弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

多摩丘陵に棲む〜物を持たぬ暮らし〜

引越しにあたり、私はずいぶん断捨離をした。もうこれでもかと云うくらいに捨てた。新しい場所では、蔵書と茶道具以外はほとんど要らないと云う勢いで捨ててみたけれども、まだけっこうある。引越しは暮らしを見直すには実に有効かつ最大の手段である。掃き出しても吐き出しても、まあこんなに要らないモノ、使っていないモノがあるのだと痛感した。毎月断捨離をしている友人からはこう教わった。モノを持ちすぎたり、捨て切れずにいれば、心身も詰まり、良い暮らしはできず、生き方や仕事にまで影響する。身軽になることは思考を巡らせ、冷静に行動できるようになる。人間も動物も食べて、必要な栄養分を吸収し、不要な物は排出する。実によくできたこの当たり前のサイクルを人の暮らしでも定期的に行うことは、自らを律して、人生においても贅肉を削ぎ落とす効果があると友人は言うが、実践してみると、なるほどそんな気がしてくる。 コロナが落ち着いたら母を呼んで同居する予定であるが、母は昔から断捨離の鬼。それは歳をとるごとに高まってゆき、今ではほとんどモノを持たない暮らしをしている。私も母や友人に肖って、引越しを機にこれから毎月断捨離を実践することを決意した。

私は一年中方々の寺、神社を訪ね歩く。そこには信仰心はあまりない。信仰心よりも歴史的な背景に興味があって、史跡に直に触れてみたい気持ちに駆られて寺社へ行く。そして日本の原風景が残る寺や神社の周りには自然も町も、私の好きな匂いが溢れている。風の音を聴き、鳥の歌を携えて歩く。そんな豊かな自然が同居する場所は、都会の喧騒を忘れさせてくれる。美味い空気を存分に吸い込み浄化されてゆく。一方で町中の寺社はその場の発する風情、情緒にノスタルジーを感じ、そうした門前町には古い歴史と信仰する現代人の暮らしが混在していて、極めて人間臭いが、それがたまらなく面白い。ゆえに私は私の好奇心を埋めながら、心身を癒すために寺社へ向かった。今まではそうであった。が、スピリチュアルに生きている例の友人に言わせれば、「神社仏閣を参詣する前に、まずは自分自身をすっきりとしてから行くべきである」と。そうでなければ、「神仏は何しに来たの?」と思われるのではないかと。むろん、神や仏は尊大で慈悲深く参詣者を迎えてくださるに違いない。どんな人も受け入れてくださるだろう。しかし、それでいいのだろうかとも、私自身長く考えてきたことだった。信仰心もなく闇雲に寺社を訪ねて、神仏に対する冒涜とまでは思わなくとも、少々恐縮していたことは事実である。熱心にお参りされる方を目の当たりにすると、表敬訪問的に手を合わせている自分は偽善者であるとも思ったりすることもある。一方で、寺社を訪ねるのにあまり深く考えずとも良いと楽観的にも思うのである。私の寺社詣では漫然としてきていて、昔ほど心を揺さぶられなくなってきたことは、半ば飽和状態になりつつあったのかも知れない。

そこで聴いたのが「かの友人」の一言。これは効いた。自分自身がすっきりせずに、整えもしないで、寺社を詣でたところで、何も感じないのは当然で、お参りしても何も得られない。今日この頃思っていたことであったから、一条の確かな光の道標が見えてきた。私の心身の余計なモノを捨て去りながら、まっさらな気持ちで、私は暮らしてゆきたい。新居に定めた多摩丘陵は、それを実現するに格好の場所であると思う。