弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一七日関白一

藤原道隆が亡くなったのは当時流行していた赤斑瘡(あかもがさ)という疫病によるらしい。この病は麻疹だとか。長徳元年(995)のことで、夏には空前の猛威をふるったと云う。道隆の後は嫡男の伊周が継ぐものと、道隆も伊周もその周辺も思っていた。道隆のあとには有力な弟公卿の道兼、道長が控えており、道隆は自分の後を襲うのはこの二人の弟であることを強く認識しており、生前に自らの身内に優位な布石を随所に打っている。その最たるものが娘定子の入内でみごとに一条天皇中宮と成した。息子の道頼、伊周を台閣にいれ、また妻の父高階成忠をひきたてるなど八方に画策している。そしてもっとも期待して目をかけたのが、英邁な次男伊周であった。嫡男の道頼と次男伊周は異母兄弟で、道隆が次男の伊周に重きを置いたのは、母方の高階家を重用したいがためであった。ちなみに道頼の母方は山城守藤原守仁の娘だが、高階成忠は公卿に列せられており、身分の差が大きくものを云う平安時代にあっては、伊周が兄よりも出世してゆくのは当然であった。道隆は伊周を内大臣にまで引き上げて、この時点で権大納言であった道長を追い抜く。道隆は死の床にあって、伊周を関白に推すも、一条天皇は時期尚早としてこれを拒否した。しかし道隆の代行という形は認められて、道隆の病中のみ内覧の権限を与えると勅命された。伊周は道隆の病中のみではなく、今後は道隆と交替すると云う勅命に変えていただきたいと画策したが、一条天皇はこれも断固拒否されている。十六歳の聡明な君主であったが、中関白家のあまりに強引で、派手な印象が天皇の印象を悪くされていたし、道長はじめ廟堂の公卿にもこんな若僧に主導権を握らせるのは不愉快であるという考えがあったように思う。

ここまで周到に一族の将来の道筋を敷いた道隆であったが、道隆の死後すぐに関白に任命されたのは弟の右大臣藤原道兼であった。伊周の悲嘆は尋常ではなかったと云う。道兼の関白就任によって臍を曲げてしまった伊周は不良蛮行になっていった。道兼は、花山天皇退位劇の立役者であり、父兼家の後継は自分であると自負していたから、待望の関白就任であった。一説によれば、父を継いで兄道隆が関白に任じられたことに不快感を抱き、父の喪中にも関わらず、自邸にて遊興に耽っていたとも云われる。ところが、道兼は関白に就任して十日あまりで急死してしまった。道兼も赤斑瘡に罹患していたのである。関白として何もしないまま亡くなった道兼は俗に「七日関白」と云う。それにしてもこの時の疫病蔓延は凄まじいもので、市中の大流行はむろんのこと、四位、五位の貴族も多く死亡した。廟堂でも、大納言の藤原朝光、藤原済時、そして左大臣源重信も亡くなった。長徳元年(955)の正月に十四人いた公卿は、同年のうちに八人が相次いで病死したのである。これによって残されたのは内大臣藤原伊周権大納言藤原道長であった。伊周二十二歳、道長三十歳。官位こそ伊周が上だが、一条天皇との関係では道長が叔父で、伊周は従兄であるから、外戚として力を発揮するには道長の方が上である。藤原北家の骨肉の争いは、兼通と兼家によって繰り広げられた第一幕に続き、ここに道長と伊周による第二幕が始まったのである。

一条天皇道長か伊周か迷われていた。ここで強力に道長を推したのが、国母で道長の姉の東三条院詮子であった。詮子は四歳下の道長とは幼少期より仲が良く、道長が公卿となってからも何かと後ろ楯となったきた。東三条院権大納言道長に内覧の宣旨を出すことを躊躇われていた天皇の寝所にまで赴いて、「次の政権は道長に」と涙ながらに説得したと『大鏡』にはある。一条天皇は「宮中の雑事、堀川大臣の例に准じて行なふべし」という内覧宣旨を出され、道長は内覧となった。六月には右大臣に昇進し、伊周を超えて廟堂の筆頭大臣になる。宣旨にある堀川大臣とは兼通のことで、かつて兼道はすぐに関白になったわけではなく、大納言、内大臣として内覧を勤めたと云う例を引き合いに出されたのである。道長はこの時の詮子への恩を忘れることなく、数年後に詮子の四十の宴を自邸の土御門邸で盛大に行っている。

が、これで伊周が引き下がるわけではなかった。『小右記』には「右大臣・内大臣が上座に於いて口論す。宛ら乱闘のごとし」と書かれており、公卿の控の間である陣座においてはさらに一触即発となって、互いに今にもつかみあいになりかねないような口論となったと云う。ついにその三日後、道長随身が、伊周の弟隆家の従者と七条大路で乱闘となり、殺害される事件が起きた。さらに、母方の祖父高階成忠邸に道長を呪詛する陰陽師がいて、これを企んだのが伊周であると噂された。そんな折、翌長徳二年(996)正月、花山院狙撃事件が起きたのである。この事件については、前にも書いたが、改めて述べると、伊周は故太政大臣藤原為光の娘のもとへ通っていたが、花山院も同じ娘に通っていると勘違いして、おどしてやろうと従者に矢を射かけさせたのである。むろん威嚇のためであったが、『栄花物語』には何と矢は花山院の御袖を射抜いてしまったとある。さらに『小右記』には、花山院と伊周、伊周の弟の隆家が為光邸で鉢合わせとなり、従者が乱闘となった。この時、院の御童子二人が殺害されて、首を持ち去られたとある。伊周の不敬不埒極まりない驕りに対して、道長は激怒しながらこの機を逃さなかった。検非違使に命じてこの事件を捜査させ、伊周は家宅捜索を受け、多くの兵を養っていることが判明、謀反の嫌疑をかけられた。これには伊周に弁解の余地はない。同年二月十一日、一条天皇より廟堂に対して、「伊周と隆家の罪名を勘へよ」との勅命が下った。しかし三月に東三条院の病気平癒のため大赦が行われ罪を減じられるかにみえたが、実は東三条院の病はまたしても伊周の呪詛によるものとの噂が流れ、伊周邸の床下から呪詛の形代が見つかったとも云われる。いささかでっち上げとも思えなくもないが、若い伊周はすっかり不貞腐れてしまったのであろう。それに伊周からすれば太閤道隆の正統な後継者たる自分に如何なる非があるものかと声高に主張したかったのではないか。もしそうならば確かに一理あって伊周が気の毒にも思える。が、さらに事態を悪くしたのが、伏見の法琳寺と云う大元帥法を行う寺院で伊周が自らのために同法を修したと云うことだ。これが伊周左遷の決定打となった。ちなみに大元帥法とは真言密教の大秘法で、大元帥明王を本尊としして、怨霊や逆臣の調伏を行い、国家の安泰を祈念する修法で、仁寿元年(851)以来、毎年正月に宮中において行われていた。この秘法は鎮護国家を祈るものであり、したがって天皇のおわす宮中でのみ行われ、臣下が修法することは禁じられていたのである。

四月二十四日、公卿が召集されて、道長天皇の午前において徐目を行い、伊周を大宰権帥に、隆家を出雲権守に左遷した。他に高階信順、道順も伊豆と淡路へ配流となっている。伊周は恭順しつつも憤慨し、中宮定子の御所に篭り、重病のため配流先へは行けないと最期の抵抗を見せたが、一条天皇は許さなかった。むろん道長の強い奏上があったゆえんもあろうが、母堂東三条院を呪詛していたことが、許せなかったのだと思う。もともと一条天皇中宮定子への愛情からか、その兄の伊周に期待し、摂関就任を希望もされていたが、この事件によって失望もされたのかもしれない。四日後、ついに中宮御所に捜索が入り、隆家は捕らえられ、伊周は逃走したが、逃げ切れぬとあきらめて西へ向った。その後も病と称していっこうに進まず、結局二人は赴任せずに播磨と但馬に留まって療養することが許されている。このことは定子の出家を鑑みてのことに違いない。定子は自らの御所が捜索を受けたことに悲嘆し、恥辱と思われて出家しているのである。伊周はどこまでも甘々であったのか、何とか再起を図ろうとしたのか、密かに上洛して、またもや中宮御所に隠れていたが、これもすぐに露見して、ついには大宰府に強制送還されている。この一連の事件を長徳の変と云う。このあと伊周は一年余りで都へ戻っては来るのだが、そのあたりはまたにしよう。

もしも道隆の存命中に定子が敦康親王を産んでいれば、まったく道長の出番は薄れたであろう。道隆の後を継いだ伊周が外戚として中関白家を率いたに違いない。しかし天は藤原道長へ強運を授けたのである。かくして道長は長徳二年(996)七月二十日、左大臣に昇進し、正二位に叙せられた。廟堂において位人臣を極め、ついに「一の人」となったのである。