弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

皇位継承一藤原道長一

藤原道長摂関政治の完成を実現した。平安と云う時代を代表する人物であり、まさに王朝時代の申し子であったと云えよう。祖父、父が敷設したレールの上を着実に歩んできた道長だが、当初はその本線ではなく支線であった。しかし、兄二人の相次ぐ急死と、本線を継ぐはずであった甥の伊周が墓穴を掘るように脱線してしまったことで、「一の人」となった道長はまさに運も味方したと云えよう。

名だたる研究者も道長ほどの強運の持ち主はいないと言う。道長は元来病弱であった。二人の兄よりも先に死ぬだろうと思われていた。多くの持病を抱え、壮年になると糖尿病も患っている。道長は何か大きな事を成すと伏せってしまうことが多かったと云う。彼の自筆の日記『御堂関白記』にはその事実が赤裸々に綴られている。それでも当時としては高齢の六十二歳まで生き抜いたのだ。これは道長に天命を全うすべく神仏より運を授けられたとしか言いようがない。それを道長本人も充分に自覚して、摂関政治の完成に邁進したのである。世もまた不世出の大貴族に傾倒し、藤原道長を中心に据えた。およそ四百年続く平安時代、人々は戦乱や飢饉、疫病蔓延など、常に混沌とした日々に嫌気がさしていた。貴賤の別を問わずに、泰平安穏な世が訪れることを切に願った。そして強力なリーダーが現れて、世を牽引することを暗に希望していたに違いない。

 伊周が失脚した長徳の変のあと、道長は空席となっていた左大臣に昇進した。内覧、左大臣となり、道長が名実ともに廟堂の頂点に立った。一条天皇の母の詮子が道長の姉であることから、天皇とはすでに外戚関係ではあったが、さらに磐石とするために自らの娘を天皇に嫁がせて、皇子が生まれたならば皇位につけて、外祖父として安定的な政権運営をしようと試みることになる。そして長保元年(999)、道長は長女の彰子を女御として入内させた。彰子この時十二歳。一条天皇にはすでに兄道隆の娘定子が中宮として入っており、天皇から寵愛を受けていた。定子の御座所には清少納言が女房として仕えており、文学や和歌に造詣深い天皇を惹きつけていた。翌年道長は定子を皇后、彰子を中宮にするという前代未聞の離れ業をやる。元来「中宮」と「皇后」は同義語であり、一人の天皇に皇后と中宮が並ぶ「二后並立」はありえなかった。これを力強く推進したのも、道長の権力基盤固めに対する執念が如実に現出した証拠である。

しかし一条天皇の定子への御寵愛はますます深まり、十三歳の彰子のもとへはほとんど通われることがない。入内から六年経っても皇子が生まれる気配はなかった。道長は定子に対抗するにはいかにすればよいか思案した。若い彰子は定子の色香には及ばない。そこで、彰子には定子を超越するほどの教養を身につけさせることにした。白羽の矢を立てたのは紫式部である。後に『源氏物語』を著すことになる紫式部は、当時宮中でも評判の作家であり、歌人であった。その素養、教養は朝廷ではつとに聴こえており、清少納言と対抗するには唯一無二の人物であった。女流文学と云うよりも王朝文学を代表するこの二人の女房兼家庭教師が、それぞれ定子の御座所と彰子の御座所において文学サロンを展開してゆくことになる。どちらが当代一流の教養人たる一条天皇を惹きつけることができるのか、その命運は後宮のサロンに託されたのである。そしてその命運こそが、道長自身の命運なのであった。平安時代において、女性としての魅力、いわゆる美人の三大要素と云われるものは以下のとおり。

一、豊かな長い黒髪

二、和歌の達人

三、漢詩が詠める

つまりは、顔は不美人であっても美しい黒髪と教養があれば、美人であるとされ、男性からモテるのである。現代人の考える美人とはずいぶん違う。紫式部清少納言もこの点において、平安の超美人であった。

道長は彰子のサロンに莫大な資金を援助し、内外から書物、典籍を集め、彰子を囲んで女房たちに度々和歌や漢詩を詠む会を開かせすべてをバックアップした。金に糸目はつけずに、定子のサロンにはない書物を次々に取り寄せ、パトロンとして暗躍する。紫式部が『源氏物語』という大長編を続けて書くことができたのも、当時たいへん貴重であった紙や文房具を道長ぎ与え続けたおかげである。『栄花物語』には彰子のサロンが面白いと云うことを聞かれた一条天皇がある時彰子のもとを訪れ、紫式部がそろえた数々の珍しい書物を目にされて、「あまりに面白がっていては、政を忘れて愚か者になってしまう。が、どれもこれもすばらしい。」と仰せになられたとある。これより天皇は彰子のもとへ足しげく通われるようになったと云う。そして彰子の入内から九年が過ぎた寛弘五年(1008)、ついに一条天皇との間に皇子が誕生した。これが後の後一条天皇になる第二皇子の敦成親王である。待望の外祖父になった道長はこのあと権勢の絶頂期を迎えるのだが、親王御誕生と聴いた瞬間歓喜し、正妻の倫子と共に感涙に咽んだと云う。そして何と翌寛弘六年(1009)、第三皇子の敦良親王が御誕生。後の御朱雀天皇である。彰子は年子で皇子を産んだのである。道長にとって彰子は聖母にさえ見えたであろう。これにて道長の目指す外祖父としての政権基盤は磐石となった。

藤原道長と云う人は、平安王朝最高の権力者に上り詰めながらも、非常に情に厚い人で、涙もろい。左遷へと追いやった伊周が一年後に都へ戻ってきたが、その後は追い落とすことはせず、共に賀茂の祭を見に行ったり、宴席に招くなどして決して粗雑にはしなかった。道長は相手が敵ではなくなれば、撃ち方をすぐにやめて、余計な殺生はしない。根っからの貴族であった。この点は、平清盛源頼朝足利尊氏徳川家康など時代の覇者でたちと同類のようである。 一条天皇には定子との間に第一皇子の敦康親王がすでにいたが、外祖父の道隆は他界し、後継の伊周も失脚したため後ろ楯を失っていた。定子が亡くなると、敦康親王は彰子のもとで養育された。一条天皇がそのように願われたに相違ないが、道長自身も幼くして母を失った皇子を哀れに思ったのかこれを許している。そこにはもはや敦康親王は敦成親王の対抗にはならないという安堵感もあったであろうが、露骨とまではゆかぬとも第一皇子で世が世であれば東宮に立つるべきところを、大宰師などの閑職に留め置かれ、決して廟堂において発言権を与えられることはなかった。果たして敦康親王がお幸せであったかどうかわからない。この不遇の皇子はその後、二十歳の若さで薨去された。中関白家の血を引く皇子はいなくなった。 

 一条天皇は三人の可愛い皇子を残して、寛弘八年(1011)六月二十日病のため崩御された。三十二歳であった。その在位期間は二十五年だが、紅顔可憐な少年の頃に即位されて、外祖父の兼家、外戚の道隆、道兼、道長という三人の叔父たちのバックアップと監視と圧力を受け続けての窮屈な御生涯であったと思う。そして摂関家と云うものを確立せしめたのは、一条天皇の御在位が半世紀にも及んだことも一因でないかとも思う。

露の身の草の宿りに君をおきて 塵を出でぬることぞ悲しき

この歌は一条天皇の辞世の御製であると藤原行成の『権記』には記されている。果たして彰子に遺したのか、幼い三人の皇子たちか、はたまた愛する定子への挽歌を兼ねたのかわからないが、私には第一皇子敦康親王の行く末を慮って吐露された歌のように思われてならない。

藤原道長は伊周との権力闘争に打ち勝つと、その後、死ぬまで誰とも権力闘争をしなかった。摂関政治の隆盛を招いた道長家を御堂流と云い、道長以後は子々孫々この御堂流が藤原摂関家と呼ばれることになる。もう敵はいなかったと云うのが事実であるが、道長は和を持って尊しとなすと云う初代摂政聖徳太子を敬い、肖ったのではないかと私は思う。道長は伊周を完全に追い落とすことはしなかった。当面の敵である時は容赦はしないが、角がなくなった鬼には融和的に接して、無駄な遺恨を取り除く気配りをみせたのも、将来的に道長と子孫いわゆる御堂流の繁栄を考えてのことでもあった。 こうして王朝時代は藤原道長を主役に満開を迎えるのである。