弧月独言

ここは私の深呼吸の場である。日々の雑感や好きな歴史のこと、旅に出れば紀行などを記したい。

なおすけの古寺巡礼 新選組のふるさと①

龍源寺

三鷹市野川公園の近くの人見街道沿いに、慎ましい佇まいをみせる龍源寺がある。此処に新選組局長近藤勇の墓が在る。近藤勇の墓と称されるところは方々に在るが、此処が菩提寺である。近藤勇天保五年(1834)、武州多摩郡上石原村(調布市)の豪農宮川家の末子に生まれた。幼名は勝五郎。たいそう腕白な餓鬼大将であったが、決して弱い者いじめはしなかったと云う。リーダーの素地は生まれながらに備わっていたと思われる。龍源寺のすぐそばに生家跡が在るが、戦前、近くの調布飛行場の拡張時に強制的に立ち退かされ、家屋や納屋は滅失した。現在、わずかな敷地に産湯の井戸と、近藤勇を神として祀ったささやかな社があるだけだが、腕白だった勝五郎少年の姿が瞼に浮かぶ。勝五郎は無心に剣術に取り憑かれていった。いつか幕末史に名を残すことになることは夢にも思ってはなかったであろうが、胸の内には彭湃として湧き起こる新時代の気運を感じていたのではあるまいか。生家の敷地内には道場もあったそうだ。近藤勇の遺志は、甥の勇五郎が継いで、天然理心流の道場”撥雲館”を営んだが、こちらも昭和後期に廃止、建物は生家跡の斜向かいに残されている。今、天然理心流は有志で継承されている。江戸に出て試衛館の道場主となり、浪士組に参加、そして新選組へ。資質はともかく、近藤勇はずっと将として人を率いた。それは時勢が彼を導いた由縁もあるだろうが、何よりも彼には人を惹きつける才が生まれ持ってあったに違いない。遺された古写真の人懐こい顔からも想像できる。土方歳三に「この人のために俺は鬼になる」とまで言わしめた。人望篤き人物であった。濃密な三十五年の生涯を終え、無言で帰ってきた近藤勇を、寺の付近を流れる野川に架かる相曽浦橋のたもとで、一族が出迎えたと云う。餓鬼大将の頃遊んだ野川だ。此の村から青雲の志を持って旅立ち、精一杯生き抜いて、此処へ帰ってきた。

石田寺

東京日野市の街外れにある此の寺に、新選組副長土方歳三の墓が在る。土方家は寺のすぐそばにあり、生家には土方歳三資料館も併設されている。土方歳三は、天保六年(1835)、武州多摩郡石田村の豪農の末子に生まれた。十人兄弟の末っ子だが、奇しくも近藤勇も末っ子。この二人が後に新選組を率いたと云うのも因縁めいたモノを感じる。土方さんと云う苗字はこのあたりにはたくさんあって、日野市では表札や看板でしょっちゅう見かける。歳三の墓は土方家の墓所にあるが、墓の周囲もほとんどが土方さん。幕末史において、土方歳三坂本龍馬と人気を二分する。端正な面差しからか、ことに女性の人気は絶大で、もはや恋をしていると言ってよいほど熱烈なファンが多い。沖田総司新選組美男五人衆も人気はあるが、なんと言っても土方歳三は写真が遺っている。これが女性の人気を決定打にした。彼を雄々しく育んだのが此処なのである。住宅は増えたが、浅川の畔から眺める多摩丘陵、丹沢から高尾にかけての峰々、その向こうに没する夕陽は、歳三が少年時代に眺めていた景色とさほど変わってはいないだろう。歳三は豊玉と云う俳号で多くの俳句を詠んだ。

差し向かう心は清き水鏡

新選組副長としての覚悟か、戊辰戦争に突入してゆく時の鼓舞か私は知らないが、才はどうあれ、どの句も素直に心境を吐露している。長閑な多摩で育ったことも一因であろう。江戸への丁稚奉公や石田散薬の行商をしながら剣術を会得した。常にギラギラと前だけを見据えた。文久三年(1863)、”壬生浪士組”は正式に会津藩預りとなり、”新選組”と命名された。歳三はこの日から鬼になった。厳格な局中法度を定め、芹沢鴨新見錦山南敬助ら反りの合わぬ幹部を謀略をもって粛清し、近藤勇を局長として奉り、自らは副長としてこれを支え、隊士を統率した。私はやっぱり鬼になった歳三に興味がある。幕末最強と云われた新選組とは、土方歳三が作った夢の武士団であった。世に名を残したいとか、人に認められたいとか云う様な、そんな気持ちは彼にはなかったと思う。歳三は戦闘することが生きていると実感することと心得ていたのかも知れない。まさに鬼神のように縦横無尽に活躍し、函館で命燃え尽きる瞬間まで自らの意志と意気地を貫いて死んだ。ラストサムライとは彼のことだ。生まれは侍ではなかった彼こそが、最期のもののふであった。土方歳三の墓は石田寺に隣接する日野高校を見守るように、あたかも「少年たちよ大志を抱け」と言わんばかりに立っている。墓の傍らには樹齢四百年以上と云われるカヤの木が今も逞しく聳える。このカヤの木を歳三も見たであろう。私はその木肌に触れてみた。

高幡不動

正式には高幡山明王院金剛寺真言宗智山派別格本山である。草創は大宝年間以前とも云われ、南多摩きっての古刹である。関東三大不動にも数えられ、多摩の不動信仰の中心でもある。 山門や不動堂は室町時代の建立で、さすがにその頃らしい柔らかな曲線美を魅せている。此処が土方歳三菩提寺。前述のとおり歳三の墓は高幡不動から浅川を渡ってすぐ、生家近くの石田寺に在るが、高幡不動の末寺である。山門を潜るとすぐに土方歳三の大きな銅像が迎えてくれる。その傍らには、松平容保が題字を揮毫した近藤勇土方歳三への顕彰とレクイエムとも云える「殉節両雄の碑」がある。 広い境内は歳三少年にとっては格好の遊び場であった。歳三も腕白な少年「バラガキ」であった。或る時、歳三は此の山門に登って、楼内の鳩の巣から卵をつかんで、参道をゆく人々に投げつけたこともあったと云う。青年になってからも、高幡不動の裏山で剣の修行をしたとも伝わる。寺宝には歳三が宇都宮城攻略時に掲げた「東照大権現」の幟や、歳三の手紙、井上源三郎が愛用した脇差、天然理心流の木刀もある。 高幡不動には何度も来ているが、私は此度初めて大日堂へ入った。大日堂の奥には近藤勇土方歳三井上源三郎沖田総司らの位牌と新選組隊士の大位牌が安置されており、拝ませてもらった。位牌と云うものは、墓石よりも哀切な感じがする。個々の戒名が刻まれているからであろうか。私は彼らと直に対峙している気がした。最期のサムライ土方歳三の不動心は、高幡不動への強い信心が彼に根差していたからに違いない。