実、当時、兼通は高明擁護派と目されており、世間体を気にしてか出仕しなくなった。そのため廟堂内でも孤立してゆき、冷泉天皇円融天皇とも疎遠になっていった。こうしたことから当然伊尹の後継は、官位も上位の兼家が有力であると当時も今の我々も思うし、事実その可能性が高かった。しかし実際に関白に就いたのは兼通であった。『大鏡』によれば、兼通は弟に追い抜かれることを見越して、円融天皇の母君で妹の安子皇后から生前に、「関白をば、次第のままにせさせ給へ、ゆめゆめたがへさせ給ふな(関白職は兄弟の順に任じ、決して違えてはなりませぬ)」と書き付けてもらい、これを首にかけて持ち歩いていたと云う。そして伊尹の死に際して、円融天皇にこの書き付けを提示した結果、兼通の内覧および関白就任が実現したのだと云う。母への孝養心と思慕を抱いて、円融天皇は御遺言に従われたのである。

関白に就任した兼通は補佐役として藤原頼忠を抜擢した。頼忠は実頼の次男で、母は時平の娘である。兼通、兼家にはいとこにあたる。小野宮流(実頼の血流)は兄の敦敏が継ぎ、頼忠は藤原保忠へ養子に入っていたが、兄が早世したため実家へ戻り後を継いだ。この頃は藤氏長者になっていた。温厚な人物だったそうだが、右大臣として廟堂をとりまとめて兼通を支えた。兼通が頼忠を重用し、何かにつけて頼忠に相談し、政のあらゆることを二人決めて行っている。天禄四年(973)、兼通は、長女の媓子を円融天皇に入内せしめ中宮に冊立された。ここで兼通は頂点を迎えたのである。兼家も負けじと次女の詮子を入内せしめようとしたが、嫌悪した兼通が円融天皇に讒言したため、詮子の入内はなくなった。廟堂も兼通に追従させた結果、兼家は失脚し、兼通政権の五年間不遇を囲っている。これだけの骨肉の争いを演じた兄弟は平安朝でも藤原摂関家でも空前絶後であった。

兼通には兼家の他にもう一人、目の上のたんこぶがいた。源兼明である。兼明は醍醐天皇の第十一皇子で臣籍降下していた。源高明の弟でもあるが、安和の変で兄が排斥された時に連座を免れたのは、母が藤原氏の出身(藤原菅根の娘)であったことが大きいだろう。安和の変までに兼明は従二位大納言に出世し、円融天皇の御代となって、右大臣を経ずに左大臣に昇進していた。兄ほど警戒はされていなかったが、兼通だけは次第に兼明が疎ましくなっていた。関白として朝廷のすべての実権を握ると、腹心の頼忠を左大臣にするため、兼明を円融天皇の勅令によって皇籍に入って親王に復させるという、ウルトラCをやってのけた。貞元二年(977)のことである。これにより兼明親王中務卿と云う名誉職に転じ、廟堂での発言力は削がれてしまう。そして頼忠が左大臣に昇進したのである。安和の変で終わったと思っていた藤原氏による他氏排斥であるが、こうしてまた行われたのである。平安時代、藤原摂関家はいつでもこうした陰謀を企てて、実行に移す能力に極めて長けていたのである。ゆえにお家芸とも云われるのだ。臣籍降下されて五十七年、兼明親王は余生を静かに過ごされ、十年後の延元元年(987)、当時としては長命の七十四歳で薨去された。御拾遺和歌集にある一首はまさに藤原氏に翻弄させられ続けた親王のお気持ちがよく顕れている。

七重八重花は咲けども山吹の 実のひとつだに無きぞかなしき

源兼明が兼明親王となられた同じ貞元二年(977)、関白兼通は重い病に伏した。『大鏡』はこの時また兄弟の苛烈極まる争いを伝える。兼家の牛車が兼通邸を素通りして内裏へ向った。兼通危篤と知った兼家は、天皇に後任の関白は自分にと奏請するつもりであった。いくら犬猿の仲であるとは云え、この時ばかりは兼家が見舞いに来たのだろうと思った兼通は激怒し、従者四人に支えられながら病床を出て、兼家を追って内裏へ向かう。ちょうど兼家が御簾越しの天皇に奏上している最中、兼通が到着。苦りきった兄の恐ろしい形相に、兼家は死神か夜叉でも見たように逃げ出してしまう。兼通は蔵人頭を呼びつけて、最期の徐目(諸官を任命すること)を行い、関白には頼忠、そして兼家が兼任していた右大将を取り上げて他の公卿に与え、兼家を治部卿と云う名ばかりの職に落とした。臨終の床を這い出て、ここまで常軌を逸したこの日の兼通の行動ほど、権力に対する凄まじい執念はないであろう。兼通はその執着心のみで存命し動いていたに違いない。兼家は内裏を退出してほどなく他界した。五十三歳であった。兼通が世を去って、ようやく兼家は表舞台へ帰ってくる。

円融天皇は御在位十六年中に元服され壮年に成られたが、政は摂政が関白に変わるだけで、ついに親政の形態には至らなかった。しかし退位されたあと出家されると、勅願寺として洛北の衣笠山に円融寺を建立され、自ら寺の経営を主導された。円融天皇法皇となられてからも多彩な御幸を行ったり、院司を遣わされて花山天皇や、次の一条天皇の御代の政に口入され、御在位中の鬱憤を晴らされるように存在感を示された。これには摂関家もたじろいだと云う。しかし冷泉天皇円融天皇の時代に、摂関常置の慣例がほぼ定まったのも事実である。正暦二年(991)、円融法皇は三十三歳の若さで崩御された。

余談であるが、円融寺は今の龍安寺の前身にあたる。法皇の陵墓も営まれたが、寺は次第に衰退し、いつしか廃寺となった。平安末に藤原実能が址地に山荘を建て、徳大寺という寺を建立、実能の子孫は徳大寺家と称されるようになる。西行(佐藤義清)も祖父の代からこの徳大寺家の家人として仕えていた。義清は北面の武士になってからも、徳大寺公重の菊の会に招かれて、歌を披講し、歌人としての評価を上げていったのである。室町時代管領細川勝元が、徳大寺家より山荘を譲り受けて、この地に龍安寺を建立した。幾重に重なる歴史に思いを馳せること、皇位継承を辿れば、様々な史実が浮き彫りになってくる。